3085安打。その数字の前には、いまも誰の名前もない。日本プロ野球名球会は9月10日、張本勲(はりもと・いさお)さんが9日午後に亡くなったと発表した。86歳だった。プロ野球の通算最多安打を残した左打者であり、広島で被爆した一人の少年でもあった。その生涯を振り返るには、積み重ねた安打と、長く語れなかった記憶の両方に目を向ける必要がある。[1][2][4]
3085本を、正確に受け止める
日本野球機構(NPB)の通算安打記録は、張本さんを首位に記している。ここで数えるのはNPBの公式戦で放った安打だ。日本と米大リーグの成績を合わせる集計とは異なる。名球会の日米通算ランキングでは、イチローさんの4367安打が上に来る。二つの表は矛盾していない。何を足し合わせた記録なのかが違う。[4][13]
記録の範囲を明示してこそ、張本さんの仕事が見える。1959年から1981年まで、23シーズン。所属球団が変わり、対戦する投手が入れ替わっても、打席に立ち、安打を重ねた。通算2752試合という長さは、ある一日の快打だけでは説明できない。年間の好不調をくぐり抜け、次の年にも必要とされる打者であり続けた結果である。[3][5]
しかも、単打を積み上げただけの選手ではない。名球会の記録には504本塁打、319盗塁、1676打点が並ぶ。打って走る力を併せ持ち、外野手としてベストナインに16回選ばれた。安打数の大きさだけを見ていると、長打や走塁で試合を動かした選手像がかえって小さくなってしまう。[5]
東映から始まった、長い全盛期
1940年6月19日、広島県生まれ。浪華商業から1959年に東映フライヤーズに入り、その年に新人王、1962年には最優秀選手に選ばれた。野球殿堂博物館は、左右の方向へ打ち分ける広角打法を張本さんの特徴として紹介している。力任せに一方向へ運ぶだけでなく、広くグラウンドを使う打撃が評価された。[2]
1962年の日本シリーズでは、東映は阪神に2連敗した後、第3戦を引き分け、そこから4連勝で日本一になった。NPBの試合記録をたどると、張本さんは甲子園での第6戦、五回に2点本塁打を放っている。個人の生涯安打という縦に長い記録にも、その時々のチームの勝負が刻まれている。優勝は一人の手柄ではないが、張本さんの打撃がチーム史の節目にあったことは、スコアから確かめられる。[6]
首位打者は7回。名球会の表彰記録によれば、最初は1961年で、1967~70年には4年連続、さらに1972年と1974年に獲得した。短い絶頂期だけで説明できる受賞歴ではない。一度頂点に届いた選手が、そこへ繰り返し戻ってくる。その難しさを、この年の並びは伝えている。[5]
1970年の成績は打率.383、34本塁打、100打点。巨人へ移った1976年にも打率.355を残した。年度別の数字は、張本さんを晩年のテレビ出演や一つの通算記録だけで知る読者に、現役時代の厚みを取り戻させる。得点を生む打撃と高い打率が同居していた。[3]
川崎で放った、節目の本塁打
球団名には時代の変化が表れる。東映、日拓ホーム、日本ハムを経て、巨人には1976年から1979年まで在籍。1980年、ロッテオリオンズに移った。今日の球団名や本拠地を、そのまま当時へ当てはめることはできない。[2][5]
3000安打を達成したのは、1980年5月28日。ロッテ球団の公式年表は、川崎での阪急戦、本塁打による達成と記す。節目の一本は、内野を抜ける当たりではなく、柵を越えた。安打の巧みさと長打力を兼ね備えた張本さんらしさを感じさせる記録だ。同年9月28日には、やはり川崎での近鉄戦で通算500号本塁打にも届いた。[7]
引退は1981年。1990年には野球殿堂入りした。表彰は現役生活に区切りをつけるが、記録の意味を固定するものではない。新しい選手が登場するたびに、その安打数が参照される。張本さんの名前は、後に続く選手の歩みを測る基準として、現役引退後も球場に残り続けた。[2][5]
右手の障害と、広島の記憶
野球殿堂博物館の紹介には、幼いころの大やけどによって右手に不自由が残ったことが記されている。左投げ左打ちで、プロの外野手になった。AP通信は、右手のやけどを負ったのは4歳の時と報じている。翌年の原爆被爆とは、別の出来事である。[2][12]
