大地震や土砂崩れの現場では、「どこを掘るか」を決めるまでの時間そのものが救命の一部になる。瓦礫の奥に人がいるのか。斜面のどこに遭難者がいるのか。機械の音、人の声、粉じん、風向きが入り交じる現場で、救助隊が広大な範囲を一から確認するのは難しい。そこで使われるのが、人のにおいを手掛かりに捜索範囲を絞り込む災害救助犬だ。
長野県は2026年9月3日、NPO法人救助犬訓練士協会(Rescue Dog Trainers’ Association、RDTA)と「災害時における災害救助犬の出動に関する協定」を結ぶと発表した。締結式は9月10日午後2時25分から、県庁本館3階の特別応接室で行う予定。出席者として、救助犬訓練士協会理事長の村瀬英博(むらせ・ひでひろ)氏、災害救助犬松五郎号、長野県知事阿部守一(あべ・しゅいち)氏が発表されている。
協定が変えるのは、犬の能力ではなく「呼べる仕組み」だ
長野県が示した協定概要は簡潔だ。大規模災害時の被災者捜索で、県内に救助犬訓練施設を持つ救助犬訓練士協会に対し、県が災害救助犬の出動を要請できる体制を構築する。
ここで大切なのは、協定を結んだから突然、救助犬が増えるわけではないことだ。犬の嗅覚も、ハンドラーの技量も、訓練施設も、すでに存在している。変わるのは、災害時に県がその民間能力へ公式にアクセスするための連絡経路と行政上の根拠である。
大規模災害では、現場に良い資源があっても、それを誰が要請し、どの組織の指揮下で、どの場所へ、いつ投入するのかが決まらなければ使えない。救助犬は特にその典型だ。ハンドラーと犬だけでは活動できず、警察・消防・自衛隊などが安全を確保し、瓦礫を除去し、発見地点を技術的に確認し、実際の救出を行う必要がある。
富士見町に、すでに訓練の「現場」がある
協定相手の救助犬訓練士協会は、法人事務局を神奈川県藤沢市に置く一方、長野県諏訪郡富士見町落合6729に八ヶ岳国際救助犬育成センターを持つ。協会の公式案内によると、センターの運営・管理は村瀬ドッグトレーニングセンターへ委託している。
この施設は、犬を走らせるだけの訓練場ではない。RDTAはここで、国際救助犬連盟(International Search and Rescue Dog Organisation、IRO)の試験規定に準じた瓦礫捜索、広域捜索、服従・熟練作業などの試験を継続的に開催してきた。2025年4月のIRO公認国際救助犬試験には、台湾消防からの1ペアを含む49頭が参加した。2026年5月にも瓦礫捜索B・A段階などの試験が行われている。
県内の実動機関との接点もある。2022年6月、RDTAは八ヶ岳の施設で長野県警察の広域緊急援助隊と、大雨被害を想定した救出救助訓練を実施した。参加したのは県警本部機動隊、伊那警察署、茅野警察署など。同じ月には航空自衛隊入間基地の災害救助犬とも合同訓練を行っている。
つまり今回の協定は、「長野に救助犬という新しい概念を持ち込む」話ではない。県内で何年も訓練し、警察や自衛隊とも接点を持ってきた民間の救助犬基盤を、県の災害対応ネットワークへ明示的につなぐ段階に入る話である。
松五郎は、なぜ締結式に来るのか
県の発表でひときわ目を引くのが、出席者欄に人ではなく「災害救助犬 松五郎号」と記されていることだ。
県は、松五郎がなぜ締結式の代表犬に選ばれたかを説明していない。その理由を推測するべきではない。ただ、RDTAの試験記録から、この犬が近年、富士見の訓練拠点と深く関わってきたことは確認できる。
2025年4月、山口最史氏と松五郎のペアは富士見でのIRO公認試験で広域捜索V段階に合格。同年7月には瓦礫捜索A段階で3席となった。さらにRDTAは2026年7月のナイター試験について、山口・松五郎ペアがIRO基準の瓦礫B段階に合格し、同協会の説明では東北地方初のB段階合格ペアになったとしている。30分の制限時間内に3人の仮想要救助者を発見したという。
ただし、試験合格と実災害への出動資格は同義ではない。IROには、通常の救助犬試験とは別に、複数の捜索、夜間作業、連続作業、犬の搬送などを含むMission Readiness Test(MRT)がある。RDTAも国内MRTを実施している。長野県の9月3日の発表は、今回の協定で出動する犬にどの資格・試験合格を必須とするかまでは示していない。
