大人が本気で泥へ飛び込む日
8月8日の朝、岐阜県郡上市大和町の母袋地区で、参加者たちは白い競技場ではなく、茶色い田んぼへ入る。足は一歩ごとに沈み、助走は消え、華麗なスパイクは泥しぶきへ変わる。転べば全身が覆われる。立ち上がろうとすれば、また滑る。それでも笑い声は止まらない。
大会名は「泥んこバレーボール大会 in HOLY FUNGUS」。会場は、国産オーガニックスキンケア会社ネオナチュラルが運営する母袋有機農場と体験型キャンプ施設HOLY FUNGUSである。主催者によれば、この地域で以前行われていた大会が、およそ9年の空白を経て復活する。募集は8〜10チームを想定し、1チーム4〜7人の男女混合。優勝賞品は母袋米20キログラム。昼には弁当と豚汁が用意される。
試合は午前10時に始まり、午後まで続く。巧さよりも、泥の中で仲間へボールをつなぎ、転び、笑い、再び立つことが価値になる。バレーボールの規則は残っているが、地面がその常識を破壊する。
「HOLY FUNGUS」とは何なのか
英語名を直訳すれば「聖なる菌類」。少し怪しく、少し宗教的で、忘れにくい。施設は栗巣川と鷹茄子川が出会う一帯にあり、正面には白山信仰につながる神社がある。運営側は、この地の自然、土壌微生物、発酵、里山での身体体験を一つの世界観としてまとめた。
母袋有機農場の始まりは、華やかなリトリート施設ではなかった。ネオナチュラルによると、約18年前、約8,000平方メートルの耕作放棄地を重機と手作業で開墾した。目的は、化粧品原料となるヘチマ、ハーブ、米などを、自分たちで土づくりから育てることだった。
農場はその後、田植え、稲刈り、ヘチマ水の収穫、里山ヨガ、キャンプなどの体験拠点へ広がった。HOLY FUNGUSは2024年前後に宿泊・リトリート施設として本格化し、「化粧品を作る場所」から「土と暮らしを体験する場所」へ役割を増やした。
美肌菌の田んぼ――その言葉はどこまで科学なのか
大会の宣伝で最も目を引くのは、「美肌菌が息づく土」という表現だ。ネオナチュラルは、農場には健やかな肌に関わる微生物が多く存在するという自社研究を紹介し、泥に触れることを自然との接触、心身の解放、スキンケア思想の延長として位置づけている。
ここで整理が必要だ。「美肌菌」は医学上の単一菌種の正式名称ではなく、一般には皮膚常在菌のうち、肌の弱酸性環境やバリア機能と関係する菌群を親しみやすく表現した言葉である。皮膚の表面には細菌、真菌、ウイルスなどからなる微生物叢があり、そのバランスが皮膚状態と関連することは広く研究されている。
しかし、特定の田んぼの泥を全身に浴びることで美容効果が得られる、と科学的に確立されているわけではない。土壌微生物の多様性と皮膚微生物叢は同じものではなく、傷口、目、口への泥の侵入や、体調、アレルギー、感染リスクにも注意が必要だ。大会の魅力は、治療や美容施術ではなく、自然の中で身体を動かし、笑い、ストレスから離れる体験として理解するのが適切である。
- 「美肌菌」は主催者・化粧品会社が使うウェルネス表現であり、医療上の効果保証ではない。
- 健康な皮膚にも微生物叢が存在し、そのバランスは研究対象になっている。
- 泥に触れること自体が美容効果を生むという強い因果関係は確立されていない。
- 参加者は傷、目、口、体調、洗浄環境など基本的な安全管理を優先すべきである。
田んぼは、日本で最も古い共同作業場だった
泥んこスポーツが日本で妙に自然に見えるのは、水田が単なる農地ではなかったからだ。水田稲作は約3,000年前に北部九州へ伝わり、その後列島へ広がった。稲作には水路、畦、田植え、収穫の共同管理が必要であり、村の協力関係を形成した。
田んぼは食料生産の場であると同時に、季節の暦、祭り、豊作祈願、労働交換、地域の序列と助け合いを結びつけた。泥に入ることは、本来は遊びではなく仕事だった。それを競技へ反転させると、農村の重労働が一日の祝祭へ変わる。
日本各地では、休耕田や田植え前の水田を使った泥んこバレー、泥んこサッカー、田んぼラグビー、田んぼフラッグなどが行われてきた。目的は競技だけではない。農村への来訪者を増やし、若者と住民を結び、使われなくなった土地にもう一度人を集めることにある。
泥んこバレーボールの歴史は、一つの発祥地では語れない
「泥んこバレーボール」には、全国を統括する単一の創設物語があるわけではない。各地の自治体、青年団、農業団体、商工会、観光組織が、田植え前の水田や休耕田を利用して独自に始めた地域行事の集合体である。
宮崎県都城市高崎町の大会は、地域活性化と豊作祈願を目的に続き、2026年に30回目を迎えた。4人制の競技に26チーム、145人が参加し、泥だらけの試合と地元料理が結びついた。兵庫県神戸市北区でも休耕田を利用した大会が行われ、コロナ禍後に復活した。泥の競技は、スポーツであると同時に農村イベントの強力な形式となっている。
