川崎の海辺を四キロメートル走る一本の鋼管は、巨大な運搬船ほど写真映えしない。高さ50メートル級の液化水素タンクのような威圧感もない。だが、日本が本当に水素をエネルギー産業へ育てられるかを考える時、この地中あるいは工業地帯を横切る管こそ、最も重要な設備の一つかもしれない。船は水素を日本へ持ってくる。タンクはそれを貯める。パイプラインは、水素を「使う場所」まで流し続ける。
2026年7月13日、日本水素エネルギーとJFEエンジニアリングは、川崎臨海部で建設する高圧水素パイプラインのEPC契約を発表した。総延長は約4km。JFEエンジニアリングが設計、資機材調達、建設工事を一括して担う。短いように見える。しかし、この四キロには二つの時代が重なる。実証段階では、国内で製造した水素を扇島の川崎LH₂ターミナルへ送り込み、そこでマイナス253℃まで冷却して液化する。2030年以降の社会実装段階では役割が変わり、海外から船で届いた液化水素を基地で受け入れ、気化して臨海部の工場や発電設備へ送り出す。
つまり、このパイプラインは単なる「基地への配管」ではない。水素供給網の向きそのものが、実証から商用へ移る過程を体現している。最初は水素を基地へ集める。将来は基地から水素を地域へ配る。その意味で、川崎の四キロは日本の水素政策が「つくれるか」「運べるか」という研究段階から、「毎日、誰に、どれだけ、いくらで届けられるか」という公共インフラの問題へ入ったことを示している。
「国内初」の意味――川崎にはすでに水素配管がある
ここで一つ、言葉を慎重に扱う必要がある。今回の設備を「日本初の水素パイプライン」と呼ぶのは正確ではない。川崎市自身が説明しているように、臨海部では石油精製、化学、鉄鋼などの工場間で水素を融通する産業インフラがすでに存在する。北九州でも2010年代初頭、水素タウン実証でパイプライン供給が行われた。水素を管で運ぶこと自体は、日本で初めてではない。
JSEとJFEエンジニアリングが「国内初」としているのは、水素の大量輸送を目的とした高圧水素パイプラインである。従来の工場内・工場間の水素配管や小規模実証とは目的もスケールも異なる。将来、海外から大量に到着する水素を一つの企業だけではなく、臨海工業地帯の複数の需要へ流すための幹線として設計される。
この違いは、水道にたとえると分かりやすい。工場内の配管は建物の中の給水管に近い。今回目指しているのは、浄水場と街をつなぐ送水幹線のような役割だ。水素を「装置の燃料」から「地域で共有するエネルギー」に変えるには、細い枝管より先に、安定して大量に流せる幹が必要になる。
実証では「基地へ」、商用では「基地から」――一本の管が向きを変える
今回の計画で最も興味深いのは、実証と商用化でパイプラインの役割が反転することだ。JSEは当初、海外から水素を調達して日本へ運ぶ大規模実証を構想していた。しかし2024年度に計画を変更し、2030年度までの実証では国内で製造した水素ガスを調達する方針に切り替えた。
国内水素はパイプラインを通じて川崎LH₂ターミナルへ送られる。基地でマイナス253℃まで冷却して液化すると、JSEによれば体積は気体のおよそ800分の1になる。液化した水素は5万m³の貯蔵タンクに蓄えられ、4万m³型運搬船へ積み込み、国際航海を模した外洋条件下で輸送・荷役の性能、安全性、耐久性、信頼性、経済性を確かめる。
商用化後は流れが逆になる。海外で製造された液化水素が船で扇島へ到着し、川崎LH₂ターミナルで受け入れられる。貯蔵後に気化し、高圧パイプラインを通じて川崎臨海部の需要家へ送る。工場や発電設備では、その水素を電気や蒸気、熱へ変換して使うことが想定されている。
| 段階 | 水素の流れ | パイプラインの役割 |
|---|---|---|
| 2030年度までの商用化実証 | 国内製造水素 → 川崎LH₂ターミナル → 液化 → 船 | 基地へ水素を供給する入口 |
| 2030年以降の社会実装 | 海外液化水素 → 船 → ターミナル → 気化 → 需要家 | 基地から臨海部へ水素を配る出口 |
扇島――高炉の島が、水素の玄関口へ変わる
場所にも象徴性がある。川崎LH₂ターミナルが建設されている扇島は、JFEスチール東日本製鉄所京浜地区の大規模な土地利用転換が進む場所だ。川崎市とJFEグループは、高炉等の休止を受けて「OHGISHIMA2050」などの再開発構想を進め、その先導エリアにカーボンニュートラルエネルギー拠点を位置付けた。
