10グラムは軽い。だが、その砂を地球へ戻すまでの道のりは、火星圏を往復する約5年に及ぶ。
種子島の夜明け前、火星への航路が開いた
10月20日午前4時41分03秒。鹿児島県の種子島宇宙センターからH3ロケット10号機が上昇した。搭載されていたのは、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が主導する火星衛星探査計画「MMX(Martian Moons eXploration)」の探査機だ。JAXAによれば、ロケットは予定どおり飛行し、打ち上げから約1時間11分13秒後に探査機を正常に分離した。これは打ち上げと分離の成功を示す発表であり、火星への到着や着陸がすでに達成されたことを意味しない。
狙うのは火星そのものではなく、その「月」
目的地は火星の二つの衛星のうち大きい方、フォボスである。JAXAが掲げる目標は、表面の砂や岩石を10グラム以上採取し、2031年度に地球へ持ち帰ること。火星本体の土壌採取とは別の計画である。それでも、フォボスには火星の形成史を解く手掛かりが眠っている可能性がある。小さな衛星からのわずか10グラムは、研究室で多角的に分析するための、何年もかけて運ぶ貴重な試料となる。
捕獲された小惑星か、衝突で生まれた衛星か
フォボスとダイモスの起源には、大きく二つの代表的な仮説がある。太陽系を漂う小惑星が火星の重力に捕獲されたのか。それとも火星に巨大天体が衝突し、放出された物質から衛星ができたのか。表面の色や形状だけでは決着をつけにくい。鉱物の組み合わせ、元素組成、粒子の年代といった試料分析が、その議論を前進させる可能性がある。ただし分析で一義的な回答が必ず得られると保証されているわけではない。
「砂を拾う」までが難しい
火星の近くへ行くだけでも約1年を要する。探査機はフォボスの近傍で観測を重ね、着陸候補地を選び、表面に接近して試料採取を試みる。フォボスの重力は極めて弱く、地球の常識で着陸を考えることはできない。JAXAの説明では、掘削する「コアラー」で少なくとも約2センチの深さの試料を狙い、窒素ガスを吹き付ける「P-サンプラー」も使う。表面で宇宙放射線にさらされた物質だけでなく、内部に近い粒子を得たいという科学上の理由がある。
まず小さな探査車が地面を確かめる
本体の着陸に先立ち、フランス国立宇宙研究センター(CNES)とドイツ航空宇宙センター(DLR)が共同開発した小型ローバー「IDEFIX(イデフィックス)」を送り込む計画だ。表層のレゴリスがどれほど滑りやすいか、支持力がどの程度あるかといった特性を調べ、本体の着陸・採取の危険を減らす役目を担う。日本の探査計画であっても、この挑戦は日欧の技術と判断の積み重ねによって成り立っている。
米国の観測装置が見るもの
NASAは、ガンマ線・中性子を使って地表の元素組成を調べる観測装置「MEGANE」を提供している。可視光の写真では分からない違いを測ることで、地形観測や回収試料の分析を補う。火星大気の変遷や、衛星に含まれる成分の由来も重要な研究課題だ。探査機がすべてを直接掘り出すわけではなく、軌道からの測定、現地での調査、地球の研究室での分析を結びつける構想に意味がある。
「はやぶさ」が拓いた日本の得意分野
日本のサンプルリターン探査には積み重ねがある。小惑星イトカワに向かった「はやぶさ」は2010年に試料カプセルを地球へ届け、「はやぶさ2」は小惑星リュウグウの試料を2020年に持ち帰った。後者では地下に近い物質にも挑み、帰還した試料から多様な有機物や鉱物が研究されている。一方、火星探査機「のぞみ」は火星周回軌道投入を果たせなかった。日本の宇宙探査は成功ばかりの物語ではない。失敗、改良、遠距離通信、航法、試料保全の経験がMMXを支えている。
2031年の約束ではなく、2031年度の目標
JAXAが公表する計画では、探査機は2027年度ごろ火星圏へ到着し、2027~2030年にフォボスやダイモスの観測と試料採取を進める。2030年度に火星圏を離れ、2031年度に帰還カプセルを地球の大気圏へ突入させる見通しだ。回収場所は豪州が予定されている。惑星の位置関係、探査結果、機器の状態次第で運用は変わり得る。紙面で「2031年に必ず砂が届く」と断言するのは適切ではない。
10グラムが変える、研究の時間軸
地球へ持ち帰る価値は、観測機器がその場で測ることだけでは得られない高精度分析にある。保管された試料は、まだ存在しない次世代の分析装置にも開かれる。JAXA宇宙科学研究所の地球外物質研究グループは、採取試料の取り扱い・汚染管理を新たな技術課題としている。フォボス由来の粒子に、ごく少量の火星起源物質が混じる可能性も検討対象だが、存在が確定したわけではない。
打ち上げ成功は「最初の一歩」
今回確認されたのは、H3による打ち上げと探査機の正常分離である。次は長い航行と機体の健全性確認、火星圏への投入、未踏の低重力環境での接近・着陸、そして地球への帰還が待つ。単独の派手な瞬間ではなく、何年にもわたる判断を積み重ねる技術こそが問われる。もし計画どおり試料が帰還すれば、研究者は小さな粒の中から、火星の月と太陽系の形成史を読むことになる。種子島から始まったのは、その長い科学の旅だ。
出典・参考資料
JAXAの10月20日発表が確認しているのは打ち上げと分離まで。採取や帰還は今後の計画であり、本稿は独自インタビューを行っていない。
