投手が足を上げる。床を押し、骨盤が回り、胸が遅れて開き、肘、手首、指先へ速度が渡る。わずか一秒ほどの動作を、肉眼の指導者は「もっと下半身を使え」とまとめる。千葉県市川市のラボでは、カメラとセンサーがその一秒を細かく分ける。骨盤はいつ回ったか。肩と肘はどの順番で加速したか。球は何回転し、どの軸で空気を切ったか。昔なら感覚だった投球が、波形と座標になる。
東京・品川に本社を置く非上場の株式会社ネクストベースは、測定施設「ネクストベース・アスリートラボ」で、育成年代向けのNEXTBASE Baseball Academyを開く。対象は小学5、6年生と中学1、2年生。毎週水曜、四つのクラスを設け、各クラスの上限はわずか6人だ。
会社は、定期的な動作評価と体力テストで成長を可視化し、プロ選手向けに蓄積した解析を子どもへ合わせ、集団授業で自ら考える力も育てるという。月謝は税込2万4,200円から3万4,100円。野球塾としては「球をたくさん投げる場所」ではなく、身体とデータの読み方を教える教室を目指す。
野球は、最初から「授業」だった
日本野球の出発点はプロ球団でも興行でもない。米国人教師ホーレス・ウィルソンが1872年、東京の第一大学区第一番中学、のちの東京大学につながる学校で学生に野球を教えたことが、野球殿堂博物館の通史で「日本に野球が伝わった」とされる節目である。
ボール一つ、バット一本、広場があれば始められる。攻撃と守備は明確に交代し、個人の勝負が集団の得点へ変わる。近代学校が求めた規律、協働、身体教育と相性がよかった。学生たちが別の学校へ競技を運び、1878年には鉄道技師の平岡熙が新橋アスレチック倶楽部を組織した。野球は教室からクラブへ、大学へ、地域へ広がった。
1896年、第一高等学校が横浜の外国人チームに勝つと、舶来の遊びは日本の自信を映す競技になった。1915年に第1回全国中等学校優勝野球大会が始まり、1924年、第10回大会から甲子園球場が舞台になった。今日の「高校野球」という巨大な物語は、地域代表、学校教育、新聞社のメディア力、敗者復活のないトーナメントを重ねて形づくられた。
1872年 ホーレス・ウィルソンが東京の学校で野球を指導
1878年 平岡熙が新橋アスレチック倶楽部を組織
1915年 第1回全国中等学校優勝野球大会
1918年ごろ 京都で少年向けゴム製野球ボールが開発される
1924年 全国大会が新しい甲子園球場へ
2001年 国立スポーツ科学センター(JISS)が開所
2014年 ネクストベース設立
2026年 市川で育成年代向けアカデミーを開校
1918年のゴム球も、スポーツ科学だった
子どもの野球に「大人と違う設計」が必要だという発想は新しくない。20世紀初め、少年たちは硬いボールやテニス球で遊んだが、価格、耐久性、けがの危険が普及の壁だった。京都の少年野球研究会に関わった鈴木榮らは、1918年前後に安価で安全な少年用ゴム球を工夫した。のちに軟式球は日本独自の巨大な競技文化をつくる。
これはセンサーのない時代の工学である。素材を変えれば、衝突時の力、跳ね方、握り、打球速度、必要な場所まで変わる。「小さな選手へ大人の道具をそのまま渡さない」という設計思想は、2026年のアカデミーがプロ向け解析を成長期用に最適化すると語るときの、遠い先祖でもある。
ただし、道具を柔らかくすれば競技が自動的に安全になるわけではない。投球回数、連日の試合、守備位置、休養、痛みを言える雰囲気が残る。科学は一つの製品や一枚のグラフではなく、競技環境全体を設計する作業だ。
国の研究所から、町の民間ラボへ
戦後のスポーツ科学は、体力測定、生理学、映像分析、医学支援を通じて制度化された。大きな転機は2001年に東京・北区で開所した国立スポーツ科学センター(JISS)である。研究室、トレーニング施設、診療、栄養、映像、風洞などを一つに集め、日本代表選手の国際競技力を支える拠点になった。
ネクストベース取締役の神事努は体育学博士で、元JISS研究員。投球動作のバイオメカニクス、ボールの回転軸と回転速度が空気力へ与える影響を研究し、北京五輪では金メダルを獲得した女子ソフトボール日本代表を支援した。2016年まで楽天イーグルスの戦略室R&Dグループにも所属した。
