道があることと、そこを誰もが通れることは違う。大阪・池田市で始まるのは、歩道の小さな段差まで「地図の情報」にするための実験だ。
地図にない「通れない道」
目的地までは徒歩8分。画面はそう示していても、車いすで出かければ話は変わる。途中に高い縁石、狭い歩道、急な上り坂があれば、わずかな距離でも通り抜けられない。ベビーカーを押す人、杖を使う高齢者、荷物を運ぶ人にとっても同じ道が異なる難所になる。歩行者のための地図が必要とするのは距離だけではない。
国土交通省は2026年10月16日、人工知能(AI)などを用いて歩行空間の障壁を把握する現地実証の実施団体に、大阪府池田市を選定したと発表した。募集期間は9月3日から10月2日。応募団体の提案を外部有識者の助言・意見も踏まえて総合評価し、池田市を選んだ。現地実証は10月下旬から12月、成果の取りまとめは2027年1月から2月を予定する。
この発表は、池田市にAI案内アプリが完成したという意味ではない。試すのは、歩行空間の幅員、縦断勾配、段差などの「バリア」情報をAI等で自動的に抽出し、「歩行空間ネットワークデータ」の整備を効率化できるかという技術である。市内の具体的な調査区間や使用機材、精度の結果は10月16日の発表本文だけでは確定できない。
幅員、縦断勾配、段差――データの意味
歩行空間ネットワークデータは、道路や通路を接続関係で表し、そこを移動する際の条件を属性として付ける情報だ。重要なのは道路に名前が付いているかではなく、移動の連続性が保たれるかどうかである。幅員は通れる空間の広さ、縦断勾配は進行方向の傾き、段差は路面などの高さの違いを指す。
これらの情報は、車いすの利用者によって許容できる条件が異なる。手動式か電動式か、介助者がいるか、路面が滑りやすいかによっても安全な経路は変わる。段差や傾斜を一律に「通行不能」と判定すれば選択肢を狭めるおそれがある一方、危険な場所を誤って通れると表示すれば事故につながる。だからこそデータの正確さ、更新日、利用者側で選べる条件が欠かせない。
なぜAIなのか――調査と更新のコスト
段差や坂を詳しく把握するには、現場を測る労力がかかる。さらに工事、舗装、仮設物、季節変化で通路の状況は変わる。データは一度完成すれば終わりではない。自治体が高精度の情報を継続的に整備するには、測定、確認、更新の費用を抑える方法が必要になる。
今回の実証の核心は、AIの派手な画面ではなく、実務をどれだけ省力化できるかだ。自動抽出した段差の高さや坂の分類は、実地の測量とどこまで一致するのか。雨天や影、混雑した道路でも使えるのか。測り直しが必要な場所を検出できるのか。国交省が今後公表する成果では、作業時間や精度、更新の負担をセットで示すことが望まれる。
2003年度から続く移動支援の研究
歩行者移動支援は、新しい流行語ではない。国土交通省の過去の資料には、2003〜08年度の「自律移動支援プロジェクト」、2009〜10年度のモビリティサポートモデル事業、2010年代のICTを活用した移動支援の検討が残る。位置を把握する技術と、場所ごとの移動条件を共有する技術を組み合わせる構想は20年以上にわたって磨かれてきた。
整備仕様の2018年版は自治体のバリアフリーマップや詳細な案内に活用されてきた。2024年7月30日の改定では、簡易な計測での整備・更新、移動機器の性能差、車いすや配送ロボットなどの走行軌跡の活用を重視した。データの作り方を標準化し、自治体や事業者が共通の情報を使えるようにする取り組みだ。
池田市は突然選ばれたわけではない
国交省は2025年9月、歩行空間ナビゲーションデータプラットフォームのオープンデータサイトを開設した。2026年3月には閲覧機能を試験公開し、大阪府の豊中市・池田市に関するバリアフリー施設等データも対象に含めた。今回の池田市選定は、こうした関連施策と連続している。ただし、3月に公開した施設データと10月以降のAIによる歩行空間データ抽出は同じ作業ではない。
行政サービスの改善として重要なのは、既存の情報を一つのアプリに閉じ込めず、他の地域や開発者が使える形で提供することだ。国がオープンデータ化を進める理由もそこにある。共通仕様で整った情報が増えれば、自治体ごとに地図を一から作り直す負担は軽くなる可能性がある。
利用者を置き去りにしない検証を
AIが道路を正しく認識したとしても、それだけでは案内として十分とは限らない。例えば横断歩道の手前に段差がないことと、信号を安全に渡れることは別だ。工事でふさがれた通路、建物の入口、エレベーター、バリアフリートイレ、夜間の照明など、移動に必要な条件は複数ある。
障害当事者や介助者による利用テストも欠かせない。データをどう見せれば分かりやすいか、危険な案内が出たとき誰が訂正するか、地図に反映されるまで何日かかるか。精度の良いAIだけでなく、誤りを修正する運用体制が公共サービスを支える。
人のための地図とロボットのための地図
国交省は、歩行空間データを使う主体として人だけでなくロボットにも言及している。低速の自動配送ロボットや移動支援機器も、段差や坂、道幅の条件を必要とする。共通データは高齢化する社会の移動支援と新しいモビリティ産業を結ぶ基盤になるかもしれない。
しかし歩道は、機械の運行効率を最優先する場所ではない。障害者、子ども、高齢者、歩行者が安全に共存できることが出発点であり、ロボットが通れる経路を見つけることと、歩行者にとって快適な道を設計することは同義ではない。
成果は2027年初めに問われる
10月16日に公表されたのは選定と予定であり、実証結果ではない。期間内にどの程度の道路を調べるか、実測値と照合した抽出精度がどれほどか、手作業と比較して工数を削減できるか、更新作業を誰が引き受けるか。池田市の実証の価値は、来年初めの報告でこうした問いに答えられるかにかかる。
スマートシティを語るとき、都市を上空から眺めた地図やセンサーの数が注目されがちだ。しかし街を知るには、路面に近い目線が要る。わずかな段差が外出を左右する人にとって、便利な都市とは最短経路を表示する都市ではなく、安心して選べる道を増やす都市だからだ。
AIの成功は、機械が街を読み取れるようになることだけではない。今まで見えなかった移動の障壁を、社会が見過ごさなくなることにある。
出典・参考資料
- 国土交通省「現地実証の実施団体に大阪府池田市を選定」(2026年10月16日)
- 国土交通省「歩行空間ネットワークデータ整備仕様を改定しました」(2024年7月30日)
- 国土交通省・歩行空間ネットワークデータ等整備仕様・ガイドライン
- 国土交通省「歩行空間ナビゲーションデータプラットフォームオープンデータサイトを開設」(2025年9月30日)
- 国土交通省「歩行空間ネットワークデータ整備システム・バリアフリー施設等データ整備システムを試験的に公開」(2026年3月)
- 国土交通省・歩行空間の移動支援に係るデータのオープンデータ化・利活用促進ワーキンググループ
- 国土交通省・歩行者移動支援の過去の関係資料・取組内容(2003年度以降)
- 国土交通省・ICTを活用した歩行者移動支援の検討委員会資料