救助犬が探しているのは「人そのもの」ではなく、人から出るにおいの流れ
IROは救助犬の主な専門分野として、足跡追求、広域捜索、瓦礫捜索、雪崩捜索、水難救助、マントレーリングを挙げる。大規模地震で重要になるのは特に瓦礫捜索だ。犬は倒壊した建物の上を移動し、視認できない要救助者から漏れる人のにおいを探す。
IROの瓦礫試験規定では、要救助者役は犬から見えず、直接触れられない状態で隠される。評価されるのは発見だけではない。瓦礫上での移動能力、障害への対応、持久力、ハンドラーの指示に沿った捜索、誤警戒を避ける能力も見る。V、A、Bと難度が上がる。
実際の現場では、犬が示した場所をそのまま掘ればよいわけではない。2026年7月、ウィーンの建物崩落事故についてIROは、複数の救助犬が同じ位置を示した後、消防の音響捜索班がカメラで93歳の住民を確認し、救出につなげた事例を紹介している。犬、技術機器、救助隊の組み合わせが重要だということだ。
救助犬に求められるもの
| 能力 | 訓練・試験で見る点 | 実災害での意味 |
|---|---|---|
| 嗅覚による捜索 | 人のにおいを追い、要救助者位置を特定する | 広い現場で優先捜索地点を絞る |
| 瓦礫上の移動 | 不安定な足場、障害、高低差への対応 | 人が容易に入れない場所を先に検索する |
| 告知 | 発見をハンドラーへ明確に伝える | 救助隊へ位置情報を渡す |
| 服従・熟練作業 | 呼び戻し、方向指示、危険時の制御 | 二次災害を避けながら官民混成現場で動く |
| 持久力 | 複数回・夜間を含む継続作業 | 長時間化する捜索で能力を維持する |
日本で救助犬が「当たり前」になるまでの30年
日本の災害救助犬史で大きな転機となったのは、1995年の阪神・淡路大震災だった。内閣府は、防災広報の中で「国内では阪神大震災以降、災害救助犬の育成が始められた」と整理している。警察白書には、フランスの地震災害専門チーム61人と救助犬4頭を受け入れ、警察が同行支援した記録が残る。
当時、日本では民間救助犬の制度や受け入れ方が十分に整理されていなかった。2005年の衆議院災害対策特別委員会では、阪神・淡路大震災で外国・国内の救助犬が活動したこと、新潟県中越地震では警視庁の直轄犬4頭が活動したことが議論された。政府答弁によると、そのうち1頭は妙見堤の土砂崩落現場で、車内に生存者がいることを最初に確認したという。
その後、警察犬・消防系救助犬・自衛隊の災害救助犬に加え、各地の民間団体が訓練と実動を積み重ねた。とはいえ内閣府が2017年に紹介した時点でも、国内の災害救助犬活動は「一部を除き民間ボランティアによる活動」とされていた。能力があっても、自治体側に要請ルールがなければ、災害現場への組み込みが遅れる問題は残る。
だから自治体と民間団体の事前協定には意味がある。2025年には新潟県がジャパンケネルクラブと同種の出動協定を締結し、他県でも同様の協定例がある。長野県の今回の協定も、民間の犬と公的な災害指揮を平時から接続する全国的な流れの一つと見ることができる。ただし、長野県がこれを「県として初の救助犬出動協定」と明示しているわけではないため、本稿では「初」と断定しない。
RDTAは能登へ出動した
協定相手には、試験運営だけでなく実災害への出動経験もある。RDTAは2024年1月1日の能登半島地震を受け、1月2日から6日まで被災地域で関係機関とともに捜索活動に従事したと公式に報告している。
同協会の2024年度事業報告でも、能登半島地震への災害出動を事業実績として記載しているほか、警察・自衛隊・消防・自治体との連携強化、国際救助犬試験、国内MRTなどを継続している。
ここでも注意が必要だ。RDTAの公開情報は、能登で「いつからいつまで活動したか」は示しているが、何頭を投入したか、どの地点で何件の警戒を出したか、発見が救出へ直接つながったかという詳細までは、今回確認できた一次資料では十分に公表されていない。実績を過大に描くべきではない。
長野は、救助犬を必要とし得る災害が多い
長野県は海がない。しかし、捜索救助のリスクが小さい県ではない。山地が多く、活断層が走り、豪雨時には土砂災害や孤立集落が発生し得る。冬には雪崩・大雪もある。
2014年11月の長野県神城断層地震では、最大震度6弱。県の最終的な記録では負傷者46人、住家全壊81棟、半壊172棟、一部損壊1,828棟となった。死者は出なかったが、白馬村・小谷村などで家屋倒壊が相次いだ。