社長の中尾信一は研究者ではなく、NTTでIT新規事業に携わり、2008年にITベンチャーのニューフォリア設立へ参加した起業家だ。立教大学野球部で後のプロ選手たちとプレーした経験もある。2014年設立のネクストベースは、野球を知るIT人材と、ITを使うスポーツ研究者を結ぶことを事業にした。
会社は公式サイトで資本金や従業員数を開示していない。したがって「小さな会社」を厳密な人数で装うべきではない。ただ、上場大手でも球団でも大学でもない民間ベンチャーが、自社ラボ、測定サービス、チーム向けシステム、メディアデータを組み合わせている点が、この物語の核心である。国の強化拠点やプロ球団の内部にあった解析を、月謝を払う地域の家庭へ売る段階に入った。
一球を分解すると、何が見えるのか
投球は腕だけの運動ではない。地面を押した力が脚へ入り、骨盤、胴体、肩、肘、手へ移る「運動連鎖」である。三次元モーションキャプチャーは身体の各点の位置、速度、角度、タイミングを記録する。力を測る床があれば左右の脚が地面へ加えた力を追える。高速度カメラはリリース前後を細かく映す。
ボール追跡機器は初速だけでなく、回転数、回転軸、リリース位置、変化量を示す。四シームが浮き上がって見えるか、変化球が横へ動くかは、指の感覚だけでなく、重力、抗力、マグヌス力、縫い目が作る空気の非対称性に左右される。神事の研究領域はまさに、この「投げた後」の物理だ。
打撃でも、バット速度、入射角、打球速度、打ち出し角、体幹と骨盤の回転順序を測れる。数値は「なぜ今日は飛んだのか」を再現可能な仮説へ変える。映像と感覚を一致させれば、選手は指導者の言葉を待つだけでなく、自分の動きを説明し始められる。
四つのクラス、最大24席
アカデミーは毎週水曜、ネクストベース・アスリートラボで行う。公表日程と各クラス上限を単純に掛けると、当初の同時期の受講枠は最大24人になる。これは会社が「在籍24人」と発表した意味ではなく、四枠が満員になった場合の計算上の定員である。少人数は動作を見る時間を増やせる一方、事業の収容力とアクセスを限る。
| クラス | 対象・時間 | 上限 | 月謝(税込) |
|---|---|---|---|
| 小学・軟式 投/打 | 小学5、6年生・70分 | 6人 | 24,200円 |
| 中学・硬式 投手① | 中学1、2年生・70分 | 6人 | 28,600円 |
| 中学・硬式 投手② | 中学1、2年生・70分 | 6人 | 28,600円 |
| 中学・硬式 打撃 | 中学1、2年生・90分 | 6人 | 34,100円 |
入会金は3万3,000円だが2026年度入会者は無料。翌年度以降の更新料は年1万1,000円。Tシャツ、レジスタンスバンド、投手系クラスではトレーニング用のキネティックボールが付く。ラボの別プログラムを20%引きで使える会員特典もある。
ここには巧みな事業設計も見える。水曜はラボの通常案内で休館日とされており、アカデミーは一般利用を入れない日に施設を定期教室へ転用する形に見える。これは公開日程からの推測で、会社が理由を説明したものではない。測定の単発販売から、月額の継続収入へ広げる初のアカデミー事業でもある。
成長期の身体は、動く基準点
小学5年から中学2年は、身長、体重、筋力、骨の成熟、手足の長さが大きく変わる時期だ。同じ選手でも、半年後には別の身体を動かしている。球速が上がっても、技術が改善したのか、体重と筋力が増えたのか、マウンドや球種が変わったのかを分けなければならない。
ここで定期測定は役立つ。単発の球速ランキングではなく、成長速度、可動域、左右差、疲労、投球量と一緒に追えば、数字に文脈が生まれる。急な身長増加でタイミングがずれた選手を「下手になった」と誤解せずに済むかもしれない。
反対に、数値は子どもを固定する危険もある。球速の低い11歳を「才能がない」と見なし、体格の早熟な選手を「将来有望」と評価すれば、測定は古い選別を精密にしただけになる。育成年代のデータは順位表より、本人の長期変化を読むために使うべきだ。
肘の痛みは、精神論では消えない
