守るのは稚貝。問われるのは、餌の値段と海に戻した後の生存率。
干潟の外に、小さな海をつくる
有明海沿岸の熊本県長洲町で、建設会社がアサリの稚貝を育て始めた。海を丸ごと人工化する話ではない。厳しい季節だけ陸上で稚貝を守り、成長した貝を再び干潟に戻す。その間に必要な餌を、工場の副生液や米ぬかから安くつくれないか。大林組が10月14日に公表した屋外実証試験の核心は、貝そのものよりも「餌の値段」にある。
何が始まったのか
株式会社大林組(社長・佐藤俊美)は、熊本県玉名郡長洲町でアサリの陸上飼育に向けた屋外の大型実証設備を設け、ケイ藻の培養、給餌、水質管理、海水交換量の調整を検証していると発表した。アサリの販売を始めたという発表ではない。試験の目的は、稚貝を安定的に育てる条件と、飼育を継続できる費用の両方を見極めることにある。
五者協定が下敷きに
事業の前提は2025年12月2日の協定だ。長洲町、熊本北部漁業協同組合、味の素株式会社九州事業所、株式会社大林組、西日本工業大学の五者が、水産資源の持続的な生産と地域産業の活性化を目指して連携した。長洲町は同月12日付の公式記録で協定締結を伝えている。大林組の発表による各機関の役職者は、長洲町長・田成修一、同漁協の代表理事組合長・上田浩次、西日本工業大学学長・鶴田隆治、味の素九州事業所所長・岡田篤。役職は2026年10月14日付発表の記載に基づく。
かつて十数万トン、いまは資源回復が課題
アサリは日本の食卓、潮干狩り、沿岸漁業をつないできた。だが漁獲の歴史は厳しい。水産庁の資料では全国のアサリ漁獲量は1983年に約17万トンでピークを迎え、2016年には1万トン未満に落ち込んだ。年代の異なる数値を単純比較しても、かつての豊富な資源を前提にした漁業へ容易に戻れないことは明らかだ。これは全国値であって、長洲町単独の漁獲量ではない。
減少原因は「温暖化」だけではない
大林組は夏の高水温、豪雨後の淡水流入、南方性エイなどによる食害を課題として挙げる。一方、水産庁の既往研究には、底質の細粒化、貧酸素、波浪、疾病、捕食、親貝の減少など複数の要因が記されている。したがって、陸上飼育が成功しても、干潟の環境悪化すべてを解決したことにはならない。海に戻した後の生残、産卵、資源再生まで測る必要がある。
餌をつくる水槽と、貝を育てる水槽
屋外施設は、植物プランクトンの一種であるケイ藻を培養する水槽と、アサリを飼育する水槽を組み合わせる。ケイ藻は水中の栄養分を利用して増え、稚貝の餌になる。管理対象は、培養の安定性、給餌の量と時刻、水質、海水交換量などだ。小さな生き物を扱う工程にも、流量の制御や設備の大型化という工学的な難題がある。
アミノ酸工場の副生液がケイ藻の栄養に
大林組によると、味の素株式会社九州事業所(佐賀県佐賀市)のアミノ酸製造工程で生じる副生液を、ケイ藻培養の栄養材として活用する。窒素やアミノ酸などを含む液体を別の生産工程の資源として使う発想だ。ただし、栄養材としての活用が、処理や輸送の負荷を含めて環境上の純便益を生むかどうかは、独立したライフサイクル評価なしには断定できない。
米ぬかで餌代「約10分の1」の見通し
もう一つの鍵は米ぬかだ。大林組は室内試験で、米ぬかなどの循環資源をケイ藻の代替餌料として使えることを確かめたと説明する。ケイ藻の大部分を置き換えた場合、給餌費用はケイ藻だけを使う場合のおよそ10分の1まで下がる見込みという。これは企業側の予測であり、屋外設備での量産原価、稚貝の成長速度、生残率、製品品質の実証済み成果ではない。
育てて、戻す。食用アサリの工場生産とは異なる
アサリは商品サイズになるまで約3年を要すると大林組は説明する。この間の厳しい季節に稚貝を守り、干潟へ戻して親貝資源を支えるという考え方は、通年で陸上だけで食用の貝を収穫するビジネスとは異なる。河口の塩分変化、猛暑や豪雨、干潟への放流後の食害など、陸上設備の外にも成否を左右する条件が残る。
「おさかな牧場」という構想の歴史
建設会社が水産に関わるのは唐突にも見える。だが大林組は2024年刊行の『季刊大林』第63号「漁」で、大阪湾を想定した「おさかな牧場」構想を発表していた。魚、貝、海藻などの栄養循環を考え、海の生産力と生態系保全を同時に扱おうとする提案である。今回の長洲町の試験はその構想と同じ方向を向くが、大阪湾の構想そのものが長洲町で実装されたわけではない。
成功の条件は設備費と放流後の生存
今後注視すべきなのは、稚貝1個当たりの実際の飼育費、培養の失敗率、電力・ポンプの運転費、水質管理、温度と塩分の変化への対応だ。さらに干潟へ戻した稚貝がどれだけ生き残り、翌年以降の親貝と漁獲に寄与するか。自然の変動が大きい海の資源回復に、施設で制御できる部分をどこまで持ち込めるかが問われる。
地域の漁業者を主役にできるか
協定には漁業者、自治体、大学、食品企業、建設企業が加わる。それぞれの役割は異なる。設備設計だけでは漁場を維持できず、現場の漁業者の知見、採苗や放流の場所の選定、長期的なモニタリングが不可欠だ。成果があれば他地域への応用も検討できるが、干潟ごとの環境や利用できる副産物が違う以上、同じ設備を置くだけで再現できる保証はない。
次に確かめたいこと
公表資料には、実証設備の総工費、稚貝の飼育数、予定する試験期間、放流予定数、経済性の損益分岐点などが明示されていない。大学・漁協の評価方法も独立に確認したい。これらが明らかになって初めて、発表は「新しい試み」から「再現可能な資源回復モデル」へ進む。海の外で貝を守る試験は、海に戻した後の数字によって評価されるべきだ。
