「将軍の玉座を囲んだ絵」が公開される——そう要約すると、今回の展示のいちばん面白いところを取り逃がす。二条城が9月10日から公開する原画は、普段なら将軍の権威を演出する大広間一の間・二の間を飾ったものだ。しかし、400年前の寛永3年(1626)9月9日、この空間の序列は一時的に組み替えられた。

能を観覧する後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の御座が置かれたのは、大広間の二の間だった。通常、公式の対面では将軍が上段の一の間に南面して座り、大名や公卿衆が下段の二の間に控える。その二の間が、寛永行幸の四日目だけは天皇、中宮、女院のための観覧席になった。大御所徳川秀忠と三代将軍徳川家光は、通常の将軍座である一の間ではなく、さらに南の三の間から能を見た。

秋期原画公開の正式名称は「玉座を飾った障壁画 ~〈大広間〉一の間・二の間~」。ここでいう「玉座」は、1626年の行幸における天皇の御座を指す。将軍の「throne」と読み替えると、歴史上の主役を逆にしてしまう。

最初の訂正: 今回の展示は「将軍の玉座の絵」ではない。大広間一の間は通常、将軍の座となる空間だが、2026年秋期展示が再構成するのは寛永行幸の際に二の間へ設けられた後水尾天皇の御座と、その周囲を構成した障壁画である。また、展示は9月10日開始で、9月5日時点ではまだ開幕していない。
400年1626年9月の寛永行幸から2026年まで。
60日間9月10日から11月8日までの秋期公開期間。
1,016面二の丸御殿障壁画のうち重要文化財に指定されている総数。

9月10日から公開される三つの作品群

京都市が9月3日に発表した秋期展示で公開するのは、二の丸御殿〈大広間〉一の間の《松竹錦鶏図(しょうちくきんけいず)》《花卉図(かきず)》、二の間の《松孔雀図(まつくじゃくず)》。会期は11月8日までの60日間。会場は城内の「二条城障壁画 展示収蔵館」で、入館時間は午前9時から午後4時30分、閉館は午後4時45分。展示収蔵館の入館料は100円で、別途二条城の入城料が必要になる。

作品名だけを並べると、松、竹、花、錦鶏、孔雀という豪華な花鳥画の展示に見える。しかし、この部屋では絵が「鑑賞物」として壁に掛かっていたのではない。襖、壁貼付、長押上、帳台構など、建築そのものの表面が絵画だった。誰がどこに座るか、どの鳥が視界に入るか、松の幹や枝がどの方向へ伸びるかまでが、儀礼空間の意味をつくった。

秋期原画公開「玉座を飾った障壁画」

項目内容
会期2026年9月10日(木)~11月8日(日)〔60日間〕
会場元離宮二条城内「二条城障壁画 展示収蔵館」
一の間《松竹錦鶏図》《花卉図》
二の間《松孔雀図》
入館時間9:00~16:30(16:45閉館、二条城入城受付は16:00まで)
展示収蔵館入館料100円(別途入城料。免除規定あり)
2026年度テーマ「シリーズ 寛永行幸400年」

普段は将軍が上、1626年の一日は天皇が中心になった

大広間一の間・二の間は、二の丸御殿でもっとも格式の高い公式対面所である。一の間は上段、二の間は下段。書院造の一の間には床の間、違棚、付書院、帳台構が備わり、通常の対面では将軍が一の間で南を向いて座した。

障壁画もその上下関係を視覚化する。一の間には錦鶏、二の間には孔雀。二条城の過去の公式解説は、これらの珍鳥が外国から権力者への献上品として知られたことから、将軍の権威を示す意味を帯びたと説明している。さらに一の間から三の間は、巨大な松を描きながらも大きな余白を取り、桃山的な画面充填から一歩離れた探幽の新しい空間感覚を示す。

ところが1626年9月9日、能の観覧では通常の座次がそのまま使われなかった。公式の2026年展示解説によれば、二の間の廊下側と部屋境に御簾を垂らし、その近くに上畳と茵(しとね)を置いて後水尾天皇の御座とした。天皇の右には中宮、左には天皇の母である女院の御座が設けられた。

天皇の背後には一の間の大床があった。巨大な老松が描かれた壁面には、中国・南宋の画僧牧谿の作とされた三幅対が掛けられていた。そして二の間《松孔雀図》のうち、西側の長押上に描かれた飛翔する孔雀が、まるで天皇一行の御座を上から見守るような位置にあったと二条城は説明する。

一の間・二の間の障壁画は、もともと将軍権力を可視化する装置だった。寛永行幸の一日は、その装置を壊さずに座次だけを組み替え、天皇を中心に見える空間へ転換した。

「将軍が座る一の間」に、将軍は座らなかった

この反転をさらに鮮明にするのが、2026年夏期展示のテーマだった「将軍、着座す ~〈大広間〉三の間~」である。二条城の解説では、能上演時、大御所秀忠と将軍家光が座ったのは三の間。通常、将軍が着座する一の間ではなく三の間に座したのは異例だった。

