確認できた現在地:金沢工業大学は9月7日、数学用「マスコ(Mathko)」と物理用「カンタ(Quanta)」を一般公開した。大学が示すのは学習支援チャットボットであり、教員を代替する「自動教師」ではない。教育効果の測定、学習履歴に応じた個別化、回答精度の向上は今後の研究課題である。

分数、積分、行列、平方根を画面に入力する。問いを送ると、AIは学内のウェブ教材を検索し、関係するページを根拠として答えを組み立てる。回答の参照番号を押せば、学生は元の説明へ戻れる。金沢工業大学数理工教育研究センターが公開した二つのチャットボットは、生成AIの流暢さを、大学が管理する教材へ結び付けようとする試みだ。

数学の「マスコ」は微分積分、線形代数、微分方程式、数列・級数などを扱い、物理の「カンタ」は力学、電磁気学、波動、熱力学などを対象にする。「思考モード」をオンにすれば複雑な問いへ詳しく答える代わりに時間がかかり、オフなら簡潔で速い――これは大学が案内する操作上の違いであり、基盤モデルの内部推論過程が利用者に開示されるという意味ではない。

在学生や入学予定者だけでなく、高校生、社会人、他大学の学生も公開サイトから利用できる。広い入口は、大学の蓄積を社会へ開く。一方で、授業中だけの閉じた実証より重い説明責任も生む。

「マスコ」と「カンタ」が教材の入口になる

二つのボットが参照するのは、数理工教育研究センターの「KIT STEMナビゲーション」である。数学側の青い吹き出しボタンからマスコを、物理側からカンタを呼び出す。質問に関係するページが見つかれば、その内容を生成AIへ与え、回答と参照先を示す。

入力支援にも教育サイトらしい工夫がある。TeX形式の数式エディターを備え、通常の文字入力では崩れやすい積分記号や行列を扱える。公式発表は、合成関数の微分、置換積分、テイラー展開、ベクトル解析、ニュートンの運動法則、自由落下、ビオ・サバールの法則などを質問例に挙げる。

ただし、利用案内には重要な但し書きがある。関連ページが見つからない場合、AIが一般知識に基づいて答えることがあり、回答は不正確な場合もある。大学は回答を参考情報と位置付け、最終判断を利用者に求めている。参照番号が付かない答え、あるいは問いとずれた資料に基づく答えほど、慎重に確かめる必要がある。

2004年から積み上げた「1ページ=1知識」

今回の公開を、突然現れた生成AIサービスとして見ると本質を逃す。金沢工業大学の「KIT数学ナビゲーション」は2004年に始まった。高校数学から大学1、2年の数学まで、公式や解法を辞書のように引けるウェブ教材として改良が続けられてきた。物理版の開発は2015年に始まり、高校と大学初年次の内容をつないだ。

設計思想は「1ページ=1知識」。一つの概念を一つのページにまとめ、関連する前提や次の学習項目をリンクで結ぶ。学生は分からなくなった地点から前提へさかのぼり、再び元の問題へ戻る「リンクバック学習」ができる。ページ同士の関係は知識グラフとして表現される。生成AIが検索すべき情報の粒度とつながりを、大学はチャットボット以前から整えていた。

2004年 KIT数学ナビゲーションの開発・公開が始まる

2015年 KIT物理ナビゲーションの開発が始まる

2021年 微分計算を助言し、ウェブ教材へつなぐルール型チャットボットを報告

2025年 オープンソースLLMとローカルRAGの試作・比較を学会発表

2026年9月7日 マスコとカンタを一般公開

2021年には、微分計算を助言して教材へ案内するルール型チャットボットも報告されている。生成AIへの移行は、検索画面を会話画面へ置き換えただけではない。長年作ってきた構造化教材に、自然言語で入口をつける流れの延長線上にある。