川崎臨海部そのものは約100年前、浅野総一郎らによる埋め立てと企業誘致を起点に形成され、戦後は石油、鉄鋼、電力、化学、物流が密集する京浜工業地帯の中核となった。そこでは、原料、燃料、蒸気、ガス、電力、副産物を企業間で融通する「コンビナート」の論理が育った。大きな工場が隣り合う理由は、港が近いだけではない。ある工場から出るものを別の工場が使い、エネルギーや配管を共有できるからだ。
その産業構造は、水素と非常に相性がいい。大量の水素は、一軒一軒の住宅へ運ぶより、発電所、製油所、化学工場、物流拠点が近接する場所でまとめて供給したほうが経済性を出しやすい。川崎市が2013年に水素ネットワーク協議会を設置し、2015年に水素戦略を策定したのも、この地域特性があったからだ。
かつて扇島では、石炭と鉄鉱石を船で受け入れ、高炉へ送り、鉄を日本社会へ送り出した。次の時代には、液化水素を船で受け入れ、パイプラインへ送り、電気や熱として首都圏へ送り出す。その転換が実現すれば、川崎の産業史は「何を運ぶか」を変えながら同じ地理を使い続けることになる。
5万m³のタンク、4万m³の船、4kmの管――一つだけでは意味がない
水素サプライチェーンは、一つの巨大設備を完成させれば成立するものではない。JSEが扇島で建設する川崎LH₂ターミナルは、5万m³の液化水素貯蔵タンク、海上荷役設備、水素液化設備、水素送ガス設備、液化水素ローリー出荷設備を備える計画だ。2025年に建設工事へ入り、商用規模としては世界初とされる液化水素基地の実証を2030年度までに行う。
海側では、JSEと川崎重工業が2026年1月、4万m³型液化水素運搬船の造船契約を締結した。川崎重工が2021年に建造した実証船「すいそ ふろんてぃあ」のタンク容量は1,250m³だった。新船は一挙に32倍の貨物タンク容量となる。船体は約250m、幅35m。液化水素を極低温のまま運ぶため、高性能断熱、真空二重配管、ボイルオフガスを燃料として利用するシステムなどを組み込む。
そして陸側に今回の四キロの高圧水素パイプラインが加わる。船、タンク、液化機、気化設備、パイプライン、需要設備――どれか一つが止まればサプライチェーンは止まる。水素社会とは、新しい燃料の発明というより、異なる巨大設備を同じ速度で動かすシステム工学なのである。
- 川崎LH₂ターミナル:扇島に建設中。5万m³貯蔵タンク、液化・送ガス・海上荷役・ローリー出荷機能。
- 4万m³型運搬船:川崎重工が坂出で建造。2030年度までに荷役・外洋実証を計画。
- 約4km高圧パイプライン:JFEエンジニアリングがEPCを担当。実証時は国内水素を基地へ、商用時は基地から需要家へ。
- 需要家:川崎臨海部の発電、熱・蒸気、産業用途などを想定。
なぜローリーではなくパイプラインなのか
水素の初期市場では、高圧ガスを多数の容器に詰めたトレーラーや液化水素ローリーが重要な役割を持つ。需要が小さく散らばっているうちは、道路輸送は柔軟だからだ。しかし、一日に何十トン、将来何百トンという規模で同じ工業地帯へ送り続けるようになると、トラックの台数、運転手、道路容量、積み替え、圧縮設備がボトルネックになる。
米国ではすでに約1,600マイル(約2,575km)の専用水素パイプラインが稼働し、主に製油所や化学産業へ水素を供給している。IEAも、大量かつ高稼働率の需要がある場合、パイプラインは純水素輸送の最も低コストな選択肢になり得ると指摘している。世界的には「水素を管で運ぶ」こと自体は成熟した産業技術の一部だ。
日本で難しかったのは、専用の大規模幹線へ投資できるほど需要が集まっていなかったことだ。水素の需要家がなければパイプラインを造れず、パイプラインがなければ需要家は水素設備へ投資しにくい。この典型的な「鶏と卵」を壊すため、国がGI基金で輸入基地と需要創出を同時に支援している。
水素は小さい――だから管の設計は簡単ではない
天然ガスのパイプライン技術を、そのまま水素へコピーすればよいわけではない。水素分子は小さく、漏えい対策には継手、溶接、シール、弁、検知、換気を含めた設計が必要になる。さらに、特定の鋼材では水素が材料内部へ侵入することで延性や破壊靱性が低下する「水素脆化」が問題になる。