日本の少年野球で傷害は抽象的な心配ではない。徳島県の7~12歳を1年間追った2013年の前向き研究では、開始時に肘痛のなかった449人のうち30.5%がシーズン中に肘痛を経験した。12歳、投手または捕手、年間100試合超が危険因子だった。別の1,000人超の調査でも、過去1年の投球側の肘痛は29.2%だった。
成長期の肘には、まだ成熟しきっていない骨端や軟骨がある。高い速度を何度も生む投球は、内側へ引っ張る力、外側へ押し付ける力、後方への衝突を繰り返す。痛みは「弱さ」ではなく、組織が負荷に耐えられていない信号になり得る。
日本高等学校野球連盟は2020年から1週間500球の投球制限を導入し、現在は高校野球特別規則に位置づける。だが高校生の500球は、小学生や中学生の安全値ではない。日本臨床スポーツ医学会の提言として広く参照される目安は、全力投球を小学生で1日50球・週200球、中学生で1日70球・週350球とする。数字そのものにも限界があり、ブルペン、遠投、守備練習、別チームでの登板を誰が合算するかが難しい。
週1回のアカデミーがきれいなフォームを教えても、残り6日間の負荷を知らなければ安全は管理できない。選手、家庭、学校・クラブ、医療者、外部スクールが投球量と痛みを共有する必要がある。センサーが映すのは、センサーの前で投げた球だけだ。
- 試合、ブルペン、遠投、守備、別チームを含む総投球量を誰が記録するのか。
- 痛みや疲労を申告しても、出場機会を失わない仕組みがあるか。
- 成長スパート、成熟度、既往歴を評価へどう組み込むか。
- 球速だけでなく、休養、睡眠、可動域、楽しさを追うか。
- 測定データを学校や医療者へ持ち出せるか。
- 休止・受診・競技復帰の基準を誰が決めるか。
「根性論」の反対は、楽をすることではない
ネクストベースは、がむしゃらな反復や根性論ではなく、動作を科学的に読み解いて「最短距離」で上達させると説明する。この言葉は、長時間練習やエースの連投が美談になりやすかった日本野球への批評として響く。
しかし、根性を数字で追放するという二者択一は粗い。反復は運動学習に必要で、忍耐、仲間への責任、緊張の中で実行する力も競技の一部だ。問題は苦労そのものを成果の証拠にすること、痛みを忠誠心の試験にすること、目的のない反復を量だけで評価することにある。
スポーツ科学の役割は努力を軽くするだけではない。どの努力が何を変えたかを確かめ、効果の薄い負荷を減らし、次の日も練習できる身体を守ることだ。データと根性の良い関係は、数値が心を置き換えるのではなく、心を浪費しないようにする関係だろう。
数字を共有すれば、権力も共有できるか
会社は選手、指導者、保護者が同じデータを見ることで、次の課題を共有できるとする。これは重要な約束だ。従来の指導では、監督の経験と権威が説明の終点になりやすかった。映像と数値があれば、選手は「なぜこの練習をするのか」と質問できる。
ただし、グラフにも権威が宿る。「システムがそう言った」となると、黒箱のアルゴリズムは監督以上に反論しにくい。測定誤差、日内変動、機器間の違い、サンプルの偏りを教えずに点数だけ渡せば、データ教育ではなくデータ服従になる。
良い授業は、選手自身に仮説を立てさせる。今日はなぜリリースが低かったか。睡眠か、疲労か、意図した変化か。次に何を一つ変え、どの指標で確かめるか。会社が掲げる「社会性」と「自ら学ぶ力」が本物になるかは、数字を競争の順位にするか、対話の共通語にするかで決まる。
少年の身体データは、誰のものか
モーションキャプチャー、動画、身長・体重、可動域、球速、回転軸、痛みや既往歴は、未成年者の詳細な身体プロフィールになる。保護者が同意しても、本人が将来どこまで利用されるかを理解できるとは限らない。
入会前には、何を収集し、誰が見て、どの期間保存し、研究、商品開発、広告、AI学習に二次利用するかを明示する必要がある。退会時に削除できるか。学校や球団へ提出するレポートを本人が取得できるか。漏えい時の連絡はどうするか。プロの巨大データベースと少年の記録を比較するなら、匿名化だけで再識別を防げるかも問われる。
会社のプレスリリースはカリキュラムと料金を詳しく示す一方、こうしたデータ・ガバナンスを説明していない。プライバシーポリシーが存在することと、子どものスポーツ測定に即した理解しやすい同意を用意することは別である。