母袋地区でもかつて大会が行われていたが、地域行事は人口減少、担い手不足、安全管理、会場準備、感染症流行などによって途切れやすい。今回の復活は、昔の行事をそのまま再現するのではなく、オーガニック農場、キャンプ、ウェルネス、企業のブランド発信を組み合わせた新しい形である。
| 時代・背景 | 田んぼと地域イベントの変化 |
|---|---|
| 古代〜近世 | 水田は共同灌漑、田植え、収穫、豊作祈願を通じて村の協力を支えた。 |
| 高度成長期以降 | 機械化と人口移動が進み、農村行事の担い手が減少。 |
| 1990年代以降 | 田んぼアートや泥んこ競技など、農地を観光・地域交流へ活用する試みが増加。 |
| 2010年代 | 休耕田スポーツ、田んぼラグビー、体験農業が地域再生策として広がる。 |
| 2026年 | 母袋の泥んこバレーが約9年ぶりに、農場・キャンプ・美容文化を結ぶ形で復活。 |
なぜ泥の中では全員が平等になるのか
通常のバレーボールでは、跳躍力、瞬発力、正確なフットワークが勝負を決める。泥の中では、それらの能力が裏切られる。背の高い選手も沈み、経験者も滑り、初心者の偶然の一打が得点になる。
この不安定さが、泥んこスポーツの社会的な力である。競技能力の差が縮まり、失敗が笑いに変わる。一度全身が汚れれば、服や外見を守る必要もなくなる。観客と選手、都会と農村、子どもと大人の境界が弱くなる。
大会案内の「大人になってから、泥だらけになるまで遊んだことはありますか」という問いは、単なる宣伝文句ではない。現代の大人が失った、目的のない身体遊びへの招待である。
母袋という場所が持つもう一つの物語
郡上市は、長良川上流の水文化、郡上おどり、山間集落、林業、農業で知られる。母袋地区は大規模観光地の中心ではない。だからこそ、HOLY FUNGUSの試みは地方観光の現在を映す。
有名寺社や巨大ホテルを新設するのではなく、放棄されかけた農地、川、神社、田んぼ、農作業を体験価値へ変える。訪問者は景色を見るだけでなく、植え、刈り、泊まり、泥に落ちる。これは「消費する観光」から「参加する観光」への移行でもある。
一方で、企業が地域文化をブランド物語に取り込む時には慎重さも必要だ。地元住民の記憶、土地利用、環境負荷、イベント後の維持、収益の地域還元が問われる。大会が一度の宣伝で終わらず、地域の行事として再び根を張れるかが本当の評価となる。
優勝賞品が米20キロである理由
賞金ではなく米。しかも会場の土地とつながる母袋米20キログラム。この賞品は大会全体の意味を短く説明している。
泥は邪魔な汚れではなく、米を育てる土である。参加者が飛び込む田んぼは、食料と地域経済の基盤であり、勝者が持ち帰る米は、その泥が本来生み出す価値だ。泥まみれの遊びが、農業への敬意へ戻ってくる。
昼食の弁当と豚汁、夜の懇親会も同じ役割を持つ。競技後に身体を洗い、同じ食卓を囲むまでが大会である。スポーツの勝敗よりも、誰と泥に入り、誰と食べたかが記憶に残る。
安全面では「善玉菌」だけを見てはいけない
自然の土壌には多様な生物がいる。善悪の二分類で説明できるものではない。健康な人に問題を起こさない微生物でも、傷口や粘膜から入れば感染につながる可能性がある。農地には石、植物片、虫、日射、熱中症、転倒などの危険もある。
主催者は小雨決行、荒天中止としているが、参加者側でも、開いた傷がある場合は参加を控える、目や口へ泥を入れない、競技後は十分に洗浄する、水分と塩分を取る、体調不良を申告するといった基本が重要だ。自然体験を称賛することと、自然を無害と誤解することは別である。
奇妙だからこそ、地域の本質が見える
写真だけを見れば、泥の中でバレーボールをする人々は「変わった日本」の一枚に見える。だが深く見ると、そこには現代日本の問題が折り重なっている。耕作放棄地、人口減少、地域行事の中断、企業の地方進出、ウェルネス産業、皮膚マイクロバイオームへの関心、体験型観光、米文化の再評価である。
HOLY FUNGUS泥んこバレーは、それらを一つの田んぼへ押し込む。美容会社が農地を再生し、微生物を語り、昔の地域大会を復活させ、大人たちが土へ飛び込む。これほど日本的で、これほど現代的な奇妙さは少ない。
8月8日、勝者は米20キログラムを得る。しかし本当の賞品は、泥の中で転んでも笑われるのではなく、全員が一緒に笑える数時間なのかもしれない。
出典・参考資料
- ネオナチュラル公式大会案内:大会概要、会場、参加条件、賞品。
- ネオナチュラル便り、2026年4月22日:開催日程、母袋地区で約9年ぶりの復活。
- ネオナチュラル・プレスリリース、2026年4月22日:地域行事の歴史とHOLY FUNGUSの位置づけ。
- ネオナチュラル農場紹介:約18年前、約8,000㎡の耕作放棄地を開墾した経緯。
- SoraNews24、2026年5月6日:大会の英語圏向け紹介。
- テレビ宮崎、2026年6月14日:都城市の30回目の泥んこバレーボール祭。
- Plenus米食文化研究所:日本への水田稲作伝来の歴史。