不自由な手でどうプレーを成り立たせたかは、競技者としての歩みを理解するうえで欠かせない。ただし、苦難を並べれば打撃技術まで説明できるわけではない。障害を抱えながら結果を残した事実と、長い年月をかけて築いた選手としての能力を、ともに見る必要がある。
1945年8月6日、張本さんは5歳だった。2025年8月9日放送のTBS「報道特集」では、自宅を出ようとした時に閃光と衝撃に襲われた記憶を語った。番組によると、母親は子どもをかばって負傷し、別の場所で被爆した姉は、その後亡くなった。ここにあるのは、後年、本人が言葉にした家族の記憶である。[8][10]
同番組で張本さんは、姉のためにブドウの粒を口元へ運んだと振り返っている。その細部は、被爆を遠い歴史から、家族の一人を失った幼い子どもの経験へと引き戻す。競技の成功が、その喪失を埋め合わせたと考えることはできない。[10]
語らなかった年月にも、理由があった
張本さんはTBSのインタビューで、被爆者への差別を目にした経験が、被爆について語らない理由の一つだったと説明した。現役時代にも健康への不安が消えなかったという。沈黙は、経験が軽かったことを意味しない。公の場で堂々と振る舞う姿からは見えにくい恐れが、その背後にあった。[9]
AP通信は、張本さんが韓国人の両親のもとで広島に生まれたと伝えている。出自も、被爆も、野球の経歴も、同じ一人の人生に属する。日本のプロ野球を代表する記録保持者を描くとき、その家族の背景を消してしまうことも、逆に出自だけで人物像を決めてしまうことも避けたい。[12]
被爆体験を語るようになったきっかけとして、張本さんは、原爆がどこへ落とされたのかを知らない若者の声をテレビで聞いたことを挙げた。自身の経験と次の世代の知識の間にある隔たりに、衝撃を受けたという。証言は、自分を説明するためだけのものではなく、知らない人へ届ける行為になった。[8][9]
少女の手紙が開いた扉
同じ「報道特集」は、小学生から届いた手紙が、張本さんの広島平和記念資料館への訪問を後押しした経緯も伝えている。番組によれば、初めて館内に入ったのは2007年4月だった。被爆を伝える場所が、被爆した本人にとって入りやすい場所とは限らない。その時間の隔たりを忘れずにいたい。[11]
この手紙をめぐる話で大切なのは、子どもが著名人を動かしたという意外性だけではない。聞き手も、語り手に何を求めているのかを問われる。体験を聞くことは、痛みを何度でも差し出してもらう権利ではない。残された映像や文章に向き合う際にも、証言した人の負担を想像する余地がある。
打席の記録と、残された声を
引退後、張本さんは解説者としても長く知られた。名球会の追悼文は、創立期からの活動や野球教室を通じた普及への貢献を挙げている。競技を伝える仕事には、テレビで試合を論じることも、次の世代がボールに触れる機会をつくることもあった。[1]
テレビでの人物像だけを切り取れば、現役時代の技術は見えにくくなる。被爆の経験だけを中心に置けば、本人が積み重ねた競技の仕事が遠ざかる。追悼に必要なのは、どちらか一方へまとめることではなく、それぞれの事実に十分な場所を与えることだ。
3085本の安打は、公式記録の中に残る。広島で何を経験し、なぜ長く話せず、それでもなぜ語り始めたのかは、本人の証言に残る。張本さんを記憶するとは、数字を正確に受け継ぎ、その声にも耳を澄ますことである。
- 日本プロ野球名球会:張本勲氏 ご逝去のお知らせ(2026年9月10日)
- 野球殿堂博物館:張本 勲(氏名の読み・略歴・殿堂入り)
- 日本野球機構:張本勲 個人年度別成績
- 日本野球機構:歴代最高記録・安打【通算記録】(2026年9月10日現在)
- 日本プロ野球名球会:張本勲の球歴・成績・表彰・記録
- 日本野球機構:1962年度日本シリーズ 試合結果
- 千葉ロッテマリーンズ:チームヒストリー 1980年~1984年
- TBS「報道特集」:張本勲が語れなかった被爆体験・1ページ(2025年8月9日)
- TBS「報道特集」:同インタビュー・差別と沈黙(2ページ)
- TBS「報道特集」:同インタビュー・母と姉の記憶(3ページ)
- TBS「報道特集」:同インタビュー・少女の手紙と資料館(4ページ)
- AP通信:張本勲さんの訃報・家族の出自(2026年9月10日、UTC)
- 日本プロ野球名球会:日米通算安打ランキング
- TBSテレビ:「サンデーモーニング」番組公式サイト
