右手と左手は、鏡に映せば同じ形に見える。しかし、重ね合わせることはできない。化学の世界にも同じ関係がある。分子の結合順序が同じでも、三次元配置だけが鏡像関係にある二つの分子――エナンチオマーだ。

2026年10月7日、スウェーデン王立科学アカデミーはノーベル化学賞を、フランスのアンリ・B・カガン氏と東京理科大学名誉教授の硤合憲三(そあい・けんそう)氏に授与すると発表した。授賞理由は「不斉有機合成における非線形効果と自己触媒作用の発見」。硤合氏の名を世界に刻んだのは、今日「Soai反応」と呼ばれる不斉自己触媒反応である。[1][2]

確認できた事実: 硤合憲三氏は1950年広島県生まれ。東京大学理学部卒、理学博士。東京理科大学理学部第一部教授を経て名誉教授。2012年紫綬褒章、2025年日本学士院賞を受賞。2026年ノーベル化学賞はアンリ・B・カガン氏と共同受賞し、賞金1,200万スウェーデン・クローナを分ける。授賞式は12月10日にストックホルムで行われる。[2][3][4]

鏡像分子は、なぜ生命で片方だけなのか

キラリティーはギリシャ語の「手」に由来する。アミノ酸や糖など生命の構成分子の多くは鏡像異性体を持つが、生体はその一方を強く選ぶ。タンパク質をつくるアミノ酸はほぼL体、DNAやRNAの骨格をつくる糖はD体だ。この「ホモキラリティー」が、いつ、どのように生じたのかは生命起源研究の大問題の一つである。[1]

生命が最初から一方の鏡像体だけを使っていたとは限らない。化学反応を普通に行えば、右手型と左手型がほぼ同量できることが多い。そこで問われるのは、最初のごく小さな偏りがどうやって圧倒的な偏りに変わったのか、という問題になる。

始まりはパスツールだった

この物語の起点は19世紀のルイ・パスツールにある。パスツールは酒石酸の結晶を顕微鏡で観察し、互いに鏡像関係にある結晶をピンセットで分けた。それぞれを溶かして偏光を通すと、一方は右に、もう一方は左に光を曲げた。混ぜると効果は打ち消し合った。分子に「左右」があるという理解が、ここから化学の中心概念になっていく。[1]

1857年、パスツールはさらに、微生物が酒石酸の片方の鏡像体だけを選択的に代謝することを見いだした。生命が化学的な「片手性」を持つことが、この時点ですでに姿を現していた。

1953年、数学が先に答えを描いた

次の重要な一歩は実験ではなく理論だった。1953年、英国の理論物理学者チャールズ・フランクは、生命のホモキラリティーがどのように生まれ得るかを数学的に考察した。

フランクのモデルが要求した条件は三つだった。第一に不斉反応とキラルな触媒があること。第二に片方の鏡像体の生成が強まり、もう片方が抑えられること。第三に、生成物自身が触媒となる自己触媒が働くこと。自己触媒があれば、最初の小さな偏りは繰り返しによって指数関数的に増幅され得る。[1]

問題は、そんな反応を実際のフラスコの中で作れるのか、だった。

カガンが示した「非線形効果」

1980年代、アンリ・B・カガン氏は不斉触媒反応において、触媒の鏡像体純度と生成物の鏡像体純度が単純な比例関係にならない場合があることを示した。つまり、少ししか偏っていない触媒から、予想以上に大きく偏った生成物を得られることがある。これが「非線形効果」である。[1]

この発見は、不斉反応の仕組みを理解する実用的な手掛かりとなった。触媒が単独分子として働くのではなく、複数分子が集合して反応している可能性を示すからだ。スウェーデン王立科学アカデミーは、カガン氏の研究をフランクの理論条件の一つを現実の化学へ近づけた仕事として位置づけている。