月謝がつくる「科学への入口」
少人数、高価な機器、専門人材には費用がかかる。だが月2万4,200~3万4,100円に交通費、所属チームの費用、用具代を加えると、利用できる家庭は限られる。市川の水曜夕方へ通える地理と時間も条件になる。
民間企業が価値へ価格を付けることは当然で、24席程度の小規模教室へ大手並みの公益を求めるのも公平ではない。それでも、少年スポーツの「科学化」が有料の追加教育だけで進めば、測定を買える選手と、経験則だけで練習する選手の差が広がる。
この小さな会社が本当に野球文化を変える可能性は、満席にすることだけでは測れない。安全な投球量、痛みの申告、年齢に応じた指導、データの読み方を、学校、地域チーム、指導者講習へどこまで還元できるか。高価なラボで発見した知見を、ストップウォッチとスマートフォンしかないグラウンドでも使える言葉へ翻訳できるかが問われる。
プロ300人の看板を、子どもへどう下ろすか
ネクストベースは平良海馬投手を含む300人以上のプロ選手や、日本、米国、台湾、韓国のチームを支援してきたと説明する。この実績は技術力を示す有力な材料だが、会社自身による集計であり、支援の範囲や成果の比較データは公表されていない。何より、プロに有効な助言が子どもにも有効とは限らない。
プロは選抜を勝ち残り、成熟した身体を持ち、年間の仕事として競技する。11歳は成長の途中で、楽しさ、複数競技、学校生活、長期的な健康が優先される。「トッププロの技術を早く与える」のではなく、「プロ解析で学んだ問い方を、子どもの発達へ合わせる」なら、この転用には意味がある。
9月2日の開校後に見るべき結果は、球速上昇だけではない。痛みで離脱した人数、休養を取れた日数、競技を楽しむ感覚、自己決定、継続率、退会理由、成熟の遅い選手への対応、家庭の負担。会社がそこまで測って公表するとき、「成長の可視化」という言葉は広告から研究へ近づく。
再び、野球を教室へ
1872年、ウィルソンが学生へ教えた野球に、回転数の表示はなかった。彼が渡したのは競技のルールと、身体を使って共同で学ぶ方法だった。1918年の京都では、教育者たちが子どもに合うボールをつくった。2001年のJISSは、科学者、医師、コーチを一つの施設へ集めた。
2026年の市川で、同じ歴史が小さく折り返す。今度の教室にはカメラがあり、球の軌道は数式で説明される。それでも最も重要な問いは古い。子どもに何を教えるのか。勝つために身体を使うのか、身体を理解しながら長く競技するのか。指導者へ従う選手をつくるのか、自分で考える選手をつくるのか。
NEXTBASE Baseball Academyは、その答えをまだ出していない。扉も正式には開いていない。だからこそ期待と検証を同時に向ける価値がある。日本野球が150年以上かけて育てた努力の文化へ、センサーは新しい目を与えられる。だが、数字が少年を守り、自由にするのは、数字を集めた瞬間ではない。大人がその意味と限界を正直に教えたときである。
取材ノート・主な資料
本稿は2026年8月5日午前9時41分(日本時間)までに確認できた公開情報に基づく。開校前のサービスであるため、企業の将来目標と実証済みの結果を区別した。人数・支援実績は明示した場合を除き会社発表による。
- ネクストベース:NEXTBASE Baseball Academy開校発表(2026年7月7日)
- 株式会社ネクストベース:経営陣・研究歴
- ネクストベース・アスリートラボ:施設・プログラム
- 野球殿堂博物館:日本野球の歴史
- 野球殿堂博物館:ホーレス・ウィルソン
- 日本高等学校野球連盟:大会小史
- 日本スポーツ振興センター:国立スポーツ科学センター
- Matsuura et al.:少年野球選手の肘傷害に関する1年間の前向き研究(2013年)
- Matsuura et al.:少年野球の肩・肘痛疫学(2016年)
- 日本の小中高生の投球数提言と試合実態に関する研究(2022年)
- 日本高等学校野球連盟:2025年度審判の手引き変更点・週500球制限
- Fleisig et al.:少年投手の肘傷害予防レビュー(2012年)
