確認済み:臼井真さんは7月10日死去。9月26日に神戸親和大学で追悼会。2021年1月17日、楽曲は神戸市の第2の市歌に。独自取材による家族の談話はない。
1995.01.17阪神・淡路大震灊
2021.01.17神戸市の第2の市歌
2026.07.10臼井真さん死去
約200人9月26日の追悼会

歌声が、作り手を見送った

9月26日、神戸市北区の神戸親和大学で、約200人が一つの歌を口にした。阪神・淡路大震災の傷を負った街から生まれた「しあわせ運べるように」。作詞・作曲した臼井真(うすい・まこと)さんは7月10日、65歳で亡くなった。大学の「偲ぶ会」では教え子や関係者が集まり、かつて先生が生み出した合唱曲を今度は先生に届けるように歌った。

これは7月の訃報を繰り返す記事ではない。作り手を失った後も、誰が歌を受け継ぎ、何を伝えていくのか。9月の集いは、その問いを目に見える形にした。サンテレビと神戸新聞は、ゼミ生らの言葉や参列者全員による合唱を報じている。記者がその場で取材したという意味ではなく、以下は大学の発表と公表された報道をもとに検証した記録だ。

1995年1月17日、街も教員の家も壊れた

1995年1月17日の阪神・淡路大震災で、当時神戸市立吾妻小学校の音楽専科教諭だった臼井さんも被災し、東灘区の自宅は全壊した。神戸市の記録では市内の死者は4571人、全壊家屋は6万7421棟に上る。いずれも神戸市内を対象とした集計で、震災全体の犠牲者数とは区別する必要がある。

大都市の住宅地や商店街を襲った被害は、街の地図だけでなく、人と人との約束や学校の日常を断ち切った。子どもに音楽を教えていた教員が自分の家を失ったという事実こそ、この歌の出発点を理解するうえで欠かせない。慰めを与える立場にあった人も、また支えを必要とする被災者だった。

生まれたのは被災から約2週間後

大学によれば、臼井さんは親族宅に避難し、変わり果てた故郷をテレビのニュース映像で見た。震災から約2週間後、約10分で曲を書き上げたという。短い制作時間は大学が紹介する経緯であり、その場での録音や制作メモを本紙が独自に確認したものではない。

曲に込められたのは、街を取り戻したいという願いだけではない。亡くなった人を忘れず、生き残った人が毎日を大切に生きること、互いに支え合うことだった。歌詞の全文をここに転載することはせず、神戸市が公開する公式歌詞と合唱映像に案内する。亡くなった人への思いを、日々の行動へと結びつける点にこの歌の強さがある。

運動場の電子ピアノから、街の共有財産へ

神戸新聞の追悼記事によると、発災から約1カ月後、臼井さんは勤務先の旧吾妻小学校の運動場に電子ピアノを置き、児童らと曲を歌った。音楽室の整った環境ではない。壊れた街の日常の中で、子どもたちの声が歌の最初の居場所となった。

その後は神戸の学校、震災追悼行事、神戸ルミナリエ、成人式などで歌われるようになった。神戸市は2021年1月17日、この曲を市の2つ目の市歌に指定した。1951年制定の従来の市歌を廃止したわけではない。市歌となったのは行政の決定だが、そこへ至るまでに学校や地域が長く歌い続けてきたという順序が重要だ。

学校がつなぐ、経験していない災害の記憶

2026年に学校に通う子どもは、1995年の地震を直接体験していない。年月が過ぎるほど、当時の音や揺れ、避難所の記憶を語れる人は少なくなる。その一方、歌は新しい子どもに覚えてもらい、みんなで声を合わせることができる。記憶の継承は資料館の展示や防災訓練だけでは完結しない。

神戸市教育委員会は防災教育の中に「しあわせ運べるように」を位置づけ、追悼の場などで歌う実践を紹介している。ただし、歌えるようになったことと、避難行動を身につけたことは同じではない。歌は悲劇を人ごとにしない入口となり、防災教育や地域の訓練と組み合わさって初めて暮らしを守る知識に結びつく。

