画家の記憶は、作品だけに残るとは限らない。通った学校、教えた教室、街を歩いた時間、後からその事実を知った市民の驚きにも残る。
10月4日、市川市文化会館大ホールで第12回いちかわ市民ミュージカル「あの日見た夢~画家・丸木俊と市川物語(ストーリー)~」が上演される。11時と15時30分の2回公演。作・作詞は吉原廣と仲間たち、演出は吉原廣、作曲は石川洋光、振付は安西真幸。主催はいちかわ市民ミュージカル実行委員会、共催は市川市文化振興財団である。
題材になったのは、戦後日本美術を代表する画家・丸木俊(まるき・とし、1912–2000)。だが企画の出発点は《原爆の図》そのものではなく、「丸木俊は戦前、市川小学校の先生だった」という地域史の発見だった。
赤松俊子、市川の教壇へ
東京文化財研究所の『日本美術年鑑』によれば、丸木俊は1912年2月11日、北海道雨竜郡秩父別村に生まれた。旧姓は赤松。女子美術専門学校(現・女子美術大学)で油彩を学び、1933年に卒業すると、千葉県市川市の市川小学校教員となった。
地域史資料では、1933年4月から1937年3月まで、市川尋常高等小学校(現・市川小学校)の代用教員を務めたとされる。1937年4月にはモスクワへ渡り、その後ミクロネシアにも滞在した。
原爆を描く画家として知られる前に、20代前半の俊は、市川の子どもたちの前に立つ先生だった。
市川で教えた4年間は「前史」ではない
後年の巨大な仕事から人生を逆算すると、若い時代は単なる準備期間に見えてしまう。しかし、市民ミュージカルが注目するのはむしろそこだ。
20代の俊が教員として子どもに接し、絵を描き、海外へ目を向けた時代。後に戦争と原爆を描くことになる人物が、戦前の市川という日常の中で何を見ていたのか。その問いを、地域の出演者が自分たちの街の歴史として舞台に載せる。
1941年、丸木位里と結婚
丸木美術館によれば、俊は1941年、広島出身の水墨画家・丸木位里(まるき・いり、1901–1995)と結婚した。
位里は抽象やシュルレアリスムを取り入れた水墨画を発表していた。俊は油彩画家。異なる技法と感覚を持つ二人が、のちに一枚の画面を共同で作ることになる。
1945年8月、広島へ
1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下された。丸木美術館によると、位里は数日後に広島へ入り、俊も約1週間後に後を追った。二人は被爆後の広島で救援活動を手伝い、約1カ月滞在した。
その経験をすぐに絵にできたわけではない。丸木美術館は、二人が数年間「原爆」を描きあぐねた末、1950年に《原爆の図 第1部 幽霊》を発表したと説明する。
《幽霊》は縦1.8メートル、横7.2メートル
《原爆の図》第1部《幽霊》は1950年制作、四曲一双の屏風で縦1.8メートル、横7.2メートル。
最初は一作、次に三部作の予定だった《原爆の図》は、最終的に15部となり、1982年の《ながさき》まで32年間描き続けられた。
俊の油彩的な人体表現と、位里の墨の表現が交差し、原爆被害を一人の作家の視点ではなく、二人の共同制作として記録したことも作品の特徴である。
市川市役所に「原寸大複製」が来た
ミュージカルに先立ち、7月15日から29日まで、市川市役所第1庁舎で丸木美術館所蔵の《原爆の図》第1部《幽霊》原寸大複製画が特別公開された。
実行委員会は、市主催「平和の折り鶴展」と併催し、縦1.8メートル、横7.2メートルという本作とほぼ同じスケールで作品を見てもらう場を作った。
複製であっても、原寸大で見ることには意味がある。人体が等身大に迫り、作品が「美術史上の有名作」から、身体感覚を持つ出来事へ戻るからだ。
舞台化は「絵を再現すること」ではない
市民ミュージカル公式サイトは、俊の教員時代から位里との結婚、被爆直後の広島、1950年の《幽霊》発表まで、その半生をミュージカルとして上演すると説明している。
しかし舞台は絵画の代替ではない。歌、台詞、身体、群衆、音楽を使って、画家の生涯と地域史を別のメディアへ移し替える作業である。
その過程では必ず省略、構成、人物化が起きる。歴史資料をそのまま再現するのではなく、観客が2時間前後の舞台で理解できる物語へ変換する。
「市民が演じる」こと自体が作品の一部
今回の出演者はプロ俳優だけで構成された商業公演ではない。いちかわ市民ミュージカルは「三世代市民の文化交流と地域のつながり」を掲げ、子どもから高齢者まで市民が出演・制作へ参加する活動として続いてきた。
