観察したのは「細胞の色」ではない。分子の赤外吸収を頼りに、動く細胞内の化学的な分布を読み出した。
細胞の中の「動き」を、立体の映像に
生きた細胞の内部では、脂質を蓄える小さな粒が移動し、分子の集まりが形を変え、物質が絶えず行き来する。ところが、化学成分の違いまで識別しながらその運動を三次元で追うことは難しかった。東京大学の研究グループは、赤外光に対する分子の応答を利用して細胞を染色せずに観察する顕微鏡を高速化し、1秒間に19.2枚の立体画像を取得した。10月30日付の学術誌『Nature Communications』に成果が掲載された。
400倍速くなったのは、何か
研究チームの説明によると、従来の同系統の三次元計測は毎秒0.05ボリューム未満だった。今回の装置は毎秒19.2ボリューム、すなわち約52ミリ秒ごとに立体画像を得る。比較対象は「この方式の従来の三次元撮影」であり、世界のすべての顕微鏡が400倍遅かったという意味ではない。撮像速度を上げても、化学的な信号を読み取り、厚み方向の情報を残すことに技術的意義がある。
試料に色を付けず、化学的な違いを見分ける
一般に細胞を観察するときは蛍光色素や蛍光タンパク質で特定の対象を標識する方法が広く使われる。高い選択性を持つ一方、標識の準備が必要で、条件によっては試料の状態に影響することがある。今回の方法は「非標識(ラベルフリー)」で、分子が中赤外光を吸収する際の振動特性を手掛かりにする。蛍光顕微鏡の代わりを全面的に果たす技術ではなく、異なる物差しで細胞を見る手法だ。
赤外線を当て、可視光で微小な変化を読む
中赤外光は分子の化学結合の振動と結び付く。細胞が特定の中赤外光を吸収すると、わずかな光熱効果によって屈折率が変化する。装置はその変化を可視光で検出する。中赤外光を照射した状態と照射しない状態の差を測ることで、目的の信号を取り出す。すなわち、一般の写真のように細胞を直接撮るのではなく、光に対する応答から成分分布を再構成する。
11方向の観察を重ね、三次元像を組み立てる
三次元化の鍵は、光の照射方向を素早く切り替え、異なる角度から得られた情報を計算で立体像にする光回折トモグラフィーにある。東京大学の解説では、試料を11方向から観察した。空間光変調器を使って方向を高速に切り替え、1回の撮像で利用できる信号の品質を高めることで、従来必要だった長い平均化処理を減らした。正式な手法名は中赤外フォトサーマル光回折トモグラフィー(MIP-ODT)である。
脂肪滴の軌跡が教えてくれること
研究では生きた細胞内の脂肪滴を、脂質に由来する信号で識別し、三次元空間における動きを追跡した。脂肪滴は単なる油の塊ではなく、細胞内のエネルギー貯蔵や代謝に関わる構造である。平面の映像では手前と奥の移動が重なって見え、同じ動きに見えてしまう場合がある。奥行きのある時系列データを得ることで、位置によって異なる移動の性質を定量的に調べられる。
毎秒約20波数の分光画像も
研究グループは観察の速さだけでなく、赤外線の波数を変えて化学的な差を読み分ける分光モードも示した。発表によれば、約1秒間に約20波数の三次元データを取得した。ここでいう「波数」は分光測定に用いる光の周波数に対応する指標で、細胞数や画像の枚数ではない。高速の動態観察と、より豊かな化学情報を得る分光観察は、目的に応じて使い分ける必要がある。
顕微鏡の歴史――形から機能へ
光学顕微鏡は17世紀以来、細胞や微生物の形を観察する窓となってきた。20世紀には蛍光顕微鏡が特定分子の位置を示す力を高め、21世紀には超解像法や生細胞イメージングが発達した。一方、赤外分光は分子の化学結合に由来する情報を与えてきたものの、立体撮影を高速に行うには制約があった。今回の研究は、化学的な選択性、三次元性、時間分解能という三つの要求を同時に追う流れの中にある。
2023年、2024年の東大研究から続く道
井手口拓郎教授らの研究グループは、2023年に中赤外フォトサーマル方式による高速の非標識撮影を、2024年には約100ナノメートル級の空間分解能を目指す中赤外顕微鏡をそれぞれ発表している。ただし高速な二次元観察、非常に細かい構造を見る技術、今回の高速三次元観察は、それぞれ重視する性能が違う。過去の成果を単純に足し合わせた万能装置が完成したという話ではない。
研究者は誰か
東京大学の日本語発表は、大学院理学系研究科の福島誠人大学院生、戸田圭一郎特任助教、菅原優生大学院生、川野将太郎特任研究員と、大学院新領域創成科学研究科の井手口拓郎教授らを研究メンバーとして挙げる。井手口教授は理化学研究所光量子工学研究センターのチームディレクターも兼ねる。研究の正式な論文名は「Video-rate volumetric chemical imaging via mid-infrared photothermal optical diffraction tomography」。
医療診断が実現したわけではない
実演されたのは、研究装置による生細胞内の脂肪滴の追跡と分光観察である。臨床診断の正確さ、患者試料に対する実用性、長期撮影時の光照射の影響、装置価格や大量検体処理の可能性まで確立したわけではない。研究者らは将来、生体分子が凝集した構造などの動態解析への応用を期待するが、特定の病気の治療法や診断法を開発したと読むのは早い。
細胞を「見えた」から「測れた」へ
科学的な価値は、魅力的な映像が撮れることだけではない。同じ脂肪滴が時間とともにどこへ進み、どの位置で速さや挙動が変わるかを化学情報付きの立体データとして比較できることにある。今回の方法が他の細胞や細胞内構造でも同じ性能を発揮するか、観察できる化学成分の範囲をどう広げるか。次の検証が、研究室での発明を生命科学の共通した道具へと育てる。
出典・検証資料
科学的数値は大学公表資料と論文書誌に基づく。研究段階の成果を医療技術の実用化と混同していない。