神戸を離れ、新潟、東北、熊本、能登へ

「しあわせ運べるように」は神戸だけの鎮魂歌にとどまらなかった。新潟県中越地震、東日本大震災、熊本地震、能登半島地震など、別の被災地でも歌われてきたと神戸市は紹介する。地域に合わせて地名を変えた形の合唱もある。土地の固有の痛みをそのまま写し取るのではなく、互いに支え合う意思を共有できる点が広がりを支えたのだろう。

しかし、どの地域でも同じ意味で受け止められたと断定することはできない。災害の種類も被災者の置かれた状況も異なる。神戸の経験を他地域に押しつけるのではなく、必要とする人たちが自分たちの言葉と場で歌を選び直す。その慎重さを保つことが、本当の意味での継承につながる。

教師としての38年、その後の大学教育

臼井さんは1983年から神戸市立小学校で音楽を指導し、2021年に退職した。その後、神戸親和大学で教員を志す学生に携わった。大学の公表資料には2011年の文部科学大臣優秀教職員表彰、2021年のJASRAC音楽文化賞や兵庫県功労者表彰などの経歴が記されている。

一人の作曲家としてだけ見ると、作品がどれだけ広まったかが評価の中心になりがちだ。だが教師の仕事は、目の前の生徒が自分で歌い、教え、次の誰かを支えられるようになることでもある。9月の追悼会にかつての学生や教え子が集まった事実は、楽曲だけでなく教育者としての足跡を映している。

追悼会に残されたもの

大学は9月26日に「臼井真先生を偲ぶ会」を開催すると正式に案内した。サンテレビによれば、会場には楽譜や教え子からの寄せ書きなどが展示され、ゼミ生が生前の学びを語った。参列者全員で「しあわせ運べるように」を合唱したという。

大学は7月の訃報発表で、遺族が静かに過ごすことを望んでいると伝え、取材の自粛を求めていた。本紙は遺族の心情を推測しない。本人や家族の新たな発言を装った引用もしない。公になっている式典や学生の言葉から分かる範囲で、地域に残された仕事を考えたい。

歌を美談だけで終わらせないために

大震災の記憶を伝えるとき、復興を美しい結末として描きすぎれば、犠牲や長期にわたる喪失が見えなくなる。歌が街を再建したわけではない。住宅の再建、生活支援、都市計画、学校の再開には、住民と多くの専門家の年月にわたる努力があった。

それでも歌は、数字だけでは語りきれない時間を残す。誰かの声に合わせて息を吸い、言葉をそろえる行為は、一人きりではないと感じる機会になり得る。そうした文化の働きは評価できるが、心の回復への効果を医学的に実証したという主張ではない。

「次の1月17日」へ

神戸では毎年1月17日が巡ってくる。学校の子どもが入れ替わり、歌を指導する教師も代わる。いま必要なのは、臼井さんが残した楽譜や制作の経緯を正確に保存し、なぜこの言葉を歌うのかを一緒に伝えることだ。音源と楽譜の利用には権利上の手続きが関わる場合があるため、神戸市の公式案内を参照したい。

2026年の追悼会は一度限りでも、歌はそこで終わらない。作り手がいなくなった後に作品が生き続けるとは、同じ旋律を再生するだけでなく、時代の違う人がそこに込められた願いを理解し直すことではないか。神戸の歌を、明日の暮らしへと届ける人たちの仕事は続いている。

出典・取材資料

  1. 神戸市:神戸市歌「しあわせ運べるように」
  2. 神戸市:神戸市歌の指定日と作詞作曲者
  3. 神戸市:神戸の防災教育
  4. 神戸市:阪神・淡路大震災被害の状況
  5. 神戸親和大学:臼井真教授の訃報(7月15日)
  6. 神戸親和大学:「臼井真先生を偲ぶ会」案内・経歴
  7. サンテレビ:9月26日の偲ぶ会の模様
  8. 神戸新聞:9月26日追悼行事と教え子による合唱
  9. 神戸新聞:臼井真の活動と1995年の初演
  10. 神戸市:文化活動功労賞と臼井真の業績
  11. 「しあわせ運べるように」公式チャンネル・原曲の合唱映像

資料確認基準:2026年10月12日(日本時間)。家族への独自取材は行っていない。