敬老の日は、誰のための休日なのか。家族で食卓を囲む人もいれば、普段と変わらず仕事や介護に向き合う人もいる。2026年は9月21日が敬老の日に当たる。国民の祝日になってから60年。その出発点をたどると、兵庫県の一つの村が、高齢の住民を地域の真ん中に迎えようとした取り組みに行き着く。[1][2]

舞台は、現在の多可町八千代区にあたる野間谷村。祝日の由来を知ることは、昔の美談を振り返るだけではない。敬意を表すことと、日々の暮らしを支えることを、どう結び付けるか。その問いを、地域から考え直す手掛かりになる。

1947年、村の敬老会から

多可町の『広報たか』2016年9月号によると、当時の村長・門脇政夫が1947年9月15日に開いた村主催の敬老会が始まりだった。対象は55歳以上。長年の貢献に感謝するとともに、蓄えてきた知識や経験を次の世代に伝えてもらう場を目指したという。[3]

全国町村会に掲載された当時の多可町長による2007年の寄稿には、村の自動三輪車を集めて参加者を送迎し、公会堂で食事と播州歌舞伎を楽しんでもらったとの記述がある。これは後年にまとめられた地域の沿革であり、当日の現場取材記録として読むべきものではない。それでも、祝いの場に人を迎えるために、移動の手段まで用意したという具体性は印象に残る。[4]

招待状を出すだけでは参加できない人がいる。そこに手を伸ばすことも、敬意を形にする行為だったと読める。今日なら、会場までの足、階段の有無、聞き取りやすさ、長時間座る負担などが同じ問いにつながる。祝いの内容と、そこに加われる条件は切り離せない。

「村の行事」が全国に届くまで

翌1948年、国民の祝日に関する法律ができた。しかし、敬老の日はまだ含まれていなかった。町の記録では、門脇は2回目の敬老会で、9月15日を「としよりの日」とする村独自の祝日を提唱したとされる。1947年の最初の催しと、1948年の提唱は、分けて押さえておきたい。[3]

内閣府の沿革では、1950年に兵庫県で敬老・福祉の県民運動が始まり、1951年には中央社会福祉協議会、現在の全国社会福祉協議会が全国運動を提唱した。9月15日から21日までを運動週間とする取り組みである。[2]

この間の経過は、一人の発案がそのまま法律になったという一直線の物語には収まらない。村の実践が県域の運動となり、福祉の団体を通じて全国へ広がった。人を集める催しに加え、高齢者の暮らしへの関心を社会に促す仕組みが必要だったのである。

1963年の「老人の日」と、1966年の祝日

法律の原文を確かめると、節目の違いがより明確になる。1963年7月11日公布の老人福祉法は、第5条に「老人の日」を設け、9月15日と定めている。その目的は、老人福祉への関心と理解を広めることなどにあった。この段階では、祝日法に基づく国民の祝日になったわけではない。[5]

同法は、国と地方公共団体が老人福祉を増進する責務も規定した。祝意を示す行事と、行政が担う生活の保障が、同じ法律の中に置かれた点は見逃せない。高齢者を敬うという理念を、家庭の心掛けだけで完結させない制度上の位置付けだった。

そして1966年6月25日公布・施行の祝日法改正で、9月15日の「敬老の日」が加えられた。附則では老人福祉法第5条も改め、敬老の日に福祉への理解を深める行事が行われるよう、国や自治体が努める規定にした。[6]

したがって、2026年は祝日制定から60年であり、1947年の敬老会からは79年になる。「発祥」と「制定」は同じ年ではない。祝日の長い歴史を伝えるときこそ、この19年の歩みを省かずに見たい。

日付が動いても、9月15日は残った

敬老の日が9月の第3月曜日になったのは2003年からだ。一方、2001年の老人福祉法改正により、9月15日の「老人の日」と、同日から21日までの「老人週間」が定められた。現在は、祝日と福祉への理解を深める期間が、重なりながらも別の仕組みとして存在する。[2]

今年のカレンダーでは、9月21日が敬老の日、23日が秋分の日。その間の22日は祝日法第3条第3項による休日で、振替休日ではない。土日が休みの人には19日から23日までの5連休になるが、全員に同じ休みがあるわけではない。[1]

まとまった休みは、離れて暮らす家族に会う時間をつくりやすくする。半面、介護や交通、販売などの仕事を担う人にとっては、むしろ忙しい時期にもなり得る。祝日を移したことだけで、交流の機会が等しく増えるわけではない。会う日や方法を当事者の都合に合わせることも、祝う側の配慮になる。

町名が変わっても受け継がれたもの

現在の多可町は、中町、加美町、八千代町の合併によって2005年11月1日に誕生した。全国町村会の寄稿が紹介する沿革では、敬老の日の記憶は旧八千代町から新しい町へ引き継がれている。いまの町名を1947年にさかのぼって使うと、この地域の変化が見えなくなる。[4]

町の2016年の広報は、2013年に敬老のうた「きっとありがとう」を制作したことも伝えている。児童・生徒から寄せられた歌詞を基にした作品だ。歴史を年表や記念碑に残す方法に加え、子どもが自分の言葉で考え、歌にする方法も選ばれてきた。[3]

こうした営みを続ける際に大切なのは、高齢者をいつも「教える人」、子どもをいつも「教わる人」に固定しないことだろう。一緒に絵を描く、料理をする、昔の写真を見る。経験を語りたい人も、ただ同じ時間を過ごしたい人もいる。交流の価値は、一律の役割を与えるより、本人が望む関わり方を選べるところにある。

「元気で役に立つ」ことを条件にしない

1963年の老人福祉法は、高齢者の知識や経験を社会に生かす考え方と、安らかな生活を保障する考え方をともに掲げていた。仕事や社会的活動の機会も、本人の希望と能力に応じたものとしている。[5]

その二つを一緒に読むことには、今も意味がある。活躍を紹介することは励みになる一方、働けない人、話すことが難しい人、外出を望まない人の価値を低く見積もってはならない。何かを提供できることと、尊重されることは交換条件ではない。

内閣府が示す2026年の老人の日・老人週間キャンペーンにも、高齢者の社会参加とともに、人権の尊重、介護者への支援、地域の防災上のつながりが盛り込まれている。[2] 記念日の理念を日常に移すなら、本人が困ったときに相談できるか、手伝いを断る自由があるか、介護する家族も休めるか、といった具体的な問いが必要になる。

祝った翌日に、何が残るか

長寿を喜ぶ気持ちは、贈り物や一日の集まりに十分込められる。そのうえで、敬老の日を地域の歴史から読み直すと、祝う場を設けるだけでは終わらない仕事が見えてくる。

遠くの家族なら、次に連絡する日を一緒に決める。地域の催しなら、参加できなかった人がどんな過ごし方を望んでいたかを聞く。自治体や団体なら、毎年の出席者数だけでなく、移動や意思疎通の壁が減ったかを考える。これは当時の出来事の再現ではなく、その歴史を踏まえた、いまの選択である。

野間谷村の敬老会から国民の祝日へ。広がったのは、カレンダーの赤い日だけではない。地域を共につくってきた人に、これからも居場所があるようにするという課題だった。60年の節目に問われるのは、祝った翌日にも、その人の声を聞く時間を持てるかどうかだ。