半導体の競争力を左右するのは、設計図や巨大な製造装置だけではない。ウエハーの上に薄い膜をつくるための材料も、工場の生産を支える。その一つ、ジクロロシラン(DCS)を巡って、日中間の通商摩擦が新たな段階に入った。
中国商務部は9月7日、日本原産のDCSに対する反ダンピング調査の初歩裁定を公表し、8日から輸入事業者に保証金を求めた。最終判断前の暫定措置で、輸入そのものを禁止する制度ではない。[1]
AP通信の8日付報道によると、日本政府は抗議し、日本企業への影響を調べている。一方、中国商務部は、ダンピングと国内産業への実質的な損害、その因果関係を暫定的に認定したと説明する。これは中国の調査当局の判断であり、本誌が企業の不当廉売を独自に立証したという意味ではない。[3][4]
保証金が変える、取引の採算
| 企業 | 保証金率 |
|---|---|
| 信越化学工業 | 99.2% |
| デナールシラン | 80.8% |
| その他の日本企業 | 99.2% |
資料:中国商務部の第37号公告。保証金は税関が定める課税価格と上記比率を基に計算し、輸入段階の増値税率も計算式に含める。企業の日本語表記は各社の公式資料で照合した。[1][5][6]
重要なのは、国境で手続きをする輸入事業者と、最終的に負担を引き受ける企業が必ずしも同じではないことだ。中国側の買い手が資金を用意しても、その後の価格交渉で日本側の売り手に値下げを求める可能性がある。逆に、代替調達が難しい取引なら、買い手が負担を受け入れる場合もある。以下の取引への影響は、公表資料を踏まえたJapan.co.jpの分析である。
保証金率が高いからといって、半導体の製造費全体が同じ割合で上がるわけではない。対象は特定の原料であり、完成したチップではない。各工場の材料使用量、契約価格、在庫、費用に占めるDCSの割合が分からなければ、チップ1個当たりの影響は計算できない。
ただ、最終的な費用が確定していなくても、追加資金を用意する必要は生じる。調達担当者には納期の問題、財務担当者には資金繰りの問題として届く。こうして一つの通商措置が、同じ会社の中でも異なる判断を迫る。
目に見えない膜をつくる原料
DCSの化学式はSiH2Cl2。中国の公告が対象とするのは純度99%超の製品で、中国語名は「二氯二氢硅」。同じ関税番号の下に分類される別の製品まで、一律に対象とするものではない。[1]
日本の技術資料にも、その役割は古くから記されている。電気化学工業が1989年に出願し、1990年に公開された高純度DCSの製造方法に関する特許公報は、エピタキシャルシリコンや窒化ケイ素の成膜原料としての用途を挙げる。微量のホウ素化合物が半導体シリコンの電気的特性に悪影響を及ぼし得る点も説明している。[7]
エピタキシャル成長とは、下地の結晶に沿って結晶層を成長させること。成膜は表面に薄い層を形成する工程を指す。材料の化学名が同じでも、不要な成分の量やばらつきまで同じとは限らない。純度の数字は入り口であり、実際の工程で狙った膜を安定してつくれるかが、購入判断につながる。
ここから考えられるのは、仕入れ先の変更を価格表だけでは決めにくいということだ。新しい材料を使ったときの品質、装置との適合、生産条件への影響を確かめる必要がある。これは一般的な工程管理上の論点であり、特定の中国工場が切り替え不能だという主張ではない。代替品の評価に要する期間も、工程と企業によって異なる。
1980年代から積み重なった事業
デンカの公式資料によると、デナールシラン株式会社は1987年10月に設立され、デンカが51%を出資する連結子会社で、モノシランガスなどの製造・販売を手掛ける。今回の措置に登場する企業は、最近の半導体ブームで突然生まれた会社ではない。[5]
1990年公開の特許と合わせて読むと、半導体向けのガスを高純度にする取り組みが、いまの通商対立よりはるか以前から続いてきたことが分かる。ただし、この特許だけで現在の製造方法や世界シェアを断定することはできない。歴史が示すのは技術課題の継続性であって、将来の競争優位の保証ではない。[7]
日本の材料企業にとって、長い取引実績は強みになり得る。一方、顧客が調達先を分散する理由も増える。安定した品質を提供する努力と、一国への依存を減らしたい顧客の判断は、同時に存在する。今回のような措置は、その関係に価格以外の条件を持ち込む。
調査はどの時期を見ているのか
