研修の登録者数より大切なのは、学んだ知識が職場の判断と成果を変えたかどうかだ。
仕事を変えるのは、AIの専門家だけではない
北海道大学が、働く大人のためのデジタル学習を改めて設計した。10月21日、大学は社会人向けの「北海道大学デジタルリスキリングプログラム(DREP)」のアップグレードを発表した。狙いは高度な技術者を少数育てることだけではない。職場でデジタル技術をほとんど使ってこなかった人にも基礎を届け、その中から業務改善を担う中核人材を育てるという二段構えだ。
ここに日本の大きな課題がある。AIの導入を決める経営者がいても、現場の帳票、受発注、点検記録を熟知する社員が仕組みを理解できなければ、改革は進まない。反対に、新しい道具を使える若手だけに仕事を任せれば、豊富な現場経験が意思決定から切り離される。北海道大学の試みが問うのは、誰を教育の出発点に置くべきか、である。
2024年の開始から「Phase 4」へ
DREPは北海道大学のデータ駆動型融合研究創発拠点(D-RED)が開発・運用し、2024年10月に提供を始めた。2025年10月には教材の閲覧方法を改め、基本コースを充実させた。2026年10月8日に始まった「Phase 4」では教材を全面的に更新。大学は10月21日の発表で、地域全体の底上げとデジタル中核人材の育成を目指す方針を改めて示した。
大学の公式サイトに掲載された2026年9月時点の集計では、利用に関する協定を締結した企業・団体は268機関、受講登録者は1万3213人に上る。これらは大学の公表した登録規模であって、1万3213人が全課程を修了した、あるいは転職や生産性向上を実現したことを意味しない。数字を評価するには、修了率、学習後の業務改善、企業規模や業種による違いを確かめる必要がある。
初歩から生成AI、そして「課題を発見する」力へ
学習は段階別に組まれている。Stage Bは高校の「情報Ⅰ」に対応する入門内容で、Stage 1はデジタルリテラシー、Stage 2はデータ活用、Stage 3はAIを扱う。Stage 4は、学んだ内容を地域や職場の課題解決へつなぐ実践型の学習を想定する。すべての受講者を同じ技術者養成コースに押し込む構造ではない。
Phase 4では習熟度に応じた三つの生成AIカリキュラムを新設したほか、データ活用演習の動画解説、「観光データ分析レポート」、業務課題を見つけて整理する「ブリッジプログラム」が加わった。観光データを題材にする点は、地方の産業に身近な問いを学習へ持ち込む試みとして注目できる。ただし、教材の追加がそのまま企業の収益増や人手不足解消につながるかは、まだ実証されていない。
中高年を置き去りにしない設計
DREPの入門コースは、デジタル分野に触れる機会が少なかった35~65歳程度の社会人にも受講を勧めている。オンデマンド教材はパソコンのほかスマートフォンやタブレットからも閲覧できる。時間と場所の制約を和らげる工夫だ。
だが、デジタルリテラシーとは「AIに詳しくなる」ことだけではない。個人情報を安全に扱う、資料の出所を確認する、誤った集計を見抜く、業務上の目的を説明できるといった基礎が含まれる。生成AIが流暢な文章や表を出力しても、正誤を判断するのは依然として人間だ。教育の価値は新しいボタンを覚えることよりも、現場で使う判断力を養うことにある。
北国の課題が映す、日本全国の未来
北海道は人口減少、高齢化、広い地域に点在する事業所、季節性の強い観光や農業など、多様な労働上の課題を抱える。これは「北海道だけの特殊事情」ではない。地方の建設、物流、介護、行政、製造、観光で人手不足が広がれば、既存の働き手一人ひとりが業務を見直せるかどうかが重要になる。
例えば紙の点検記録をデータ化しても、入力項目が現場の仕事に合わなければ負担は減らない。観光客の動きを分析する場合でも、地域の事情を知る職員の判断が不可欠だ。大学と地域企業の関係は、教材提供を超えて、何が役に立ったのかを検証する機会になり得る。ここでは可能性と実績を分けて見る必要がある。
「リスキリング」という言葉の歴史
