1897年明治30年の作品
三枚続き木版錦絵
35.9 × 72.4 cm所蔵館記載の画面寸法
1911年団子坂菊人形興行の最終年

菊の花だけでなく、花を見物する都市の文化を描いた。

菊の花を見に、明治の東京へ

東京・千駄木の団子坂は、かつて秋が来るたび人々の足を集めた。坂の周辺には菊をまとった等身大の人形が並び、見物客は趣向を凝らした花の造形と物語の場面を楽しんだ。いま、そのにぎわいを伝える一枚が、海を越えた米国の美術館に残されている。明治30年(1897年)の尾形月耕(おがた・げっこう)による錦絵「美人名所合 団子坂の菊」だ。

単なる花の絵ではない。近代化する東京に生まれた都市型の余暇、園芸の職人技、女性と名所を組み合わせた出版文化を、一幅の風俗画として読み取ることができる。

作品の身元――「団子坂の菊」と「美人名所合」

スミソニアン国立アジア美術館の所蔵資料では、英語名は「Chrysanthemums at Dango Zaka」、作者はOgata Gekkō、制作年代は1897年8月5日、技法は紙に墨と色彩を用いた木版画と記載される。図柄は三枚続きで、画像寸法は縦35.9センチ、横72.4センチ。ロバート・O・ミュラー・コレクションを経て、アーサー・M・サックラー・ギャラリーの所蔵品となった。収蔵番号はS2003.8.1763で、現在展示室には出ていない。

一方、国内の那珂川町馬頭広重美術館の作品データベースと太田記念美術館の作品目録は、シリーズ名まで含めて「美人名所合 団子坂の菊」と記す。英国博物館も「美人名所合」に属する三枚続きと説明し、菊を見物する人々を描いた作品としている。日本語の正式表記を採ることで、絵の主題が「花」と「名所」と「人物」を組み合わせた企画であることが明確になる。

菊人形――生きた花でつくる芝居の世界

文京ふるさと歴史館によれば、団子坂の菊人形は幕末から明治にかけて東京の秋を彩った観光興行だった。人形の頭や手足には人間らしい造形を用い、衣装に菊花を植え込む。歌舞伎や歴史、当時の世相を題材にした情景が組み立てられ、ただ鉢植えを見るのとは異なる体験が生まれた。

その制作には専門技術と分業が要る。台東区の文化財解説は、人形師が顔や四肢を、菊師が骨組みと花付けを担い、興行主が全体を取り仕切ったと説明する。花は展示中も生き続ける素材だ。姿を保ち、花期を合わせ、天候にも耐えさせる必要がある。今日の言葉でいえば、園芸、立体造形、舞台演出を統合した季節限定の総合芸術だった。

坂道が大衆文化の舞台になった

団子坂は現在の東京都文京区千駄木に位置する。明治9年(1876年)には東京府の許可を得て木戸銭を取る興行が本格化し、明治20~30年代に最盛期を迎えたと文京区は説明する。花を見る行為は、都市の人が余暇に外出し、料金を払い、話題の出し物を楽しむ行動へ広がっていった。

月耕が「団子坂の菊」を描いた1897年は、まさにこの全盛期に当たる。しかし美術作品から、当日の客数や会場の正確な配置、入場料まで復元できるわけではない。錦絵は出来事を伝える一方、作者の選択によって構図や人物の振る舞いが整えられた商品でもある。記録と演出の境界を意識して見たい。

画家・尾形月耕の異色の歩み

月耕は安政6年(1859年)に江戸で生まれ、大正9年(1920年)に没した。国立国会図書館の「近代日本人の肖像」は、師匠につかず、谷文晁や菊池容斎の画風を独学したと記す。提灯や人力車の装飾、輸出向け陶器の絵付けなども経験し、明治10年代後半から新聞・書籍の挿絵で仕事を広げた。

月耕は伝統的な絵画世界を継承しながら、近代の印刷メディアで読者を得た。1891年には日本青年絵画協会の結成に参加し、のち日本美術院の創立にも関与。新聞挿絵から肉筆画、風俗錦絵、国内外の展覧会へと活動の場を広げた。単純に「江戸の最後の絵師」と位置づけるより、変わりゆく明治のメディアと美術制度を往来した画家と見るべきだ。