そして硤合氏は、「生成物が自分を作る」反応を見つけた

硤合氏が追ったのは、さらに大胆な問いだった。もしキラルな生成物そのものが触媒となり、自分自身を作る反応があればどうなるか。

東京理科大学の研究説明では、ピリミジン-5-カルバルデヒドにジイソプロピル亜鉛を付加する反応で、生成物の5-ピリミジルアルカノールが極めて有効な不斉自己触媒として作用することを硤合氏らが初めて発見したとする。[5]

反応が進むと生成物が増える。その生成物が触媒になるから、さらに同じ生成物が増える。しかも、最初にわずかに多かった鏡像体が、次の段階でさらに有利になる。反応は単に物質量を増やすだけでなく、「左右の偏り」そのものを自己増幅する。

1995年、2%が87%になった

決定的な論文は1995年12月28日、Natureに掲載された。硤合憲三、柴田高範、森岡浩、長治香織の各氏は、わずか2%の鏡像体過剰率(enantiomeric excess、ee)を持つ5-ピリミジルアルカノールを出発点に不斉自己触媒反応を行い、生成物で87%の鏡像体過剰率を実現した。[6]

これは「少し偏った系が、反応するほどもっと偏る」ことを、人工的な有機反応で実験的に示したものだった。王立科学アカデミーはSoai反応を、生命そのもの以外で初めてこの自己増幅を実現した反応として紹介している。[1]

1950年硤合憲三氏、広島県生まれ
1995年Natureに不斉自己触媒反応を報告
2% → 87%初期の鏡像体過剰率を大幅増幅
2026年ノーベル化学賞受賞

なぜこの反応は「生命起源」に接続したのか

Soai反応そのものが、太古の地球で起きた反応だと証明されたわけではない。ピリミジルアルカノールやジイソプロピル亜鉛を使うこの反応は、生命前化学そのものを再現したものではない。ここは区別が必要である。

それでも、意味は大きい。長く理論上の可能性として語られてきた「ごく小さな左右差が自己触媒によって増幅され、ほぼ一方の鏡像体だけになる」という仕組みが、実験室で現実に起こり得ることを示したからだ。

日本学士院は2025年、硤合氏への日本学士院賞の授賞理由で、この反応を「不斉識別能、自己触媒能、不斉増幅能の三要素を兼備」すると評価し、ホモキラリティー成立起源の解明に重要な一歩を記したとした。[3]

Soai反応が答えたのは「生命がどう始まったか」ではない。「ごく小さな左右差が、化学だけで圧倒的な片手性へ育ち得るか」という問いだった。その答えは、イエスだった。

微小な「きっかけ」を拾える化学へ

その後の研究で、Soai反応は極めて微弱なキラル要因を検出・増幅する系として発展した。水素と重水素の同位体置換、キラル結晶、円偏光など、非常に小さな不斉要因が反応の向きを決め得ることが示されてきた。

2003年には、極めて小さな鏡像体過剰率から99.5%を超えるeeまで不斉を増幅できることが報告された。[7] こうした研究は、生命前化学で最初の偏りを生み得た候補――円偏光、鉱物表面、同位体効果、物理的対称性の破れ――を実験的に検討するための道具にもなった。

「鏡像体過剰率」とは何か

鏡像体過剰率、eeは、二つのエナンチオマーの量の差を全体量で割った値だ。50対50なら0% ee、75対25なら50% ee、100対0なら100% eeになる。

不斉合成では、この数字が製品の純度と性能に直結することがある。生体の受容体や酵素自体がキラルであるため、二つのエナンチオマーが同じ働きをするとは限らないからだ。

医薬品とキラリティー

ノーベル委員会は今年の受賞理由を、医薬品製造との結びつきでも説明した。ある鏡像体が治療効果を持ち、もう一方が不要な作用や有害作用を持つ場合、目的の鏡像体を選択的に作る技術は決定的に重要になる。[1]

ただし、キラリティーと医薬品の関係を単純化しすぎるのは危険だ。Reutersや王立科学アカデミーはサリドマイドを歴史的教訓として挙げているが、サリドマイドは体内で鏡像体が相互変換するため、「安全な一方だけを投与すれば問題が解決した」と説明するのは正確ではない。ここでの本質は、鏡像体が生体内で異なる作用を持ち得るという点にある。[4]