RAGは何を変え、何を保証しないか

採用されたRAG(検索拡張生成)は、質問を受けると関連資料を検索し、その文章と質問を大規模言語モデルへ渡して回答を生成する。インターネット全体や学習時点の記憶だけに頼るより、答えの範囲を教材へ寄せ、出典を確かめやすくできる。知識グラフは、用語が一致するだけのページではなく、概念上近い教材を探す手掛かりになる。

それでもRAGは正解保証装置ではない。検索段階で必要なページを逃す、似ているが違うページを選ぶ、正しい資料を渡されてもモデルが条件を落とす、符号や単位を誤る、式変形の途中で矛盾する――失敗の場所が一つ増えるのではなく、検索と生成の二段階になる。

出典が正しくても、計算が正しいとは限らない。数学・物理では「どの資料を見たか」と「各行が成り立つか」を別々に検証しなければならない。
確認できる機能そこからは言えないこと
KIT内の関連ページを検索し、参照番号を表示参照付き回答が常に正しい、という保証
知識グラフとRAGを利用検索漏れ、誤検索、生成時の誤りがなくなること
「思考モード」で詳しい回答を選択内部の推論過程や採用モデルが開示されること
公開サイトから幅広い利用者がアクセス授業成績や概念理解が向上したという実証

2025年の試作は五つのLLMを比べた

公開版に先立つ2025年の工学教育研究講演会論文で、西岡圭太(にしおか・けいた)教授らは、数学・物理サイトと連携するチャットボットの試作を報告した。研究題目は「数学・物理 Web サイトと連携したチャットボットの作成―オープンソース LLM の検証とローカル環境での RAG 構築―」。OllamaとOpen WebUIを使い、NVIDIA GeForce RTX 3080 Ti(12GB)を搭載したローカル環境で、おおむね80億パラメーターまでのモデルを動かした。

比較対象はLlama 3.2、Phi-4-mini、Gemma 3、DeepSeek-R1、Qwen 3の五つ。大学の数学・物理試験程度を想定した問題ではGemma 3とQwen 3が相対的に良い結果となり、小型のGemma 3が有望とされた。DeepSeek-R1が日本語の問いに中国語で答える例もあった。

ここで順位を公開版の性能表へ読み替えてはならない。論文は限られた試作環境と問題での比較で、著者らも正答率の定量評価を今後の課題とした。2026年の公式発表は、公開サービスが採用する基盤モデル、埋め込みモデル、推論サーバーを明らかにしていない。ローカル実行を検討した試作は、コスト、プライバシー、カスタマイズ可能性を探る技術史として重要だが、現在の実装仕様そのものとは確認できない。

数学の正解と「よい教え方」は別

正しい最終答えを出すことは必要条件にすぎない。学習者がどこでつまずいたかを見つけ、すぐ答えを示すのか、ヒントを一段ずつ出すのか、誤概念を言葉にさせるのか。よい指導は、同じ問題でも理解度と授業目標によって変わる。

例えば積分問題で正しい式変形を一気に表示すれば、提出物を完成させる助けにはなるが、置換を選ぶ理由は学べないかもしれない。逆に、前提知識のページへ戻し、次の一手を質問で促せば、時間はかかっても診断的な学習になる。現在の公開資料からは、二つのボットが誤概念をどう分類し、ヒントの量をどう調整し、学習者の自力解答をどう促すかまでは分からない。

センターは将来、学習履歴や学習状況に応じた個別支援を目指すとしている。これは現行機能の説明ではない。個別化を名乗るには、何を記録し、どの指標で習熟度を推定し、その推定が誤った場合にどう訂正するかを示す必要がある。

ログを取るなら、説明も教材になる

利用案内は、質問と回答のログを記録すると明記する。同時に、そのログはAIモデルの学習データには使わないと説明し、個人情報や第三者に知られたくない情報を入力しないよう求めている。少なくとも、記録の存在と入力上の注意を隠してはいない。