女性と名所、そして季節

「美人名所合」という題名には、その時代の鑑賞の仕組みが表れる。人間の姿が風景に尺度を与え、場所の名が作品を現実の東京へ結びつけ、季節の花が人々の装いと休日の感覚を運ぶ。月耕の人物表現には、木版画の輪郭線だけでなく、筆で描いたような柔らかな濃淡がある。

本図で重要なのは、菊花の品種を植物図鑑のように識別することより、菊を見物する行為そのものが絵になる点だ。花を介して知らない人と同じ空間を過ごし、何を見るべきかを共有する。かつての東京で「流行の場所へ行く」という経験が育っていたことを示している。

浮世絵はいつ「現代のニュース」を描くのか

浮世絵という語から、江戸の役者絵や名所絵だけを思い浮かべるかもしれない。だが明治の錦絵は、新しい都市の見物、鉄道、産業、戦争、風俗を題材にし、変化の激しい時代を視覚化した。月耕の作品にも歴史画と日常風景の双方がある。

団子坂の菊人形も、印刷文化によって都市全体の話題になり得た。今日の催事案内や写真付き記事と同じではないものの、木版画が季節の人気スポットを遠方の人々に伝える媒体だったことは確かだ。その表現をそのまま客観的な写真資料と見なさない態度が、近代の報道美術を読む鍵となる。

華やかな興行はなぜ消えたのか

団子坂の菊人形は永遠には続かなかった。文京ふるさと歴史館によれば、明治42年(1909年)に両国国技館で電気仕掛けの大規模な菊人形興行が始まると、団子坂は急速に衰退。明治44年(1911年)に最後の興行を迎えた。

花や職人の技が突然価値を失ったというより、客を集める場と娯楽の規模が変わったのである。大型施設や電気仕掛けの演出が新しい競争相手になった。菊人形の担い手は全国各地に活動の場を広げ、技術そのものは別の場所で受け継がれた。月耕の一枚は、都市の娯楽産業が次の段階へ進む前の記憶を伝える。

海を渡った一枚と、公開データの重要性

所蔵館のスミソニアンは本作を「ロバート・O・ミュラー・コレクション」の一部として管理している。来歴の研究は継続中で、1897年の版元や、その後の所有者をこの記録だけで完全にたどることはできない。作品が米国にあるという事実を、直ちに特定の売買経路や輸出事情へ結び付けるべきではない。

同館の作品ページにはCC0(クリエイティブ・コモンズ・ゼロ)によるパブリックドメイン表示があり、作品画像の再利用を認める説明が掲載されている。他方、同一ページには「Usage Conditions Apply」との表示も残る。実務上は対象画像の個別ライセンスと利用規約を確認し、作品名、作者、所蔵先、収蔵番号を明示することが望ましい。

1897年8月か、10月か――資料は一致しない

作品年代は1897年で一致する一方、細部には食い違いがある。スミソニアンは1897年8月5日、英国博物館は同年10月とする。原版の改印、刊行日、所蔵品記録の採録方法の違いが原因なのかは、この資料だけでは断定できない。

このためJapan.co.jpでは制作・刊行年を「1897年(明治30年)」と記し、日付の一致しない点を隠さない。美術史の記事でも、資料の精度は見出しの華やかさと同じくらい大切である。

秋の東京を、もう一度見る

現代の団子坂を歩いても、月耕の描いた興行をそのまま見ることはできない。だが花を見に出かける人々、季節を楽しむための技術、そして都市が生む「期間限定の人気」は、現代の美術展や地域の催事に通じている。

「団子坂の菊」は、菊の美しさだけでなく、その花を囲む社会の姿を残した。明治の東京を歩いていた人々にとって秋が何を意味したのか。三枚続きの画面は、静かな色彩の奥から、そんな問いを投げかける。

出典・参考資料

  1. Smithsonian National Museum of Asian Art
  2. British Museum, collection record
  3. 那珂川町馬頭広重美術館・所蔵品データベース
  4. 文京ふるさと歴史館・団子坂菊人形
  5. 文京区・菊人形今昔
  6. 国立国会図書館・尾形月耕
  7. 徳島県立近代美術館・尾形月耕
  8. 台東区・菊人形の頭作り
  9. 大田記念美術館・幕末から明治の浮世絵展作品目録