高齢マウスの成績改善は、人のサルコペニア治療効果の証明ではない。
衰える筋肉に、別の病気の薬から手掛かり
年を重ねると、以前なら苦もなく持ち上げられた荷物が重く感じられ、階段の一段にも力が要るようになる。筋肉の機能低下は日常の自立を脅かすが、原因を筋肉量の減少だけで説明することはできない。筋線維の働き、神経の刺激、細胞内のエネルギー産生が複雑に関係している。
東京都健康長寿医療センター研究所などの研究チームは、免疫性血小板減少症の治療に使われるホスタマチニブに着目した。マウス由来の筋細胞と高齢マウスを調べ、細胞内のミトコンドリアの構造的な変化と、筋力を測る行動試験の成績改善を報告した。人の筋力低下を治せると証明した研究ではないが、既存薬を異なる疾患の研究に用いる意義が見えてくる。
2026年8月の論文、9月の発表、10月の紹介
成果は学術誌『Scientific Reports』に2026年8月24日に掲載された。東京都健康長寿医療センター研究所が日本語で公表したのは9月7日で、科学技術振興機構の英語ニュースサイトScience Japanは10月19日に取り上げた。10月に新しい臨床試験が始まったわけでも、薬の効能が追加承認されたわけでもない。
論文の筆頭著者は竹岩俊彦氏。研究には同センター研究所のほか、埼玉医科大学、東京大学大学院医学系研究科の研究者が参加し、責任著者は井上聡氏が務める。研究所の正式な発表資料は薬の一般名を「ホスタマチニブ」、疾患名を「免疫性血小板減少症」、標的酵素を「SYK(spleen tyrosine kinase)」と記載している。
「発電所」の数より、組み方を調べる
ミトコンドリアは食物由来の栄養素からエネルギーを得る細胞小器官だ。「細胞の発電所」と呼ばれることがあるが、個数が多ければ必ず機能が高いという単純な話ではない。内膜には電子伝達系の複数のタンパク質複合体が並び、酸素を利用する過程でATP合成を支える。
複合体I、III、IVなどは、互いにまとまった「ミトコンドリア呼吸鎖超複合体」を形成する。研究チームは、その集合状態を解析する技術を発展させ、超複合体の形成と筋機能の関係を過去のマウス実験で調べてきた。超複合体が増えれば全ての条件でATP産生が増えると断定することはできないが、今回の研究では呼吸能力の測定と組み合わせて評価している。
SYKという酵素から生まれた仮説
SYKは細胞内の信号伝達に働くチロシンキナーゼで、免疫細胞における役割で知られる。研究グループは以前、SYKの働きを適度に抑えると、マウス筋肉で呼吸鎖超複合体の形成が促され、運動能力に変化が生じることを報告していた。今回は実際に医療で使われているSYK阻害薬で同様の現象が起きるかが問いとなった。
ホスタマチニブは体内で活性代謝物R406に変化し、薬理作用を示す。既に免疫性血小板減少症の治療に利用されていることは安全性を何も考えずに別用途へ使えるという意味ではない。服用目的、対象者、治療期間が変われば、利益と危険を改めて調べる必要がある。
細胞実験が捉えた呼吸の変化
最初の段階では、マウス由来のC2C12筋芽細胞を使った。R406を作用させた細胞では、研究グループが用いた画像解析と生化学的な測定によって呼吸鎖超複合体の増加が確認された。また、細胞の酸素消費も増加した。酸素消費の変化はミトコンドリア呼吸の活性化を示唆する重要な指標となる。
ただし培養細胞は人の筋肉そのものではない。細胞の種類、代謝環境、薬物濃度、さらには運動負荷の有無も、生体とは異なる。細胞で得た結果だけをもって、人が飲めば筋力が上がると結論づけることはできない。
高齢マウスでは握力とぶら下がり成績が改善
次に研究チームは高齢マウスにホスタマチニブを投与し、骨格筋のミトコンドリア呼吸鎖超複合体と運動機能を調べた。論文によれば、握力試験とワイヤーにつかまっていられる能力をみる試験の成績が改善した。細胞内の構造変化が、動物の実際の機能変化と同時に観察された点が重要だ。
大腿四頭筋のRNA解析では、アクチンの重合や活動電位に関わる遺伝子群の発現上昇も報告された。筋肉の「量」ではなく「質」に関わる可能性を示すが、これらの遺伝子変化が直接どの程度運動機能改善を起こしたかまで証明したわけではない。人の歩行速度、転倒率、入院率を測定した研究でもない。
サルコペニア研究が問う「筋肉の質」
サルコペニアは加齢などに伴い筋力や筋量が低下する状態で、転倒や生活機能の低下につながる。高齢化が進む日本では介護や医療の負担とも関係する。予防と管理の基本には、適切な運動、栄養状態の評価、基礎疾患への対応がある。筋肉の細胞内エネルギー代謝を操作する薬は、こうした取り組みの代替として確立したわけではない。
筋肉は単なるエンジンではなく、神経からの命令を受け、収縮装置を動かし、必要なエネルギーを供給するシステムである。今回の結果が興味深いのは、ミトコンドリアのタンパク質複合体の配置という、一見目立たない要素に焦点を当てたことだ。年齢を重ねた動物での機能改善が、人の臨床的な恩恵につながるかは今後の課題だ。
薬の再利用には安全性という現実がある
新しい薬を最初から開発する代わりに、既存薬を異なる病気へ応用する方法は「ドラッグ・リポジショニング」と呼ばれる。すでに人で使われた薬であれば、製剤や薬物動態に関する知識を利用できる場合がある。一方、承認された適応での安全性と、健康な高齢者や長期間の予防目的で使う場合の安全性は同じではない。
日本の医薬品医療機器総合機構(PMDA)は「タバリス錠」の一般名をホスタマチニブナトリウム水和物として掲載している。米国の承認薬情報では、高血圧、肝機能検査値の上昇、下痢、好中球減少などへの注意が記されている。これは一部の患者で重大な問題となりうる。筋力増強やアンチエイジングを目的とした自己判断での服用を支持する根拠はない。
日本の基礎研究が積み上げてきた技術
今回の研究は思い付きの薬剤試験ではない。東京都健康長寿医療センター研究所は以前から呼吸鎖超複合体の「見える化」に取り組み、複合体の集合状態を空間的に調べる方法を蓄積してきた。2023年の研究解説では、SYKを適度に抑える介入と超複合体の増加、マウスの運動持久力の関係にも言及している。
ミトコンドリア研究の歴史も、単なる「ATPの工場」という理解から、膜構造、タンパク質同士の相互作用、代謝と老化の関連へと広がっている。呼吸鎖超複合体の測定法や意義については研究者間に議論があり、独立した再現検証も必要だ。こうした蓄積を実際の薬剤で試したことが2026年の成果の位置づけとなる。
人への応用までに残る問い
次の研究には、他の動物モデルで再現すること、効果が投与を止めても続くか、長期間の副作用はどうか、別のSYK阻害薬でも同じか、超複合体の変化が筋力改善の原因なのかを吟味する作業が必要になる。人体でサルコペニアの改善を示す対照試験は、この論文には含まれていない。
一見遠回りに見えるが、既存薬の未知の働きを見つけることは新薬開発の重要な出発点になる。今わかったのは、高齢マウスの筋肉が特定の分子機構への介入に応答したということ。残された問いは、それを人の安全で意味ある機能改善に変えられるかである。
出典・研究資料
一次資料、原著論文、国内外の公的な医薬品情報を参照。筋力増強目的の服用を勧めるものではない。