2019年の令和元年東日本台風では、千曲川流域を中心に河川氾濫や土砂災害が広がった。県の2024年2月時点集計では死者24人、住家全壊920棟、半壊2,496棟。災害救助犬は地震だけでなく、土砂流木を伴う風水害や山林・広域捜索でも使われる。
将来リスクはさらに大きい。県が示している糸魚川―静岡構造線断層帯(全体)の地震想定では、死者約5,600~7,100人、全壊・焼失建物約8万3,000~9万8,000棟。地震発生確率の評価として、30年以内14~30%という数字も県の防災資料に掲げられている。
これらは予言ではない。被害想定は防災計画のためのシナリオだ。しかし、同時多発する倒壊現場で「どこに人がいるか」を絞り込む能力を増やしておく合理性を示す数字ではある。
長野県は今年、「探す仕組み」を重ねている
今回の救助犬協定は、長野県の2026年の捜索体制強化の中で見るとさらに興味深い。県は7月、山岳遭難者等の捜索・救助を強化するため、会員制位置特定サービス「ココヘリ」を運営するAUTHENTIC JAPANと協定を締結した。遭難者が会員であれば位置情報の提供を受け、受信機器の貸与も受ける仕組みだ。
一方、救助犬は電子ビーコンを持っていない人でも探せる。携帯電話やGPSが壊れた場所、瓦礫の下、電波が届きにくい場所でも、人のにおいが流れてくれば捜索の手掛かりになる。
位置情報技術と犬の嗅覚は競争相手ではない。ドローン、携帯電話位置情報、音響探知、捜索カメラ、重機、救助犬を重ねることで、どれか一つが使えない現場でも別の手段が残る。現代の災害対応で重要なのは「最高の一つ」ではなく、異なる原理の捜索手段を同時に持つことだ。
ペット救護の協定とは、目的がまったく違う
「災害時の犬に関する協定」と聞くと、避難所のペット支援と混同しやすい。長野県にはすでに、2011年12月に長野県獣医師会、長野県動物愛護会、県の3者が結んだ「災害時における愛護動物の救護活動に関する協定」がある。
そちらは、負傷した犬・猫など被災動物への応急処置、保護・管理、情報提供などが目的。2019年の東日本台風では、この協定を基に長野県災害時被災ペット相談支援センターが設置された。
今回のRDTAとの協定は逆方向だ。犬を「救われる対象」としてではなく、人間の被災者を捜すための活動主体として災害対応へ組み込む。県の防災制度の中に、犬に関する二つの異なる役割が並ぶことになる。
まだ公表されていないこと
9月3日の発表だけでは、協定の実効性を判断するための細部は分からない。
第一に、出動要請の条件。「大規模災害」とされているが、震度、人的被害、行方不明者数、市町村からの要請など、どの段階で県がRDTAへ連絡するのかは公表されていない。
第二に、出動できる犬とハンドラーの基準。 IRO試験のどの段階、国内MRT、健康状態、直近の訓練実績などをどう評価するかは不明だ。締結式に松五郎が出席することと、松五郎がすべての出動で選定されることは別問題である。
第三に、費用と後方支援。 交通、宿泊、犬の輸送、獣医療、安全装備、長期活動時の交代などの費用負担は、県のプレスリリースでは示されていない。
第四に、現場指揮。 警察、消防、自衛隊、地元消防団、民間救助犬が同時に活動する場合、捜索区域の割り当て、二次災害時の退避命令、発見情報の引き渡しをどう統一するかが重要になる。
これらは協定書本文や細目で定められる可能性があるが、9月5日時点では協定書自体がまだ署名前であり、県は本文を公表していない。本稿では空白を推測で埋めない。
「犬を呼ぶ」だけなら簡単だ。難しいのは、救助隊の一員にすること
災害救助犬に関するニュースは、どうしても犬の写真が中心になる。だが、協定の価値は犬そのものより、犬が現場に入るまでの見えない手続きを平時に作ることにある。
誰が要請するのか。どの犬が来るのか。どこで合流するのか。危険区域へ入れるか。犬が警戒した場所を誰へ伝えるのか。その情報を音響探知やカメラ、救助隊の掘削へどうつなぐのか。現場が危険になった時、誰の命令で退避するのか。
1995年の阪神・淡路大震災から30年以上、日本は災害救助犬の能力を育ててきた。次の段階は、その能力を消防・警察・自治体の標準的な初動の中へ、遅れなく接続することだ。
