救急車が到着した時、患者にとって病院はまだ遠い。2024年、全国の救急自動車による出動件数は771万8,380件。現場到着まで平均9.8分、病院収容までは平均44.6分かかった。新型コロナ禍前の2019年と比べ、病院収容までの時間は約5.1分延びている。[1]

この「病院までの空白時間」を、どこまで医療に変えられるか。厚生労働省は2026年10月7日、「救急救命処置の在り方に関する検討会」の第3回会合を開き、救急救命士が実施できる処置の範囲見直しを続けた。検討の背景には、高齢化で増え続ける救急需要と、都市・地方を問わず逼迫する救急医療体制がある。[2]

現時点での重要な点: 検討中の処置は、まだ全国で一律に実施できる新ルールではない。厚労省は必要性、安全性、侵襲度、技術的難易度、実施頻度、病院前で行う具体的効果などを評価し、追加の可否や実証方法を検討している。[3]

1991年、「病院に着くまで」を医療にする制度が始まった

日本の救急救命士制度は1991年、救急救命士法の制定によって始まった。当時の厚生省は、救急医療機関の整備が進む一方、現場から病院へ搬送されるまでの医療が十分でないことを課題としていた。医師をすべての救急車へ乗せることは現実的ではない。そこで、国家資格を持つ救急救命士が医師の指示の下で高度な救命処置を行う制度がつくられた。[4]

制度創設当初に認められていた特定行為は限られていた。半自動式除細動器による除細動、乳酸リンゲル液による静脈路確保のための輸液、食道閉鎖式エアウェイやラリンゲアルマスクによる気道確保などである。[5]

30年かけて、処置は少しずつ広がった

救急救命士の処置範囲は、一度に大きく拡大したのではない。安全性を検証しながら段階的に増えてきた。

2003年には除細動が医師の具体的指示を待たずに行える包括指示へ移行。2004年には一定の研修を終えた救急救命士による気管挿管、2006年には心肺停止患者へのエピネフリン投与が可能になった。2009年には自己注射用エピネフリン製剤、2011年にはビデオ硬性喉頭鏡を用いた気管挿管、2014年には心肺停止前の重度傷病者への静脈路確保・輸液と、低血糖患者へのブドウ糖投与が加わった。2021年には、一定の条件の下で病院到着後から入院までの間にも救急救命処置を行えるよう法改正された。[6]

1991年救急救命士法制定
772万件2024年の救急自動車出動件数
44.6分2024年の平均病院収容所要時間
5処置優先的に結論を目指す処置群

今、何が検討されているのか

2025年6月に閣議決定された規制改革実施計画は、救急救命処置について「現行の範囲にとどまらず、その範囲の不断の見直し」を求めた。これを受け、厚労省は2026年3月から新しい検討会を始めた。[3]

優先的に検討されている五つの処置は、①心肺停止に対するアドレナリン投与等の包括指示化、②アドレナリン製剤を処方されていないアナフィラキシー患者への筋肉内アドレナリン投与、③事故で抜けた気管切開チューブの再挿入、④急性冠症候群などに対する12誘導心電図の測定・伝送、⑤心肺停止患者への自動式人工呼吸器による人工呼吸である。[3]

このほか、まだ評価途中の複数処置についても検討が進められている。

アドレナリン:「指示を待つ時間」を減らせるか

現在、心肺停止患者へのエピネフリン投与は救急救命士が行える特定行為だが、原則として医師の具体的指示が必要だ。今回の議論では、その一部を包括指示へ移せないかが焦点となる。

包括指示化には時間短縮の利点がある。救急現場では、電話や無線で医師へ患者情報を伝え、指示を受けるまでに時間を要する場合がある。一方、薬剤投与は適応、投与量、タイミングを誤れば危険を伴う。メディカルコントロール体制、教育、記録、事後検証が不可欠になる。

アナフィラキシー:エピペンを持っていない患者はどうするか

現在の制度では、患者本人が医師から自己注射用エピネフリン製剤の処方を受けている場合、救急救命士がその製剤を使用できる。一方、初めてアナフィラキシーを起こした患者など、自己注射薬を持っていない場合の救急救命士による筋肉内アドレナリン投与は、一般的な全国運用にはなっていない。

アナフィラキシーは気道閉塞やショックへ急速に進むことがある。病院到着まで待つのではなく、適応を正確に判断して現場で投与できれば救命上の利点が期待される。その一方、診断を誤った場合の安全性や、投与後の観察・搬送体制も検討課題になる。

気管切開チューブが抜けた時

在宅医療の広がりに伴い、気管切開をしたまま自宅で生活する患者もいる。チューブが事故で抜ければ、気道が確保できなくなる可能性がある。

現在の救急救命士制度では、こうした事故抜去への再挿入は一般的な処置範囲に入っていない。今回の検討は、救急救命士が一定の条件下で再挿入できるようにするかを問う。必要性は理解しやすいが、患者ごとに気管孔の状態や使用チューブが異なるため、技術面と適応判断が難しい。

12誘導心電図は、病院の判断を救急車へ前倒しする

急性心筋梗塞などでは、治療開始までの時間が予後を左右する。救急救命士は現在も心電計で心拍動を観察し、心電図を伝送できる処置があるが、今回の検討では急性冠症候群などを対象に12誘導心電図を測定・伝送することが明示的に議論されている。

12誘導心電図を病院到着前に取得し、循環器医へ送れれば、搬送先選定やカテーテル治療の準備を早められる可能性がある。これは救急車内で診断を完結させるというより、病院側の意思決定を前倒しする処置である。