日本の不斉合成研究には長い系譜がある

日本は不斉合成で世界的な研究者を輩出してきた。2001年には野依良治氏が、ウィリアム・ノールズ氏、K・バリー・シャープレス氏とともに、不斉触媒反応の研究でノーベル化学賞を受賞した。2021年にはベンジャミン・リスト氏とデイヴィッド・マクミラン氏が不斉有機触媒の開発で受賞している。

今年の賞は、その流れの中でも異なる問いを扱う。目的物を高選択的に作る「技術」だけでなく、なぜ小さな不斉が大きな不斉へ変わるのかという化学反応そのものの原理に光を当てた。

広島から東京理科大学へ

東京理科大学によると、硤合氏は1950年に広島県で生まれ、東京大学理学部を卒業し、1979年に理学博士号を取得した。日本学術振興会奨励研究員、米国ノースカロライナ大学博士研究員を経て、東京理科大学理学部第一部教授を務めた。[2]

2012年に紫綬褒章。2025年には日本学士院賞。2026年には有機合成化学特別賞や日本化学会名誉会員にも選ばれている。研究テーマは数十年にわたり一貫して、不斉自己触媒とホモキラリティーの問題へ向かっていた。[3][8]

「最もわくわくする日」

受賞発表後、硤合氏はノーベル賞記者会見への電話で「この素晴らしいニュースを受け取り、興奮している」と語り、人生で最もわくわくする日だと表現した。Reutersによると、知らせを受けた時は買い物に出ていたという。[4]

ノーベル賞の物語は、巨大な装置や国家プロジェクトから生まれるとは限らない。1990年代初頭、硤合氏が考えたのは、生成物と触媒の構造が似ているなら、「生成物が自分自身を触媒できないか」という素朴で大胆な問いだった。王立科学アカデミーは、試行錯誤の末にその着想がSoai反応へつながったと説明している。[1]

まだ残る謎

今回のノーベル賞で、生命のホモキラリティーの起源が解明されたわけではない。なぜ地球生命がL-アミノ酸とD-糖を選んだのか。最初の偏りを生んだ物理的・化学的要因は何だったのか。宇宙でできた有機物、鉱物表面、円偏光、弱い相互作用など、多くの仮説が競っている。

しかし、Soai反応はその議論を変えた。「最初の偏りは大きくなければならない」という前提を壊したからだ。最初はごく小さくても、自己触媒と不斉増幅があれば、化学系は一方の鏡像体へ大きく傾き得る。

2026年のノーベル化学賞が称えたのは、分子を右か左に作り分ける技術だけではない。生命の根本にある「なぜ世界は片手なのか」という問いに、実験室のフラスコから答えを返した化学だった。

出典・参考資料

  1. スウェーデン王立科学アカデミー「They solved chemistry’s asymmetric mystery」2026年10月7日。
  2. 東京理科大学「本学硤合憲三名誉教授がノーベル化学賞を受賞」2026年10月7日。
  3. 日本学士院「日本学士院賞授賞の決定について」2025年3月12日。
  4. Reuters「Nobel chemistry prize goes to pair who solved mystery of 'mirror image' molecules」2026年10月7日。
  5. 東京理科大学 川﨑研究室「Research―不斉自己触媒反応」。
  6. Kenso Soai et al., “Asymmetric autocatalysis and amplification of enantiomeric excess of a chiral molecule,” Nature 378, 767–768 (1995).
  7. Nature Chemistry「Soai反応の機構研究」および引用文献(2003年の不斉増幅研究を含む)。
  8. 東京理科大学 硤合研究室。

取材・確認期限:2026年10月7日。Soai反応が生命誕生時に実際に起きた反応であるとは確認されていません。本稿では、生命のホモキラリティー起源への「実験的モデル」「機構上の可能性」として扱い、起源そのものを解明したとは表現していません。