高圧になるほど、材料、溶接部、疲労、き裂進展の評価は重要になる。しかも日本では地震荷重を無視できない。NEDOは2025年度から2027年度にかけて、「高圧水素パイプラインの国内基準化に向けた導管材料の水素適合性と耐震設計に関する研究開発」を進めている。対象は各種導管材料と溶接部で、水素環境中の特性データ取得、破壊メカニズム、耐震設計まで含む。
経済産業省も2025年度から高圧水素導管による供給の技術課題を調査し、水素保安戦略の中で新しい事業形態へ制度を合わせる作業を続けている。つまり、川崎のパイプライン建設は、既存のルールに従って設備を造るだけのプロジェクトではない。日本で将来何百キロもの水素網を造る時に使う材料・設計・保安の基準を、実物と並行して育てる先行事例でもある。
「最大100万トン」は能力の話で、需要の確約ではない
7月13日の発表で目を引く数字が「最大で年間100万トン規模の水素需要にも対応可能」という記述だ。この数字は、今すでに川崎で100万トンの需要契約が存在するという意味ではない。将来の需要拡大を見据えた設備対応能力について、両社が示した表現である。
100万トンという量は、日本政府の水素政策全体から見ても大きい。NEDOの大規模水素サプライチェーン事業は、2030年に国際サプライチェーンから100万トン規模の水素が供給されるという市場想定を置いている。一方、日本の改定水素基本戦略は2030年の水素・アンモニア等の導入目標を水素換算で最大300万トン程度としてきた。
だから「100万トン対応」は、四キロの管を単なる実証用設備として設計せず、将来の大量需要を想定した幹線として造る意思を示す。しかし経済的に本当にその能力を使えるかは、発電、化学、鉄鋼、物流などの需要が立ち上がる速度と、水素価格にかかっている。
30円/Nm³という壁――管があっても、水素が高ければ流れない
NEDOのGI基金「大規模水素サプライチェーンの構築」は、2030年に30円/Nm³、2050年に20円/Nm³以下という水素供給コストを目標に置く。JSEの商用化実証も、2030年30円/Nm³の船上引き渡しコストの実現性を確認することを目的の一つとしている。
ただし、水素の価格は船から降ろした瞬間で終わらない。基地建設、液化、貯蔵、気化、圧縮、パイプライン、保守、保安、人員、資本コストを積み上げて、需要家が実際に払う「届け先価格」が決まる。安い輸入水素を確保できても、末端インフラの稼働率が低ければ単価は高くなる。
このためパイプラインは、需要が増えれば増えるほど強くなるインフラである。一定量を毎日流せば固定費を多くの水素へ分散できる。逆に、立派な管を造っても年に数回しか使わなければ、最も高価な水素輸送手段になり得る。川崎で求められるのは建設量ではなく、稼働率だ。
水素の色ではなく、実際のCO₂を測る
もう一つ忘れてはいけないのが、水素そのものの炭素強度である。水素は使う場所ではCO₂を出さなくても、製造方法によっては上流で大量のCO₂が出る。再生可能電力による水電解、天然ガス改質とCCS、バイオマス、原子力など、製造経路によって排出量は大きく変わる。
JSEの実証は、当初想定した豪州褐炭由来水素の調達計画を変更し、2030年度までの実証では国内で製造した水素を使う。その後の商用段階では海外の液化水素を受け入れる計画だが、調達先や製造方法が低炭素であることをどう証明するかは、インフラと同じくらい重要になる。
パイプラインは水素分子の出自を区別しない。だから制度側で、製造時の排出、炭素回収率、電源構成、液化・輸送エネルギーを追跡しなければならない。「水素が流れている」ことと「脱炭素できている」ことは同じではない。
世界の水素網は先に広がる――日本は港湾クラスター型から始める
世界では、水素パイプライン計画が急速に増えている。IEAの2026年レビューでは、2035年までに発表された新設・転用水素パイプラインは4万kmを超える一方、運転中または投資が確定したものはその一部にとどまる。欧州では既存天然ガス網の転用を含む「水素バックボーン」が進み、中国でも長距離幹線の建設が始まっている。
日本は国土を縦断する巨大幹線から始めるのではなく、川崎のような港と需要地が近い産業クラスターから始める形が現実的だ。船が着く。大量の工場需要がある。既存の配管・港湾・エネルギー運用の人材がいる。土地利用転換も進んでいる。四キロで商用化の難しさを学べるなら、それは短すぎる実証ではなく、次の網を設計するための濃縮された実験場になる。