実行委員会の募集では、2026年5月中旬から土日・祝日を中心に約30回の稽古を行うとした。完成品だけではなく、半年近い共同制作の過程も地域文化活動の中核になる。
2002年、第1回は出演者320人
いちかわ市民ミュージカルの第1回公演は2002年8月31日、「いちかわ真夏の夜の夢」。市川市文化会館大ホールで昼夜2回上演された。
公式の「足跡」によれば、出演者320人、市民スタッフ延べ550人、観客3,200人。作品作りから資金面まで市民の手で進めた大規模な公演だった。
その後も、公演をきっかけにダンス、コーラス、演劇などの市民サークルが生まれたと実行委員会は振り返る。
第12回で選ばれたのが「地元にいた世界的画家」
第12回の題材選定について、実行委員会は「原爆の図や絵本『ひろしまのピカ』の画家・丸木俊は市川小学校の先生をしていた」という事実を知り、驚いたことが出発点だったと説明する。
地域史の面白さは、有名人を「地元出身」にすることではない。全国史の中で知られる人物に、地域でしか見えない時間が残っていることにある。
《原爆の図》は最初から「美術館の名作」ではなかった
1950年2月、第3回日本アンデパンダン展に《八月六日》(のちの《幽霊》)が出品され、3月に日本橋丸善画廊で《原爆の図》展が開かれた。同年8月には《火》《水》を加えた三部作完成記念展が行われた。
その後、作品は全国巡回した。1950年代初頭には同時に複数会場から展示依頼が来るほど広がり、再制作版も作られた。
つまり、《原爆の図》は美術館の壁に固定される前に、人々のいる場所へ運ばれ、各地で見られることによって社会的な意味を獲得した作品でもある。
市民ミュージカルも「巡回」の思想に近い
もちろん、2026年の市民ミュージカルと1950年代の《原爆の図》巡回展は同じものではない。
しかし、作品を専門家だけの場所から市民の共同体へ移し、参加者が自分たちの言葉と身体で受け止め直すという点では、興味深い共通性がある。
記憶は保存庫に入れるだけでは継承されない。誰かが見直し、語り直し、次の媒体へ移すことで生き続ける。
『ひろしまのピカ』が子どもへ渡した記憶
丸木俊は絵本作家としても知られる。代表作『ひろしまのピカ』は1980年刊行。幼い読者へ原爆の体験を伝える作品として長く読み継がれてきた。
夫妻は1950年にも『ピカドン』を刊行している。占領期の検閲と朝鮮戦争開始直後という政治的に緊張した時代に、原爆の惨状を絵と言葉で伝えた。
大画面の屏風と小さな絵本。丸木夫妻は、対象となる観客や場所に応じて異なる媒体を使って記憶を届けた。
市川の子どもが、今度は丸木俊を演じる側へ回る
1930年代、俊は市川の子どもを教えた。2026年、その市川で子どもから大人までが俊の人生を学び、舞台に立つ。
この反転は、公演の題材以上に象徴的である。
教師から児童へ一方向に渡った時間が、90年近く後、市民から過去の教師へと向き直る。地域史が「知識」から「参加」に変わる瞬間だ。
平和を扱う舞台の難しさ
戦争や原爆を扱う作品には、悲惨さを強調するだけで観客の感情を動かす危険がある。
市民ミュージカル側は、戦争被害を抽象的な「被害者」として描くのではなく、そこにいた人々の生活や喜怒哀楽を描こうとしていると発信している。
その姿勢が舞台上でどう実現されるかは、公演前の段階では評価できない。本稿は作品の完成度や歴史表現の妥当性を事前に断定しない。
一日限り、二つのキャスト
公演は10月4日の一日限り。11時開演のAプロ、15時30分開演のBプロの2回で、各回30分前開場。市川市文化会館大ホールで行われる。
1階指定席3,000円、2階自由席2,500円。原爆の図丸木美術館は公演案内を公式サイトで紹介し、公演を支援している。
地域の記憶は「正確に保存」するだけでは足りない
記憶の継承には、二つの要求がぶつかる。
一つは、史実を正確に残すこと。もう一つは、後の世代が自分との関係を感じられる形へ変換することだ。
市民ミュージカルは後者の力が大きい。だからこそ、前者との距離を意識する必要もある。舞台で感動した後に、原画や史料、美術館、地域史へ戻れる導線が重要になる。
市川の記憶が、丸木俊をもう一度「地元の人」にする
丸木俊は北海道に生まれ、東京で学び、モスクワやミクロネシアへ渡り、広島を描き、埼玉で丸木美術館を築いた。市川はその長い人生の一地点にすぎない。
しかし、1933年から1937年までの4年間を知ることで、全国史の中の画家に地域の輪郭が戻る。
10月4日の舞台が行うのは、世界的に知られた画家を市川の所有物にすることではない。彼女の人生の一部をこの街の人々が引き受け、もう一度語り直すことだ。