つまり、同じ大広間の中で、二の間に天皇と中宮ら、三の間に秀忠と家光、その背後や周辺に随行者たちが配置された。外の南側には能舞台。建物全体が一夜限りの巨大な観覧席へ変わった。

2026年度の原画公開は、この能観覧を春・夏・秋・冬の四期に分解してたどる。春は式台の間——末席や付きの者たちの背後にあった巨大な松。夏は秀忠と家光が座った三の間。秋は天皇一行の御座が置かれた一の間・二の間。そして冬は、朝廷側の人々をもてなした黒書院の一の間・二の間。年間展示そのものが、1626年9月9日の観客席を少しずつ歩き直す構成になっている。

なぜ徳川家は、天皇を二条城へ招いたのか

二条城は1603年、初代将軍徳川家康が京都御所の守護と将軍上洛時の宿泊所として築いた。だが、現在見る城の大きな骨格は、1626年の行幸を前にした寛永の大改修で形成された。

背景には朝廷と徳川家の婚姻関係がある。二代将軍徳川秀忠の五女徳川和子(とくがわ・まさこ)は1620年、後水尾天皇に入内した。京都市の2026年春期展示解説は、これにより徳川将軍家が天皇家の外戚となったと説明する。和子は中宮となり、1626年の行幸にも加わった。

大御所となっていた秀忠は、後水尾天皇、中宮和子、天皇の母である女院を迎えるため、1624年から城の大規模な増改築を進めた。城域を広げ、御殿を整え、庭園を改修し、天守や行幸御殿などを整備した。公式年表では、1626年に本丸・二の丸・天守が完成し、現在の規模になったとされる。

行幸は9月6日から10日までの5日間。舞楽、乗馬、蹴鞠、和歌、管弦、能などが催された。三日目には天皇が天守へ登り、最終日にも再び登楼した。二条城はこの5日間を、城の歴史上「もっとも華やいだ」時期と位置付ける。

これは単なる歓迎会ではない。徳川家にとって、天皇を自らの京都の城へ迎え、最高水準の建築、絵画、工芸、芸能、贈答で饗応することは、幕府の富と統治の安定を目に見える形で示す巨大な政治儀礼でもあった。二条城公式サイトも、天皇を壮麗な城へ迎えることが幕府支配の安定を世に示したと説明している。

24歳の狩野探幽が、巨大な政治空間を任された

この改修で二の丸御殿の障壁画制作を率いたのが狩野探幽(かのう・たんゆう、1602~1674)だった。1626年当時、満年齢なら24歳、数え年で25歳。京都国立博物館によれば、探幽は狩野永徳の孫、狩野孝信の長男として京都に生まれ、16歳で徳川幕府の御用絵師となった。

二条城の研究では、探幽が二の丸御殿の中心である大広間一の間から三の間を担当したことは、ほぼ定説とされている。若い棟梁は、一族の画家たちを率いながら、将軍家の最重要儀礼空間に新しい狩野派の規範を刻んだ。

大広間の松は巨大だが、すべてを埋め尽くさない。大きな金地の余白を残し、枝や幹を横方向に屈曲させる。2025年度の二条城解説は、一の間から三の間を「余白を生かした新しい絵画様式」と位置付け、それに対して四の間の《松鷹図》は、画面からはみ出すほど松や鷹を大きく描く桃山的な様式を継承すると説明している。

つまり同じ大広間の中で、桃山から江戸への美意識の切り替わりを見ることができる。探幽の仕事は豪華さを弱めたのではない。金箔を減らすのでも、権威を小さくするのでもなく、何も描かない金地を構図の力へ変えた

錦鶏と孔雀——珍鳥が「誰の席か」を語った

大広間一の間の帳台構には錦鶏、二の間には孔雀が描かれた。二条城の調査報告は、襖などの建具が取り外されても、一の間の錦鶏と二の間の一部の孔雀が見えるように構成されていたと分析している。

錦鶏は将軍の座である一の間だけに描かれ、孔雀は二の間から三の間へ続く。天井画の区分も、一の間と二・三の間で異なる。絵と建築装飾の両方が、最上位の一の間と、それに続く下段側の空間を区別していたという。

この「権威の鳥」が、寛永行幸では別の読み方を持つ。通常は将軍権力を支える孔雀が、天皇一行の御座の上を飛ぶ。幕府が整えた威信の装置が、その日だけは天皇をもてなすために使われる。