川崎は何度も「エネルギーの入口」を作り替えてきた
川崎臨海部の歴史を振り返ると、今回の水素パイプラインは異物ではない。むしろこの街が100年間繰り返してきた仕事の最新形に見える。埋め立て地へ港を造り、原油や石炭を受け入れ、製油所と高炉を建て、ガス、蒸気、電力、原料を管で融通する。戦後の成長を支えたのは、個々の工場の性能だけでなく、工場同士をつなぐ見えないネットワークだった。
そのネットワークが今、炭素を多く含む燃料から、水素、再生可能電力、回収CO₂へ組み替えられようとしている。川崎市は水素、炭素循環、エネルギー地域最適化の三つをカーボンニュートラルコンビナートの柱に置く。扇島の土地利用転換は、古い産業を消すのではなく、港、道路、電力、配管、技能という産業資産を次の用途へ使い直す試みでもある。
もし成功すれば、2030年代の川崎では巨大な液化水素船が接岸し、マイナス253℃の液体がタンクへ入り、気化器を通り、地中の高圧管へ送られる。地上では何も起きていないように見える。その先の発電所ではタービンが回り、工場では蒸気がつくられ、化学設備では原料として使われる。
エネルギーインフラの成功は、最終的には目立たなくなることだ。蛇口を開けば水が出るように、コンセントへ電気が来るように、需要家が「今日は水素が届くだろうか」と考えなくてよくなる。その日が来た時、川崎の四キロは実証設備ではなく、社会の一部になったと言える。
約1910年代~ 浅野総一郎らによる埋め立て・工業開発が進み、川崎臨海部が形成される。
戦後 石油、鉄鋼、化学、電力、物流が集積し、京浜工業地帯の中核として企業間のエネルギー・原料融通が発達。
2013年 川崎市が川崎臨海部水素ネットワーク協議会を設置。
2015年 「水素社会実現に向けた川崎水素戦略」を策定。
2021年 日本水素エネルギー設立。NEDO GI基金の大規模水素サプライチェーン事業が始動。
2022年2月 「すいそ ふろんてぃあ」による日豪間液化水素海上輸送・荷役パイロット実証。
2024年7月 JSEとJFEスチールが扇島の土地賃貸借に合意。
2025年5月 5万m³タンクを含む川崎LH₂ターミナルの建設工事着工。
2025年6月 NEDOが高圧水素パイプライン材料・耐震設計の国内基準化研究を採択。
2025年9月 JSEとJFEエンジニアリングが約4kmパイプラインのFEED契約。
2026年1月 JSEと川崎重工が4万m³型液化水素運搬船の造船契約を締結。
2026年7月13日 国内初の大量輸送用高圧水素パイプラインについてEPC契約締結を発表。
2030年度まで 国内水素を使い、基地・船・荷役・外洋輸送を含む商用化実証を実施予定。
2030年以降 海外液化水素を川崎で受け入れ、臨海部の需要家へ供給する商用サプライチェーンを目指す。
取材注記・主な資料
2026年8月9日午前0時50分(日本時間)までに確認できた公開情報を使用しました。JSE・JFEエンジニアリングが公表していないパイプラインの運転圧力、管径、詳細ルート、完成日、契約金額は推測していません。「国内初」は両社の表現に従い、「水素の大量輸送を目的とした高圧水素パイプライン」に限定して記載しています。川崎臨海部には既存の産業用水素パイプラインがあります。
- JFEエンジニアリング・日本水素エネルギー:川崎臨海部における国内初の高圧水素パイプラインのEPC契約締結(2026年7月13日)
- JFEエンジニアリング・日本水素エネルギー:水素パイプライン基本設計(FEED)契約(2025年9月2日)
- 日本水素エネルギー:液化水素サプライチェーン商用化実証・事業概要
- 日本水素エネルギー:川崎LH₂ターミナル建設、40,000m³型運搬船等のニュースリリース
- NEDO GI基金:大規模水素サプライチェーンの構築
- NEDO:高圧水素パイプラインの国内基準化に向けた導管材料の水素適合性と耐震設計研究
- 川崎市:川崎カーボンニュートラルコンビナート構想「水素戦略」
- 川崎市:川崎臨海部の概要
- 米国エネルギー省:Hydrogen Pipelines
- IEA:Global Hydrogen Review 2026 — Trade and infrastructure