日本の社会人教育には、企業内訓練、職業能力開発、大学の公開講座、リカレント教育という長い蓄積がある。「リスキリング」という言葉が普及する以前から、仕事に合わせて学び直す営みは続いてきた。近年の特徴は、デジタル化がIT部門だけではなく、営業、経理、建設現場、地域の行政サービスにまで及んでいることだ。
経済産業省と情報処理推進機構(IPA)は2022年にデジタルスキル標準の初版を公表し、生成AIの普及に合わせて改訂してきた。2026年4月にはデータマネジメントなどを強化したver.2.0を公表。2025年の政府報告書では、学習しても技能が職場で適切に評価されにくいという課題も指摘した。学ぶ人が増えても、企業が仕事の配分や処遇を変えなければ改革は途中で止まる。
不足するのは「AI人材」だけなのか
IPAの2025年の調査を分析した文書によると、日本企業の85.1%がデジタルトランスフォーメーション(DX)を推進する人材の不足を回答した。ただし、この数字はすべての産業で同じ割合の人材が欠けていることや、特定人数の欠員を表すものではない。企業の自己申告による不足感だ。
国の人材政策は専門家の供給を重視してきたが、北海道大学はより幅広い従業員の共通知識に着目する。専門技術者を採用するだけでは、データの意味や現場の課題が共有できないからだ。一方、学習時間を勤務として保障できるか、小規模企業が担当者を置けるかという現実的な障壁は残る。
実際に申し込めるのは誰か
DREPは個人が直接申し込める一般公開型の大学講座ではない。公式案内によれば、受講申し込みは企業・団体単位で受け付け、組織ごとに事務局を設けて大学と協定を結ぶ方式だ。受講者は所属組織を通じて登録する。北海道に限らず全国から受講できると案内している。
制度の使いやすさを判断するには、料金や社内管理の負担に加え、雇用形態の異なる人、非正規雇用者、求職者が利用できる経路も確かめたい。応募できるという宣伝と、必要とするすべての人が実際にアクセスできるという評価は別である。
透明性も教育の一部に
大学の研修システムには、2026年8月28~29日のサーバー保守で一部の受講データが失われ、復旧できなかったという告知も掲載されている。該当期間に受講した人に再受講を求める内容だ。これは教材の質とは別の、教育サービス運用上の重要な事実である。
デジタル化を教える組織だからこそ、データ保護、復旧体制、利用者への説明責任が問われる。大学側は謝罪と再発防止への言及をしているが、影響人数や恒久対策については、公開文書だけでは十分に確認できない。
成果を測る物差しは修了証の先にある
受講者の満足度や登録数は重要な手掛かりだが、職場が変わったことの証明にはならない。独立した評価には、教育前後の技能確認、現場の処理時間、ミスの減少、賃金やキャリアへの影響、学習機会の公平さといった指標が必要になる。大学サイトに掲載された満足度は主として参加者アンケートに基づくもので、厳密な因果効果の測定ではない。
日本が高齢化のなかでデジタル化を進めるには、若い専門家を育てるだけでなく、長く職場を支えてきた人たちが新しい技術を理解し、問い直し、使いこなせる環境が欠かせない。北海道大学DREPの真価は、登録者数がさらに増えたときではなく、現場の知恵と技術が結び付き、働き方が検証可能な形で改善したときに明らかになる。
出典・参考資料
大学・政府の公式資料を中心に構成。人数は登録実績、教育効果の因果的証明ではない。独自インタビューは行っていない。
- 北海道大学/Hokkaido University — October 21 announcement
- 北海道大学DREP — official program site
- DREP Phase 4 — course and system information
- DREP — course descriptions
- DREP — admissions and eligibility
- IPA — Digital talent in the AI era
- 経済産業省 — 2025 skill-based talent report
- 経済産業省 — デジタルスキル標準 ver.2.0
- デジタル庁 — デジタル人材の育成・確保
