約250万探索対象の化合物
2026.08.27論文発表
3研究対象の主要化合物
前臨床細胞・マウス段階

がん細胞とマウスでの増殖抑制は、患者に使える薬の完成を意味しない。

がん細胞の「伝令」を止める、別の方法

がん細胞の増殖を促す信号は、一つの分子だけで伝わるわけではない。細胞内でタンパク質からタンパク質へと受け渡され、次の反応を呼び起こす。重要な中継点がRASとRAFの結合だ。そこをどう止めるかは、長年にわたって創薬研究者を悩ませてきた。

神戸大学などの研究グループは、RASが直接結び付く場所とは別の部分でRAFの立体構造を変化させ、両者の結合を妨げる低分子化合物を報告した。「鍵穴にふたをする」という従来の発想とは異なり、タンパク質の形を変えて鍵が合わないようにする。成果は基礎研究として意義があるが、患者に投与できる新薬が完成したというニュースではない。

論文は8月27日――10月の新薬発表ではない

成果は2026年8月27日付の学術誌『Nature Communications』に掲載され、神戸大学も同日、日本語で研究内容を発表した。10月16日のScience Japanによる紹介は、この論文を改めて伝えたものだ。10月に臨床試験が始まった、または薬事承認を得た、と解釈してはならない。

神戸大学の発表は、研究に関わる島扶美氏、田村厚夫氏、青井貴之氏らを紹介している。査読論文の著者には吉川陽子氏、久保田宏和氏をはじめ多数の共同研究者が名を連ねる。日本語の氏名表記は大学が確認している表記に限って用い、論文に英語しかない著者の漢字を推測しない。

RASとRAF――増殖命令が流れる場所

RASは細胞増殖に関係するシグナル伝達タンパク質群で、KRAS、NRAS、HRASなどが知られる。正常時には必要に応じて働きが切り替わるが、特定の遺伝子変異によって異常な活性化が続くと、増殖シグナルが出続けることがある。RASの下流で働くRAF、MEK、ERKは、こうした命令が細胞核などへ伝わる経路を構成する。

分子標的薬はこうした分子機構の弱点を狙う。既に一部のKRAS変異やBRAF変異を標的とする薬は実臨床で使われるが、変異の種類によって薬の効き方は異なり、治療に対する耐性も生じうる。今回の研究は既存治療を置き換えると示したものではなく、RASからRAFへ信号を渡す接点を広い角度から狙う試みだ。

約250万種類から候補を絞る

研究グループは化合物の特徴や実験データに基づき候補を選び直す「アクティブラーニング」を組み込んだ複数段階の探索を実施し、約250万種類の化合物を対象とした。最初に得られた重要な化合物がKobe3708で、そこから構造を改良してRK440とRK447を開発した。

この数は250万種類についてすべて同じ実験を行ったことを意味しない。計算機上での探索と、選別後の生化学試験、細胞実験、構造解析を組み合わせることで、膨大な候補群から研究可能な分子を選んだ点に意味がある。人工知能が自動的に治療薬を完成させたという理解も誤りだ。

正面からふさがず、RAFの形を変える

Kobe3708は、RAFのRAS結合ドメイン(RBD)にある、RASとの直接の結合面から離れた部位に結合する。論文の構造解析は、その相互作用によってRAFの形が変わり、RASとの接触を阻害する仕組みを示した。これを「アロステリック制御」という。

タンパク質間相互作用は、広く平坦な接触面を持つ場合があり、低分子で直接妨げるのが難しい。研究では核磁気共鳴(NMR)やX線結晶構造解析を使用し、RAF側での結合や構造変化を調べた。大型放射光施設SPring-8も解析に用いられた。結合部位を特定したことは、単なる増殖抑制試験より一段踏み込んだ分子レベルの根拠になる。

化合物を改良すると何が変わったか

研究者はKobe3708から誘導体のRK440、RK447を作製した。生化学測定では、RASとRAFの結合を阻害する指標IC50が、試験条件下でKobe3708の7.62マイクロモルに対し、RK440で1.41マイクロモル、RK447で1.15マイクロモルとなった。数字が小さいほど、その測定において低い濃度で作用したことを意味する。