Japan.co.jpの分析: ここに寛永行幸の政治的な巧さがある。幕府は将軍の空間を消して天皇の空間を新築するのではなく、自らの権威を示す最上級の空間を一時的に天皇中心へ再演出した。徳川の力を示す装置であるほど、それを天皇のために差し出すこと自体が、幕府の余裕と秩序を示す演出になった。

同じ部屋が、240年後には徳川幕府の終わりを見る

大広間一の間・二の間は、1626年の栄華だけを記憶しているわけではない。1866年12月、一橋慶喜が第15代将軍となる将軍宣下に関わる儀礼もこの対面所で行われた。そして約10か月後の1867年10月、徳川慶喜は二の丸御殿大広間で政権を朝廷へ返す意思を表明した。

二条城は、徳川家が天皇を迎えて統治の安定を示した場所であり、同時に約240年後、その徳川政権が朝廷へ政治権力を返す転換点の舞台でもある。

この長い時間軸を考えると、障壁画の意味も変わって見える。《松竹錦鶏図》《松孔雀図》は「江戸初期の豪華な花鳥画」で終わらない。絵の前に座った人物、部屋の上下関係、幕府と朝廷の関係が変わるたび、同じ金地の松と鳥が別の歴史を見届けた。

観光客が御殿で見ているのは、ほとんどが「模写」

今回の展示のもう一つの価値は、「原画」という言葉にある。

二の丸御殿には寛永期を含め約3,600面の障壁画が残る。そのうち1,016面が1982年、絵画として国の重要文化財に指定された。ただし、約400年間御殿内に置かれた原画は、温湿度の急激な変化、虫害、紫外線などを受け、褪色、亀裂、剥落などの劣化が進んだ。

そこで二条城は1972年から、原画を収蔵庫で恒久保存するための模写事業を開始した。現在、式台、大広間、黒書院、白書院の障壁画はほぼすべて模写へはめ替えられている。観光客が国宝・二の丸御殿の中で見る豪華な壁面の大部分は、文化財の空間を再現するための高精度な模写であり、400年前の紙そのものではない。

これは「偽物を見せている」という話ではない。建築内部で原画を常時公開すれば、光、温湿度、人の出入りが劣化を加速させる。原画を暗く安定した収蔵環境へ移し、模写によって御殿空間を保ちながら、限定期間に原画を近距離で公開する。建築と絵画の両方を未来へ残すための役割分担である。

展示収蔵館は、絵を「平面」に戻さない

二条城障壁画 展示収蔵館は2005年10月、築城400年を記念する事業の一環として開館した。特徴は、障壁画を額装した絵のように完全な平面へ解体して保管しないことだ。

収蔵庫では、原画は御殿にあったときと同じ配置関係を保つよう、移動可能なパネルへ収納される。通常は年4回、部屋やテーマごとにパネルを展示エリアへ移し、ガラス越しに公開する。展示収蔵館の公式案内では、一度に公開できるのは平均約30面。重要文化財1,016面全体のごく一部にすぎない。

その制限があるから、展覧会は「選ばれた原画を間近で見る」場所になる。御殿では部屋全体の空間性を体験し、展示収蔵館では筆線、顔料、金地、傷み、修理の痕跡まで見る。二つを往復することで初めて、障壁画が建築と美術の両方であることが分かる。

2026年は、保存そのものも展示する

秋期展示の隣では、8月31日からエントランス特別展示「障壁画を守り、引き継ぐ」も始まっている。京都市によると、パネル9点に加え、模写や修理に使う道具など約20点を展示する。

原画の美しさだけでなく、「なぜ原画が御殿から外されているのか」「どのように模写し、修理し、保存するのか」を同時に見せる構成だ。文化財保存は完成形を見せる仕事ではなく、常に劣化と時間に対抗する継続作業であるという現実が表に出る。

二条城では2011年から本格修理事業も進められている。1994年の世界文化遺産登録、国宝建造物、重要文化財の絵画という肩書きは、保存が終わったことを意味しない。むしろ指定があるからこそ、将来世代へ渡すための地道な作業が続く。

「玉座」という日本語が、英語にすると難しくなる

2026年の公式日本語タイトルは「玉座を飾った障壁画」。一方、二条城の英語案内は秋期展示を “Murals Adorning the Imperial Seat” としている。

この訳は重要だ。“throne” とすると、常設の王座・将軍座のような響きが強い。しかし1626年9月9日に二の間へ設けられたのは、御簾の近くに上畳と茵を置いた儀礼上の天皇の御座だった。しかもその部屋は、通常なら将軍に対面する側が控える下段の間だった。

だから今回の英語版では、ユーザーが指定したファイル名は維持しつつ、見出しを「Emperor Go-Mizunoo's 1626 Seat」と修正した。SEO上の既存ファイル名より、本文の歴史的主体を正しくすることを優先した。