調査開始は2026年1月7日。調べるダンピングの期間は2024年7月から2025年6月まで、産業への損害は2022年1月から2025年6月までが対象だ。9月の措置を、9月時点の売買価格だけに基づく判断と受け取るのは正確ではない。[10]
中国側の初歩裁定には、単純な輸入急増の図式に収まらない数字もある。日本原産の対象輸入品の中国市場シェアは2022年の79.63%から2025年上半期の59.52%へ低下したとされる。同時に、当局は輸入品価格の下落が国内価格を押し下げたと判断した。国内品の価格は輸入品より低かったとも記している。[2]
この読み方は重要だ。シェアが下がっていることだけで損害がないとは言えず、価格が下がったことだけでダンピングが証明されるわけでもない。市場の大きさ、競争相手の動き、販売条件を切り分けなければ、同じ数字から反対の結論を導けてしまう。
安売りという日常語では説明できない
WTOの制度でいうダンピングは、輸出価格と「正常の価額」を比較する概念だ。基本となるのは輸出国の通常の商取引における同種の産品の国内価格で、適切な比較ができない場合には別の算定方法がある。単に中国の競合企業より安い、あるいは前年より値下がりしたという意味ではない。[8][11]
さらに、措置を正当化するには国内産業への損害と因果関係の検討が必要になる。WTO協定は、ほかの原因による損害をダンピング輸入に帰してはならないとする。比較の条件や証拠の扱いが争点となるため、保証金率の大きさそのものを企業の行為の悪質さと結びつけるのは適切でない。[9][11]
中国当局が公表した結論と、その判断が妥当かという評価は分けて読む必要がある。国内企業を守るという政策上の説明があっても、個別案件で必要な証拠の検討が省けるわけではない。日本側の抗議もまた、調査結果を自動的に覆すものではない。争いの中心は、比較可能なデータと手続きにある。
日中双方に及ぶ、調達の組み直し
日本の売り手には、中国向けの採算をどう維持するかという問題がある。中国の材料メーカーには受注を増やす機会となり得るが、中国の半導体メーカーは原料を買う立場だ。同じ国内産業でも、上流の供給企業と下流の顧客が受ける影響は一致しない。
例えば、買い手が既存の供給元を維持するなら、品質上の変更は小さくても資金負担が増え得る。別の供給元に切り替えるなら、価格とともに評価作業や供給余力が問題になる。二つの供給元を並行して使うなら、調達の柔軟性を得る代わりに管理が複雑になる。いずれも考えられる対応であり、今回すでに実行された企業行動として紹介するものではない。
完成品の値上がりや工場の停止を論じるには、さらに具体的な情報が必要だ。少額の原料でも工程に欠かせなければ重要だが、重要な原料だからといって直ちに不足しているとは限らない。取引条件の悪化と物理的な供給途絶を混同すると、危機の大きさを見誤る。
最終判断までに何を見るか
中国商務部は調査を続け、最終判断を下すとしている。暫定段階の認定を、確定した制裁として扱うべきではない。[3]
今後確かめたいのは、企業が契約条件を見直すのか、顧客が調達量や供給元を変えるのか、そして最終判断で事実認定と算定方法がどう示されるのかだ。通関時の負担、企業業績への影響、半導体の供給への影響は、それぞれ別の証拠で確認する必要がある。
この問題が照らすのは、製造技術を持つ側だけが強いとは限らないという現実である。売り手には材料を供給する力があり、買い手の国には市場への入口を管理する力がある。長年かけて築いた生産と取引のつながりを、その双方がどう扱うのか。目立たない化学材料を巡る争いは、日中の半導体産業が抱える相互依存を、具体的な支払い条件として映し出している。
- 中国商務部:2026年第37号公告(2026年9月7日、中国語)
- 中国商務部:初歩裁定の別添、特に1〜4、17〜20頁(上記公告のPDF、中国語)
- 中国商務部:報道官による初歩裁定の説明(2026年9月7日、中国語)
- AP:日本政府の抗議を伝える報道(2026年9月8日、英語)
- デンカ:主要グループ会社・デナールシラン
- 信越化学工業:会社概要
- 電気化学工業:特開平2-196014「高純度ジクロロシランの製造方法」(1990年8月2日公開、Google Patents収録の日本語公報)
- WTO:アンチダンピング制度の解説(英語)
- WTO:アンチダンピング協定、第2・3・7条など(英語)
- Reuters:調査開始時の報道(2026年1月7日、英語)
- 外務省:アンチダンピング協定の日本語本文、第2・3・7条