しかし試験管内のIC50は、そのまま患者に必要な服用量ではない。がん細胞に薬剤が届くか、健康な細胞を傷つけないか、体内ですぐ分解されないかなど、多くの条件が残る。改良化合物は有望でも、研究チーム自身が臨床応用にはなお分子としての改善が必要だと認めている。

細胞とマウスで見えた効果

研究では、さまざまなRAS変異をもつがん細胞株や患者由来の大腸がんオルガノイドなどで効果を調べた。RAFとの結合や下流のMEK、ERKのリン酸化が減り、増殖が抑制される結果が報告された。ヌードマウスの移植腫瘍モデルでも、複数の投与群で腫瘍成長の抑制が観察された。

ただし、代表的な動物実験の群は各4匹という小規模なものだ。特定の試験ではRK440の投与群に体重減少が認められ、投与量やモデルによって結果は異なる。マウスの皮下に移植した腫瘍が縮小することと、人の複雑ながんを安全に治療できることは同じではない。

薬剤耐性の悪性黒色腫という難題

研究は、BRAF阻害薬に対する耐性を獲得した悪性黒色腫モデルにも着目した。既存のBRAF阻害薬に反応しにくくなった細胞で、RAFを介するシグナルの再活性化が起こる場合がある。研究者らは、Kobe3708や改良化合物を既存薬と組み合わせ、培養細胞と動物モデルで増殖抑制を確認した。

これは耐性がんを治癒させたという意味ではない。耐性機構には多くの種類があり、今回検討したモデルでの作用が他の患者のがんに広く当てはまるかは未確認だ。単独で効果が乏しい条件も論文には記されている。併用療法の可能性は、利益と毒性の両面から研究する必要がある。

歴史が教える「効く薬」への長い道

RASは1980年代以来、がん遺伝子研究の中心にある。小さなGTP結合タンパク質を薬で直接標的にするのは長く難しいと考えられてきたが、特定変異を狙うKRAS阻害薬の登場によって、その常識は変わり始めた。しかし一つの変異への薬ができても、別の変異や薬剤耐性という課題は残る。

日本には構造生物学、計算科学、放射光施設、薬学・医学の共同研究という基盤がある。今回の成果は、これらの分野の積み重ねから生まれた。国立がん研究センターの「がん情報サービス」も、分子標的薬は遺伝子変異の検査や副作用評価と切り離して使えるものではないと説明している。

研究者自身が認める限界

原著論文の考察は明確だ。化合物の作用濃度はなおマイクロモル領域で、変異RASをもつ細胞と持たない細胞の感受性の差が十分に大きくない。正常組織への影響や細胞毒性の可能性を排除できず、現段階では臨床応用のための特性が不十分だと結論づけている。

次に必要なのは選択性、薬物動態、安全域を高める化学的改良と、複数の独立したモデルでの検証だ。患者対象の有効性を示す治験データは今回の論文にはない。「250万分の一の奇跡」ではなく、250万候補から見つかった新しい作用原理を、厳しい試験にかける出発点と理解するのが正確だ。

大切なのは発見の大きさと距離を両方伝えること

がん研究の進歩は、華々しい「新薬完成」の一報より前に、分子がどう動くかを少しずつ解き明かす仕事から生まれる。タンパク質同士が直接触れる場所ではなく、離れた場所を変化させる。神戸大学の成果は、その見方をRAS研究に持ち込んだ。

臨床に届くかは分からない。だが科学の価値は、すぐに患者へ使えるかだけでは測れない。特定の変異に縛られない治療法や耐性への新たな選択肢を探るため、研究の道具箱に一つ新しい仕組みが加わった。それが現時点で確かに伝えられるニュースだ。

出典・原著論文

神戸大学の一次資料と査読論文を中心に確認。取材による独自の効果検証は行っておらず、臨床的効能は主張しない。

  1. 神戸大学・研究成果発表(2026年8月27日)
  2. Yoshikawa et al., Nature Communications 17, 8809 (2026)
  3. Nature Communications・原著論文全文
  4. 国立がん研究センター・がん情報サービス「薬物療法 もっと詳しく」
  5. Science Japan・研究紹介(2026年10月16日)