展示を見るなら、「何が描かれているか」より「誰から見えたか」を考える

9月10日以降、原画を前にしたとき、松や孔雀を単独のモチーフとして見るだけでも美しい。しかし、この展示の本質は視線の関係にある。

将軍が通常座る一の間からは何が見えたのか。大名が控える二の間では、どの鳥が頭上に残ったのか。1626年の能の日、後水尾天皇の御座から舞台はどう見えたのか。御簾の向こう、金地の松の手前、天皇の右に中宮、左に女院が座ったとき、飛翔する孔雀はどこにあったのか。

障壁画は、絵の前に「観客」が立つ現代美術館の作品とは違う。見る人自身が部屋の序列の中に入る。誰がどこに座るかによって、同じ絵の政治的意味が変わる。

400年前の一日、将軍の対面所は天皇の観覧席へ変わった。240年後、同じ大広間は幕府が政権を返す意思を表明する場所になった。そして今、原画は御殿を離れ、保存施設のガラス越しに公開される。

絵は動かない。しかし、絵を囲む権力と制度と鑑賞の仕方は動き続けてきた。二条城の秋期展示が見せるのは、その変化を400年間受け止めてきた「壁」そのものなのである。

資料・出典

  1. 京都市「『二条城障壁画 展示収蔵館』原画公開 令和8年度秋期『玉座を飾った障壁画 ~〈大広間〉一の間・二の間~』」 — 2026年9月3日。会期、会場、入館料、公開作品の一次資料。
  2. 元離宮二条城「令和8年度 二条城障壁画 展示収蔵館 原画公開内容 シリーズ寛永行幸400年」 — 1626年9月9日の能観覧での御座配置、御簾、上畳、茵、牧谿三幅対、孔雀の位置を確認。
  3. 元離宮二条城「二の丸御殿・庭園」 — 大広間一の間・二の間の通常用途、将軍の座、狩野探幽筆、障壁画総数を確認。
  4. 元離宮二条城「歴史」 — 後水尾天皇の5日間の行幸、大改修、大政奉還の歴史。
  5. Living History in 京都・二条城「寛永行幸」 — 1626年9月6~10日の5日間の行事日程。
  6. 元離宮二条城「歴史の舞台〈大広間〉の対面所」 — 錦鶏・孔雀と将軍権威、寛永行幸、大政奉還との関係。
  7. 元離宮二条城 調査研究資料 — 一の間の錦鶏、二の間・三の間の孔雀と室内序列の分析。
  8. 元離宮二条城「江戸絵画を切り拓く。~探幽の大画~」 — 数え年25歳の狩野探幽が大広間一~三の間を担当したこと、画面構成を確認。
  9. 京都国立博物館「生誕420年 狩野探幽」 — 探幽の生没年、16歳で幕府御用絵師となった経歴、江戸画壇への影響。
  10. 元離宮二条城「二条城障壁画 展示収蔵館活動報告」 — 約3,600面、重要文化財1,016面、1972年の模写事業開始、劣化要因、2005年開館。
  11. 元離宮二条城「二条城障壁画 展示収蔵館」 — 原画の収蔵方式、年4回の公開、平均約30面の展示。
  12. 京都市「エントランス特別展示『障壁画を守り、引き継ぐ』」 — 2026年の保存・模写・修理に関する併設展示。
  13. 元離宮二条城「概要」 — 1603年築城、1626年大改修、1867年大政奉還、1994年世界遺産登録。
  14. 京都市「令和8年度春期原画公開 報道発表資料」 — 徳川和子の入内、徳川将軍家と天皇家の婚姻関係、秀忠による改修準備。

本稿は2026年9月4日午前6時00分(日本時間)までに確認できた公開資料を照合した。展示正式名称、作品名・読み、部屋名、人物名・専門用語は京都市・元離宮二条城の日本語一次資料を優先した。ユーザー提示の英語題「Shogun’s Throne」は、今回の秋期展示が焦点を当てる「玉座」の主体を正確に表さないため、本文では1626年の後水尾天皇の御座と明記した。大広間一の間は通常は将軍の座だが、寛永行幸の能観覧時、後水尾天皇の御座は二の間に設けられた。秋期展示は9月10日開始であり、9月5日時点では未開幕。公開面数の正確な総数は9月3日の発表に明示されていないため、展示収蔵館一般の「平均約30面」を今回の展示面数とはしていない。

画像の権利: © 2026 Japan.co.jp。AI支援で制作した編集イラストで、無断転載・再利用を禁じる。画像は二の丸御殿の装飾空間を象徴的に構成したもので、秋期展示作品、1626年の御座配置、実在の原画を再現したものではない。画中の虎は今回の公開作品には含まれない。利用許諾についてはお問い合わせページへ。