処置範囲拡大の本質は「救急救命士を医師に近づける」ことではない。病院でしかできなかった判断や治療の一部を、安全に数分早く始められるかという問題だ。

自動式人工呼吸器:人手を減らすのではなく、換気を安定させる

心肺停止患者へのバッグマスク人工呼吸は救急隊の基本的処置だが、胸骨圧迫、薬剤投与、搬送準備などが同時進行する現場では、一定した換気を継続することは容易ではない。

自動式人工呼吸器を利用できれば、設定された換気を安定して行い、人員を別の救命処置へ振り向けられる可能性がある。一方で、気道確保の状態や機器設定を誤れば不適切な換気につながるため、適応と教育が重要になる。

超音波検査も俎上に上がった

2026年7月の第2回検討会では「救急救命士による病院前超音波検査」が独立した資料として示された。[7]

携帯型超音波装置は小型化が進み、救急や災害現場での利用が広がっている。内出血、心臓の動き、肺の状態などを病院前で評価できれば、搬送先選択や医療機関側の準備に役立つ可能性がある。ただし、画像取得と読影には訓練が必要で、誰が最終判断をするかという問題もある。

救急需要は「件数」だけでなく時間も増えている

消防庁によると、2024年の救急出動件数は約772万件で過去最高水準。1日平均約2万1,088件、約4.1秒に1回救急隊が出動した計算になる。搬送人員は676万9,172人だった。[8]

同時に、現場到着や病院収容にかかる時間も伸びている。高齢者は複数疾患を抱えていることが多く、搬送先選定や受け入れ調整が複雑になりやすい。処置範囲の拡大は、こうした救急需要の増加への一つの対応策だが、受け入れ病院不足そのものを解決するわけではない。

救急救命士は毎年約3000人ずつ増える

厚労省の2026年7月会合では、毎年おおむね3,000人程度が新たに救急救命士として登録されていると説明された。[9]

資格者が増えても、処置を追加するには教育が必要だ。気管挿管のように、追加研修と実習、地域メディカルコントロール協議会による認定が必要な処置もある。処置範囲の拡大は法令改正だけでは実現せず、養成課程、継続教育、症例検証まで含む制度設計が必要になる。

「メディカルコントロール」が安全網になる

日本の病院前医療では、医師が救急救命士へ指示・助言を行い、処置後に症例を検証し、教育へ戻すメディカルコントロール体制が重要な役割を持つ。

2000年代以降、処置範囲が広がるたび、この仕組みも整備されてきた。救急救命士が現場でより多くの判断を担うほど、医師とのリアルタイム連携だけでなく、事後検証と教育の質が重要になる。

「できる処置」が増えても、全員がすぐできるわけではない

制度上認められた処置でも、必要な研修や認定を受けた救急救命士だけが実施できるものがある。気管挿管、薬剤投与、心肺停止前の輸液、低血糖へのブドウ糖投与などは、制度拡大時に追加教育や認定体制が整えられてきた。[10]

新しい処置が採用される場合も同じだ。全国一律に翌日から使えるのではなく、教育内容、認定要件、使用機器、医師指示の形、事後検証などを決める必要がある。

海外の「paramedic」と同じではない

英語では救急救命士を便宜上paramedicと訳すことが多いが、各国で資格範囲は大きく異なる。薬剤投与、鎮痛、気道管理、心電図診断などを広く行う国もあれば、医師の指示体系が日本とは異なる国もある。

したがって「海外ではできるから日本でも」という単純比較はできない。日本の制度は医師法、救急救命士法、消防制度、地域メディカルコントロールを組み合わせた独自の仕組みである。

処置を増やせば救急逼迫は解消するのか

答えはノーだ。救急救命士ができることを増やしても、救急車の台数、救急隊員の人員、病院の受け入れベッド、夜間休日の専門医不足といった問題は残る。

一方で、病院到着前の数分から数十分を有効に使える処置であれば、患者の予後や搬送先選択を改善する可能性がある。特に心停止、アナフィラキシー、急性冠症候群など時間依存性の高い病態では、数分の差が意味を持つ。

次に問われるのは「何を増やすか」より「どう増やすか」

厚労省は今回、従来分散していた検討体制を整理し、「救急救命処置検討委員会」で必要性、安全性、難易度、侵襲度などを評価し、その上で「救急救命処置の在り方に関する検討会」が追加可否を議論する流れを明確にした。[9]

これは重要な変化だ。処置を増やすかどうかを個別の要望だけで決めず、継続的に評価し、必要なら先行実証を行い、制度へ組み込む仕組みを作ろうとしている。

救急車は、単なる「病院までの乗り物」ではなくなって久しい。1991年の制度創設から35年。日本がいま再び問うているのは、救急車の中をどこまで「治療の場」に変えるのか、そしてその権限を誰に、どの訓練と監督の下で託すのかである。

出典・参考資料

  1. 総務省消防庁「令和7年版消防白書 救急業務の実施状況」。
  2. 厚生労働省「救急救命処置の在り方に関する検討会」第3回、2026年10月7日。
  3. 厚生労働省「第1回救急救命処置の在り方に関する検討会 議事録」2026年3月10日。
  4. 厚生労働省「救急救命士法の施行について」1991年。
  5. 総務省消防庁「救急救命士の処置範囲の拡大」。
  6. 厚生労働省「救急救命処置の拡大(経緯)」。
  7. 厚生労働省「第2回救急救命処置の在り方に関する検討会 資料」2026年7月9日。
  8. 総務省消防庁「令和6年中の救急出動状況」。
  9. 厚生労働省「第2回救急救命処置の在り方に関する検討会 議事録」。
  10. 厚生労働省資料「救急救命士の特定行為と認定・登録」。

取材・確認期限:2026年10月7日。本稿で挙げた新処置は検討中であり、全国で実施可能になったことを意味しません。第3回会合の議事録は確認期限時点で未公表のため、会合ページとそれ以前の公式議事録・資料を基礎に記述しています。