9月24日Science論文掲載
8原子環状八硫黄 S8
脂肪滴S8が豊富に蓄積
マウス膝関節症モデルの実験
研究論文は9月24日掲載。10月26日は島津製作所の英語発表日であり、新発見の日付ではない。

「硫黄」は温泉だけの話ではなかった

硫黄と聞けば火山や温泉、あるいは卵のようなにおいを連想するかもしれない。しかし、8個の硫黄原子が輪になった「環状八硫黄(S8)」は、私たちと同じ哺乳類の細胞でもつくられ、蓄えられていた。東北大学、秋田大学、東京科学大学などによる国際共同研究が、これまで見えにくかった生命現象を示した。注目すべきは、この分子が乳がん組織で多く見つかったという観察だけではない。細胞内の脂質を酸化から守る仕組みとの関わりだ。

研究成果の日付を正しく読む

研究は2026年9月24日に学術誌「Science」に掲載され、東北大学は9月25日に発表した。島津製作所の日本語発表は10月7日、同社英語発表は10月26日である。10月26日に論文が初めて発表されたわけではなく、同日に新しい乳がん検査が実用化されたわけでもない。10月28日付の本稿は、国際的な研究成果の内容と意義を資料に基づいて掘り下げる解説記事だ。

S8とは何か、硫化水素とどう違うか

S8は、硫黄原子8個が環状につながった元素硫黄の一形態である。硫化水素(H2S)とも、たんぱく質に含まれる硫黄とも同じ物質ではない。硫黄は生体内のアミノ酸や酸化還元反応に不可欠だが、元素硫黄S8を哺乳類が生成・蓄積することは十分に理解されていなかった。研究は、生体硫黄化学の対象を広げる成果となった。

「見えなかった分子」をどう捕まえたか

研究グループはS8を選択的に捕まえるナノ分子カプセルを用い、質量分析とラマン顕微鏡解析を組み合わせた。島津製作所の発表によれば、高速液体クロマトグラフ「Nexera」シリーズやLCMS-8060、LCMS-8060NXなども研究に使用された。単に機器で硫黄を測ったのではなく、選択的な捕捉と複数の分析手法を使って分子を同定したことが重要である。

脂肪滴とミトコンドリアという居場所

マウスやヒトの細胞・組織を調べるとS8はミトコンドリアや脂肪滴に存在し、特に脂肪滴に豊富だった。脂肪滴は脂質を蓄える細胞小器官であり、単なる「油の倉庫」ではない。脂質の代謝やストレス応答にも関わる。その脂肪滴に硫黄の貯蔵形態があるという結果は、脂質を守る化学反応が細胞内でどこで起きるかを考える手掛かりになる。

超硫黄分子とフェロトーシス

研究者らはS8がグルタチオンなどと反応し、抗酸化作用を持つ超硫黄分子の供給源となる可能性を示した。鉄の関与と脂質過酸化を特徴とする細胞死「フェロトーシス」の抑制とも結び付く。フェロトーシスはがん、炎症、変性疾患など多様な研究分野で注目されている。ただし、細胞を保護する反応が、がんの治療にそのまま有利に働くとは限らない。腫瘍細胞を保護してしまう可能性も、研究上は検討しなければならない。

乳がん組織で多かったことの意味

共同研究の発表資料は、調べたヒト乳がん組織で、がんではない乳腺組織よりS8が著しく多く、乳がん患者の呼気では超硫黄分子が増加していたと説明する。だが、組織で測定したのはS8、呼気で見たのは別の化学種である超硫黄分子だ。乳がん患者の息からS8自体を直接検出したと同一視してはいけない。増加ががんの原因か結果か、診断に十分な感度と特異度があるかは示されていない。

関節症モデルマウスで見えた可能性

研究グループは変形性膝関節症モデルマウスの関節に可溶化したS8を投与し、関節組織の脂質過酸化が低下したことも報告した。これは疾患モデルで酸化ストレスに関係する指標が改善したという実験結果であり、人の変形性関節症が治ったという意味ではない。医薬品候補としての投与量、安全性、製剤、長期的効果は別に検証する必要がある。

硫黄研究の長い歴史に新しい章

元素硫黄は鉱物資源、火山地帯、微生物の硫黄循環の研究で長く扱われてきた。一方、生命科学では含硫アミノ酸や硫化水素シグナル、活性硫黄・超硫黄分子の研究が進んだ。今回の成果は、その二つの世界の間に橋を架ける。自然界の硫黄循環で馴染みのあるS8を、哺乳類の細胞内で生成・貯蔵される分子として捉え直したからだ。

日本の大学と計測技術が結び付いた

東北大学大学院医学系研究科の赤池孝章国際卓越教授、秋田大学大学院医学系研究科の松永哲郎教授、東京科学大学総合研究院化学生命科学研究所の吉沢道人教授らに加え、ドイツの研究機関、島津製作所などが参加した。研究成果は化学、細胞生物学、疾患モデル、分析装置の力を組み合わせたものだ。大学、企業、海外研究拠点が同じ疑問を異なる方法で追ったことも、現代の科学研究の姿を示している。

診断・治療について、まだ言えないこと

乳がん組織や呼気の結果は将来のバイオマーカー研究の候補になり得るが、臨床検査として患者に勧められる段階ではない。検査対象者数、がん種・病期による違い、健康な人や他疾患との比較、再現性などを詳しく確かめる必要がある。S8を摂取すれば健康になる、硫黄のサプリメントでがんを防げる、あるいは硫黄浴で同じ効果が得られるという結論は、この研究から導けない。

小さな輪が開いた大きな問い

細胞がなぜS8をつくり、脂肪滴に蓄えるのか。組織によって量はどう変わり、病気の過程でそれは原因となるのか結果となるのか。今回の研究は、こうした問いを実験可能な形にした。派手な「がん発見法」ではない。それでも生命を守る化学の地図を描き替える可能性がある。体の内側で起きていた、小さな8つの硫黄原子の物語である。

出典・確認資料

東北大学などの日本語一次資料、島津製作所の日本語・英語発表、原著論文の公開書誌情報を照合。論文掲載は9月24日。患者向け検査・治療への実用化は確認していない。研究者への独自取材は実施していない。

  1. 東北大学・9月25日研究成果発表
  2. 東京科学大学・研究発表
  3. 秋田大学・共同プレスリリース
  4. 島津製作所・10月7日日本語発表
  5. 島津製作所・10月26日英語発表
  6. Science原著論文 DOI
  7. 東京科学大学・化学生命科学研究所