水は高いところから低いところへ流れる。だが、農地が必要とする場所へ、必要な量を、争いを抑えながら何百年も送り続けることは自然任せではできない。そこには、水路を掘る技術だけでなく、堰を操作し、泥をさらい、順番を決め、世代を超えて施設を守る仕組みが要る。

国際かんがい排水委員会(ICID)は2026年8月、日本が申請した四施設を世界かんがい施設遺産に認定することを決定した。農林水産省によると、認定式は10月14日にフランス・マルセイユで行われる予定だ。新たに加わるのは、葛西用水、小笠地域かんがい用水群、日根荘大木のかんがい用水群、崇神天皇陵堀である。

4施設2026年に日本から認定。
56施設2025年までの国内登録数。
約430年葛西用水の起点から現在まで。
4世紀前半崇神天皇陵堀が築造されたと考えられる時期。

「世界遺産」とは別の制度

世界かんがい施設遺産は、ユネスコの世界遺産ではない。かんがい・排水分野の国際組織であるICIDが、歴史的、技術的、社会的な価値を持つ施設を認定する制度で、2014年に始まった。農林水産省は、登録の目的を、施設の保全、維持管理への理解、教育や研究、地域づくりに役立てることだと説明している。

ICIDは1950年に設立され、日本は1951年に加盟した。認定は観光地としての格付けではなく、歴史ある水利施設を将来も使い、守るための国際的な顕彰である。したがって、価値の中心は石造物の古さだけにない。施設がどのように水を分け、地域社会がどう維持してきたかまで含まれる。

四施設を一本につなぐのは「古さ」ではない。地形に合わせて水を動かし、その利用を共同で管理してきた持続性である。— Japan.co.jp分析

葛西用水――江戸の人口を支えた長い水路

葛西用水(かさいようすい)は、埼玉県東部の12市町を通る。始まりは1592年から1595年に築かれた亀有溜井とされ、水需要の増加に合わせて水源を上流へ延ばし、1660年に利根川へ到達した。1719年には葛西領まで安定的に送水する体系が整い、「葛西用水」と呼ばれるようになったという。

開削当時の幹線だけで約80キロ。農林水産省の施設概要は、増産された食料が18世紀に人口100万人を超えた江戸を支え、19世紀にはかんがい面積が1万4,000ヘクタールに達したと説明する。これは申請資料に基づく歴史評価であり、単一の水路だけで江戸の成長を説明できるわけではない。それでも、都市の膨張が周辺農村の水利整備と切り離せなかったことは明らかだ。

特徴は、旧河道と「溜井(ためい)」を利用し、上流の排水も下流で繰り返し使う仕組みにある。現在も琵琶溜井、松伏溜井、瓦曽根溜井が残り、約6,800ヘクタールをかんがいする。歌川広重の『名所江戸百景』には「四ツ木通用水引ふね」が描かれ、用水が農業だけでなく舟運の風景でもあったことを伝えている。

小笠地域――不足する水を「網」に変えた

静岡県掛川市と菊川市の小笠地域には、大河川がなく、干ばつに苦しんだ歴史がある。そこで人々は一つの巨大施設に頼らず、加茂用水、十内圦(じゅうないいり)、嶺田用水と、七つの代表的なため池を結び、計十施設の水利網をつくった。

加茂用水は1594年に造られた約8キロの水路。嶺田用水は1625年、十内圦は1646年に成立した。十内圦は川底と高さ約6メートルの堤防の下を通す、石柱で組まれた約70メートルの地下水路で、掛川市指定文化財でもある。山間部では、ため池を上下に連ねる「連珠式ため池」が水を確保しながら破堤の危険を分散した。

さらに18世紀から19世紀には、水路や隧道で離れたため池を横につないだ。谷田大池は1896年、別の谷のため池と約300メートルの導水トンネルで結ばれた。上流から下流へ流すだけでなく、異なる集水域を結ぶ格子状のネットワークへ発展したのである。登録対象施設は現在も979ヘクタールの田畑へ水を供給している。

『百姓伝記』が残した知識

小笠地域で成立したとされる農業技術書『百姓伝記』には、ため池の築造法などが記され、写本を通じて各地へ伝わった。水利技術は構造物だけでなく、書かれ、教えられ、再利用される知識でもあった。