長野県とRDTAが9月10日に署名する予定の協定は、その接続点を一本増やす。県内に訓練施設があることは地理的な強みだが、距離が近いだけで救助が速くなるわけではない。真価は、訓練、資格、出動要請、現場指揮、情報共有が一続きになった時に初めて分かる。
大災害の現場で、犬は人には見えないものを嗅ぎ取ることができる。行政の仕事は、その能力が必要な時に必要な場所へ届くよう、今のうちに道を作っておくことだ。
資料・出典
- 長野県「『災害時における災害救助犬の出動に関する協定』を締結します」 — 2026年9月3日。締結予定日、出席者、協定概要の一次資料。
- NPO法人救助犬訓練士協会「RDTA事務局 / センター利用について」 — 法人名、理事長、八ヶ岳国際救助犬センターの運営関係を確認。
- RDTA「長野県警察との合同訓練の実施」 — 2022年、富士見の訓練施設で長野県警広域緊急援助隊と合同訓練。
- RDTA「航空自衛隊災害救助犬との合同訓練の実施」 — 2022年の自衛隊との実動訓練。
- RDTA「IRO公認 国際救助犬試験2025 in 富士見」 — 49頭、台湾消防参加、松五郎の広域捜索V段階合格を確認。
- RDTA「国際救助犬ナイター試験2025 in 富士見」 — 山口・松五郎ペアの瓦礫A段階成績。
- 救助犬訓練士協会「RDTA国際救助犬ナイター試験 15ペア合格」 — 2026年7月の松五郎ペア瓦礫B段階合格に関する団体発表。
- RDTA「国内IRO MRT-T日本2024 開催案内」 — 村瀬英博氏の英語表記 Hidehiro MURASE と国内MRT運用を確認。
- RDTA「令和6年能登半島地震への出動について」 — 2024年1月2~6日の被災地捜索活動。
- International Search and Rescue Dog Organisation, “Our response” — 瓦礫・広域・雪崩等の救助犬専門分野。
- FCI/IRO International Trial Rules for Search and Rescue Dog Tests — 瓦礫捜索試験の捜索区域、要救助者、告知、移動能力等の基準。
- IRO Mission Readiness Test Rubble Guidelines — 実動適性試験が通常試験とは別に夜間・連続捜索等を課すことを確認。
- 内閣府「防災の動き:災害救助犬」 — 阪神・淡路大震災以降の国内育成、捜索・服従能力について。
- 警察庁「平成7年 警察白書」 — 阪神・淡路大震災でのフランス救助チーム・救助犬受け入れ記録。
- 衆議院「第162回国会 災害対策特別委員会 第8号」 — 新潟県中越地震で警視庁救助犬が生存者を確認した政府答弁。
- 長野県「長野県神城断層地震による県内の被害状況等」 — 負傷者・住家被害。
- 長野県「令和元年東日本台風 人的被害・住家被害の状況」 — 2024年2月時点の県内被害集計。
- 長野県「地震・噴火を学ぶ」資料 — 糸魚川―静岡構造線断層帯の被害想定と発生確率。
- 長野県「山岳等における遭難者の捜索・救助活動の協力に関する協定を締結します」 — 2026年7月のココヘリ連携。
- 長野県ほか「災害時における愛護動物の救護活動に関する協定書」 — 被災ペット救護と今回の人命捜索協定を区別する一次資料。
本稿は2026年9月4日午前3時50分(日本時間)までに確認できた公開資料を照合した。正式名称は長野県の一次資料に従い「災害時における災害救助犬の出動に関する協定」、法人名は「特定非営利活動法人 救助犬訓練士協会」とした。阿部守一知事の読みは県公式プロフィール、村瀬英博理事長の読みはRDTAの国内IRO MRT資料にある英語表記 Hidehiro MURASE と日本語氏名を照合して「むらせ・ひでひろ」とした。協定は9月10日に署名予定で、9月5日時点では未締結。出動要請条件、出動犬の資格基準、費用負担、現場指揮、登録犬数・即応可能頭数、協定書本文は公表されていないため推測で補っていない。松五郎の試験歴はRDTA等の団体発表に基づき、長野県が出動犬として指定したという意味には扱っていない。
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