しかし公開案内だけでは、保存期間、アクセスできる担当者、削除手続き、保管場所、教育効果研究に集計・匿名化して用いる可能性などは確認できない。特に高校生を含む一般利用者が対象なら、「モデル学習に使わない」だけでデータ説明が終わるわけではない。サービス改善、障害対応、研究利用はそれぞれ目的が違い、必要な保持期間も違う。

ここには教育上の機会もある。AIへ何を入力してよいか、ログとは何か、個人情報をなぜ避けるのかを、利用前に学生と確認する。その手続き自体がデータ・AIリテラシーの教材になり得る。文部科学省の初等中等教育向け生成AIガイドラインVer.2.0は大学へ直接適用される規則ではないが、発達段階や利用場面に応じた指導、最新情報の把握、情報の扱いを重視する点は、高校生にも公開するサービスの運用を考える参考になる。

教員が決めるべき授業内の境界線

公開ボットがある以上、学生は教室外でも使える。禁止の一語では運用にならない。教員は、概念の復習、例題の追加、途中式の点検には使えるのか。宿題の最終解答、レポートの文章、試験準備ではどこまで許すのか。AIを使った場合に質問と回答、参照ページを提出させるのか。科目ごとに境界線を明文化する必要がある。

有効な使い方は、AIの回答を採点対象の完成品にせず、検証対象にすることだ。学生に一行ずつ導出を確かめさせ、単位と極限値を点検させ、参照ページの前提と自分の問題の条件を比較させる。間違いを見つけたら、なぜもっともらしく見えたかまで説明させる。これはチャットボットを答えの自動販売機から、批判的読解の材料へ変える。

授業で最低限決めたいこと
  • 利用できる課題と、利用できない評価場面
  • AI利用の申告方法と、質問・回答・参照先の記録
  • 数式、単位、初期条件、出典を確かめる手順
  • 個人情報、未公開研究、他者の答案を入力しないこと
  • 誤答や不適切な応答を教員へ報告する経路

効果検証が本当の出発点

開発は、日本学術振興会科学研究費助成事業の基盤研究(C)「生成AIを活用した数理教育支援チャットボットの開発とeラーニングシステムへの導入」(課題番号25K06650)の一環で、研究代表者は数理・データサイエンス・AI教育課程の西岡教授である。公式発表は、今後、KIT STEMナビゲーションとの連携強化、個別化、精度向上、機能追加、教育効果の検証を進めるとしている。

決定的な証拠は、まだ作られていない。正答率は問題分野や難易度ごとにどれほどか。参照先は質問に適合しているか。初学者と上級者で効果は違うか。利用後に自力で類題を解けるか。学習時間、理解、長期保持、AIへの過度な依存にどんな変化が出るか。比較条件と評価方法を公開して初めて、「便利だった」という感想を教育効果から分けられる。

Japan.co.jpの分析では、このプロジェクトの強みは、流行のモデル名ではなく、2004年から積み上げた教材、知識グラフ、参照可能なページにある。弱点もまた明瞭だ。RAGの根拠表示を精度の証明と取り違えず、ログの説明を具体化し、教員の設計と学習成果で評価しなければならない。

マスコとカンタの公開は完成宣言ではない。学生が「答えを得た」地点から、「なぜそうなるかを自分で確かめた」地点へ進めるか。その距離を測り、改善を繰り返す研究の出発点である。

用語の確認
  • RAG(検索拡張生成):質問に関連する資料を検索し、その内容を大規模言語モデルへ与えて回答を生成する方法。
  • 知識グラフ:概念や教材ページの関係を、つながりとして表現した情報構造。
  • TeX:数式を精密に表記するため広く使われる組版記法。
  • 生成AI学習支援チャットボット:本記事で扱う公式な位置付け。教員の代替や、正答を保証する自動採点者を意味しない。
取材・一次資料

編集方針:大学が公表した現行機能、2025年の試作研究、将来目標、Japan.co.jpの分析を区別した。教育効果や公開版の正答率、採用モデルを推定せず、英語版とは構成と言葉を独立して執筆した。