日根荘大木――中世の水路が棚田を歩く

大阪府泉佐野市の日根荘大木のかんがい用水群は、中世荘園の記録と現在の農村景観が重なる。九条家が開発した日根荘は、1234年に成立したとされる。土丸・大木地区には、11の水路、10のため池、六つの井堰が残ると農林水産省は説明している。

樫井川がつくった河岸段丘には最大60~70メートルの高低差がある。地域はその傾斜を利用して水を配り、室町時代以降に田地を広げた。一部の水路は荘園成立時の調査記録にも現れ、古い水利の形を大きく崩さず使い続けてきたと評価された。

ここで重要なのは、施設の数だけではない。土地改良区を軸に、町会や「番」という地域単位が維持管理を担っている点だ。水路は所有者の違う田を横切り、上流の操作が下流の収穫に影響する。中世から続く景観は、石や土が偶然残ったのではなく、利用者が毎年手を入れてきた結果である。

崇神天皇陵堀――陵墓と農業の二つの歴史

奈良県天理市の崇神天皇陵堀(すじんてんのうりょうほり)は、認定された四施設の中で最も古い時間へつながる。堀は古墳の造成に伴い、4世紀前半に築かれたと考えられている。ただし、宮内庁が治定する陵墓と、考古学上の古墳の被葬者をめぐる議論は同じものではない。本稿では施設の公式名称を用い、被葬者を考古学的事実として断定しない。

現在のかんがい史で焦点となるのは幕末の改修だ。農林水産省資料によると、柳本藩は幕府と交渉し、1864年から1865年に藩費で陵墓を改修した。堀を幕府の規定より広く造り、水を農業に利用する権利を得たという。陵墓の整備と地域の水不足への対応が、一つの工事に組み込まれた。

1896年には、この「修陵餘潤」を顕彰する碑が柳本藩の菩提寺・専行院に建てられた。柳本町自治連合会は、田植え後の7月に旧藩主家の子孫を招く「藩主祭」を開いている。農林水産省資料が「近年」の地域行事として説明しており、古代から連続する祭礼として扱うことはできない。

水利施設は、完成した瞬間から古くなる

四施設はいずれも、築造当時の姿を凍結保存しているわけではない。護岸は直され、取水口は更新され、都市化や農地減少に合わせて水路の役割も変わった。世界かんがい施設遺産という言葉から、手つかずの古代・中世施設を想像すると、本質を見誤る。

かんがいの遺産価値は、変更されなかったことではなく、必要な変更を重ねながら機能を受け渡したことにある。葛西用水は江戸近郊の大規模開発、小笠地域は分散型ネットワーク、日根荘大木は地域共同管理、崇神天皇陵堀は陵墓と農業用水の重なりを示す。それぞれが、日本の水利を単一の中央集権的な物語では説明できないことを教える。

農林水産省の認定発表には、認定に伴う補修費の交付は示されていない。Japan.co.jpの分析では、認定後も、管理作業の担い手不足や豪雨・干ばつへの対応、都市部で水路の意味が見えにくくなるといった課題は残る。顕彰を保全につなげられるかどうかは、認定後の地域と行政の仕事である。

遺産とは、過去から受け取ったものではなく、次へ渡せる状態にして初めて成立する。水路の場合、その仕事は毎年、水とともに繰り返される。

四つの水路が語る日本史

日本史はしばしば、天皇、武家、藩、近代国家という権力の交代で語られる。四つの施設を水の側から見ると、別の連続性が現れる。古墳の濠は幕末の藩政と農業につながり、鎌倉期の荘園水路は現代の土地改良区へ引き継がれた。農民が掘った水路とため池は、戦後の国営事業に組み込まれ、徳川期の大用水は首都圏郊外の水辺となった。

政治制度が変わっても、水は上流から下流へ流れる。誰がいつ、どれだけ使うかを決めなければならない。その長い交渉の痕跡こそ、橋や城とは異なる水利遺産の魅力である。世界かんがい施設遺産への認定は、その目立たない公共技術を見直す入口になる。