保存とは、古い建物を閉ざしておくことだけではない。人が集まり、新しい表現に出会うとき、建築はもう一度、地域の現在形になる。
逗子駅からほど近い洋館に、美術の時間が流れ込む
神奈川県逗子市・山の根。駅の西側の山裾にたたずむ洋風住宅が、10月、芸術祭の中心になっている。会期を10月3日から25日とする「逗子アートフェスティバル2026」(ZAF2026)のメイン会場は、国の登録有形文化財「旧本多家住宅主屋」、通称・旧本多邸だ。客間、畳敷きの部屋、屋根裏といった暮らしの痕跡が、美術作品の舞台へと変わった。
今回のテーマは「はじまりの未来、はじまりの場。」。市民が2013年に始めた芸術祭は14回目を迎え、3年に1度の特別開催年として、逗子駅周辺から沼間、池子の森まで会場を広げている。国内外の作家の作品だけでなく、地域の人が参加する制作や音楽祭を織り込み、街そのものを展示の一部にする取り組みだ。
「築87年」という紹介が目を引く一方で、建築年には注意がいる。逗子市と文化庁の文化財登録資料は1938(昭和13)年と記し、所有・保存を担う久米設計や会場を取材した『美術手帖』は1939年の建築・完成としている。設計・建築と竣工の記録上の違いと考えられるが、資料だけでは断定できない。本稿ではその差を明示し、現地の建築が1930年代末のものである点を軸に伝える。
久米権九郎が残した、木造の耐震実験
この家を設計したのは久米権九郎(くめ・ごんくろう)。ドイツで建築を学び、日本の木造建築に耐震性を持たせるため、独自の「久米式耐震木骨構造」を考案した建築家である。小さな部材を束ねた柱と横架材を組み合わせる構造で、見た目の洋風意匠だけでは語れない工夫が骨組みに潜んでいる。
注文主は、東京・京橋を拠点にランプを製造販売した本多庄作(1897〜1977)。木造2階建て、スレート葺き、建築面積216平方メートルの住宅は、モルタル塗りの外壁に擬石や装飾を施し、玄関の反対側には吹き抜けの居間を配した。近代建築が新しい機能性へ向かう時代に、古典的な洋館の表情と独特の耐震技術が同居している。
文化庁の国指定文化財等データベースによれば、建物は2022年10月31日に登録有形文化財となった。文化財としての価値は、古い洋館だからというだけではない。久米設計は、同方式が現存する例として日光金谷ホテル、軽井沢万平ホテルとこの住宅を挙げ、個人住宅としての貴重さに言及する。
眠っていた家を、もう一度使う
旧本多邸は長く活用されず、老朽化も進んだ。設計者の名を引き継ぐ株式会社久米設計が取得し、保存・改修を進めた。2024年には工事を終え、見学会も実施された。耐震性能の確保と、もともとの意匠・構造の尊重を両立させる作業だった。久米設計は、地域に開かれた文化財として活かす方針を説明している。
保存建築の活用には難しさもある。建物を傷めない展示方法、現行の避難・防災要件、維持管理費、来訪者の動線、障害のある人への配慮。美術イベントが注目を集めることと、地域で継続的に使える仕組みができることは同義ではない。今回は古い家の再利用がどこまで可能かを観察できる機会でもある。
フラーの宇宙、屋敷の居間に
旧本多邸の象徴的な展示が、米国の建築家・思想家R. バックミンスター・フラーによる大型石版画絵本《テトラスクロール 少女ゴールディと3匹の熊たち》だ。主催者と現地を取材した美術メディアによれば、三角形の構成を通じて科学、幾何学、地球と生命を考えさせる作品が室内に置かれている。童話の題材が、家のなかで宇宙的な問いへ展開する。
フラーの「宇宙船地球号」という発想は、資源に限りのある世界に生きる人間の関係を問い直してきた。古い住宅の一室に作品を置くことで、未来を構想する思想が、保存された過去の生活空間と向き合う。なお、展示作品の制作年は資料によって表記の違いがみられるため、ここでは開催内容の確認に重点を置いた。
光、漂着物、写真――土地の記憶を違う角度から
芸術祭の参加作家には、フランシス真悟、森山大道、仲本拡史らが名を連ねる。『美術手帖』による10月17日の現地報告では、旧本多邸の客間にフランシス真悟の新作《Serene Illumination》(2026)が展示され、建築の光や人の視点によって色彩の印象が変化する表現が紹介された。
畳の空間には高屋永遠の《位相-汀》(2026)。逗子海岸に漂着した流木や砂など、この土地に由来する素材を用いた円形の作品だと同誌は伝える。自然の表面を飾るだけでなく、海が運んだものを室内に招き入れ、土地の記憶を別の形で読み直す試みとみることができる。
会場は旧本多邸だけではない。JR逗子駅前の工事壁では、写真家ブルース・オズボーンの親子写真プロジェクト「OYAKO」が、森山大道や山田美優の作品とともに紹介されている。工事現場の仮囲いを作品の発表場所に転じることで、美術館を訪ねる習慣のない通行人にもアートが出会う。
芸術祭の主役は、市民の協働
市の説明では、芸術祭は逗子市文化振興条例に基づく文化振興基本計画の方向性を具体化する事業であり、芸術を通じた地域活性化と「共育」を掲げる。主催は逗子アートフェスティバル実行委員会、共催は逗子市と市教育委員会、企画運営は逗子アートネットワーク(ZAN)が担う。自治体が完成した文化イベントを住民へ提供するだけでなく、住民の活動を軸に組み立てている点が特徴だ。
10月24、25日には池子の森自然公園で「池子の森の音楽祭」も予定される。路地、図書館、文化施設、自然公園が連なり、作品鑑賞と地域の営みを結ぶ。とはいえ、市が掲げる移住促進や持続可能な地域づくりにどれだけ寄与するかは、実施後の来場者構成、参加の継続性、費用、住民の声を確かめて判断する必要がある。
何を残し、どう開くか
文化財を守るとは、建物の材料を残すことだけか。それとも、人が歩き、話し、新たな作品をつくる場所として次代に渡すことまで含むのか。旧本多邸が投げかけるのは、この問いである。歴史的な住宅を文化施設へ転用する取り組みは魅力的だが、保存と利用の双方に責任が伴う。
旧本多邸の一般開場は原則11時〜17時、最終入場16時30分、火・水曜休館。メイン会場など一部は有料で、会場によって条件が異なる。10月7日の変更告知により蘆花記念公園関係の一部企画は会場が変更されているため、訪れる前に主催者の最新情報を確認したい。10月19日現在、会期終了までは残り一週間に満たない。
保存された木の骨組みに、現代の光が差す。築年の記録に一つの揺れがあっても、この場所が昭和初期の建築技術と、今日の市民による創造の両方を宿すことは変わらない。逗子の発見は、有名作品を古い家に置いたことではない。眠っていた家を、街の人が再び未来の話をする場所へと変えつつあることだ。
