北海道に、クマの匂いを追い、存在をいち早く知らせる一頭の犬がやって来る計画が進んでいる。

札幌市を拠点とするNPO法人EnVision環境保全事務所は、米国のWind River Bear Institute(WRBI)で訓練を受けるカレリアン・ベア・ドッグを北海道へ導入するプロジェクトを進めている。候補犬の名前は「カイ」。2026年2月生まれで、7月時点では米国モンタナ州で訓練中だった。計画では12月ごろに来日し、2027年を育成・訓練期間とし、2028年4月ごろからヒグマ対策への本格導入を目指す。[1][2]

ここで最初に区別しておく必要がある。これは北海道庁がベアドッグを導入する事業ではない。EnVisionが進める民間・NPO主体の取り組みで、クラウドファンディングでは目標800万円に対し1,207万8,000円を集め、923人が支援した。北海道全体のヒグマ政策では、道がガバメントハンター、春期管理捕獲、ICT・AI、ゾーニング管理などを別途進めている。[3][4]

なぜ今、北海道で「犬」なのか

北海道が公表した2026年6月号の広報資料によると、道内のヒグマ推定生息数は1991年の5,560頭から、2024年には12,190頭へ増えた。約2.2倍である。道は「人とヒグマとのあつれきがかつてないほど高まっている」と説明している。[4]

人身事故は年度によって変動する。北海道の同資料では、2023年度9人、2024年度3人、2025年度6人が死傷した。農業被害額は2022年度2億4,900万円、2023年度3億3,200万円、2024年度3億5,400万円と増えている。[4]

2025年には北海道警察へのヒグマ関連通報が5,000件を超え、前年の2倍以上になったと鈴木直道知事が2026年6月の会見で説明した。2026年も5月末までに約600件が寄せられ、道は6月に苫小牧市の一部で年度初のヒグマ注意報を出した。[5]

ベアドッグの価値は、クマを「犬で追い払う」ことだけではない。人の目では確認しにくい匂いや微かな痕跡を探し、「そこに本当にヒグマがいるのか」を判断するための情報を増やすことにある。

EnVisionが最初に期待するのは「探索」

EnVisionは1997年設立で、札幌市を拠点に生物多様性保全へ取り組んできた。2010年から札幌市のヒグマ対策業務にも従事している。同法人が強調するのは、ヒグマの出没情報が寄せられた際に現場へ入り、フン、体毛、足跡などを調べ、DNA分析も組み合わせながら個体や出没原因を特定する仕事だ。[3]

しかし「ヒグマらしきものを見た」「糞がある」といった情報だけでは、現地調査をしても決定的な痕跡が見つからないことがある。存在が確定できなければ、住民への警戒呼びかけや対策の優先順位も決めにくい。

そこでカイには、優れた嗅覚を使ってヒグマやその痕跡を探す役割がまず期待されている。EnVisionは、犬が見つけた情報とDNA分析などを組み合わせ、「どの個体を優先的に警戒すべきか」という判断を支える構想を示している。[3]

北海道では、すぐに「追い払い犬」にはしない

カレリアン・ベア・ドッグと聞くと、犬がヒグマへ向かって吠え、森へ追い戻す光景を想像しやすい。しかしEnVisionは、札幌で当初から追い払いを行う計画ではない。

理由として、札幌のヒグマは軽井沢のツキノワグマより大きいこと、今回導入する犬が1頭であること、札幌の面積と人口密度、そして札幌ではヒグマに電波発信器を装着しておらず、追い払い後の動きを把握しにくいことを挙げている。追い払いは今後の検討課題だ。[3]

この慎重さは重要である。ヒグマ管理では「追い払えばよい」と単純化できない。追い払ったクマが別の住宅地へ移動する可能性もあり、位置把握、退避経路、ハンドラーの安全、住民の動線まで含めた管理が必要になる。

カレリアン・ベア・ドッグはどんな犬か

国際畜犬連盟(FCI)はカレリアン・ベア・ドッグをフィンランド原産の「北欧猟犬」に分類する。主な用途はヘラジカやクマの狩猟で、大型獣を吠えてその場にとどめる「ベイイング」を行う犬として標準に記載されている。中型で頑健、黒と白の被毛が特徴だ。[6]

フィンランド・ケネルクラブによると、その系統はカレリアの森林地帯に根を持ち、1936年から計画的な繁殖が始まった。犬種名も同年に定められ、最初の犬種標準は1945年、最初の登録は1946年だった。冬戦争で個体群は壊滅的な打撃を受けたが、その後ロシア領カレリアから持ち帰られた犬を含めて再建された。[7]

フィンランドではいまも大型獣猟の実用犬であり、勇敢さ、独立心、強い狩猟本能を持つ。だからこそ、野生動物対策犬として使うには犬種だけでなく、個体の適性、社会化、服従訓練、ハンドラーとの信頼関係が不可欠になる。

日本にはすでに20年以上の先行例がある

日本でのベアドッグ利用は今回が初めてではない。長野県軽井沢町では、野生動物保護管理を行うピッキオが2004年、WRBIから日本初のベアドッグ「ブレット」を導入した。2015年には「タマ」と「ナヌック」を迎え、2018年には国内での繁殖にも成功した。[8]

ピッキオは軽井沢町から2000年以降ツキノワグマ対策を受託し、電気柵、クマ対策ゴミ箱、個体識別、電波発信器、追い払いなどを組み合わせている。ベアドッグはその一部で、匂いによる探索、追い払い、スタッフの安全確認、住民教育に使われる。[9]

ピッキオによると、軽井沢の住宅地でのクマ目撃件数は、最多だった2006年の36件から2016年には9件まで減少した。同団体はベアドッグがその減少の「一翼を担った」と説明している。ただし、電気柵やゴミ対策など複数の施策が同時に行われているため、目撃減少を犬だけの効果と解釈することはできない。[9]

北海道と軽井沢は条件が違う

軽井沢の対象は主にツキノワグマ、北海道はヒグマである。北海道の広報資料によると、成獣のヒグマはオスで体長2m弱、体重約150~400kg、メスでも約100~200kgに達する。[4]

札幌市の行政区域も広く、森林と市街地が長い境界で接する。犬が1頭増えればすべての出没へ対応できる規模ではない。カイは「北海道のクマ問題を解決する犬」ではなく、専門チームが使える新しい一つのセンサーであり、現場要員と考える方が現実的だ。

北海道の公的対策も「一つの手段」に依存していない

北海道庁自身も2026年度、対策を多層化している。6月には市町村を支援する「ガバメントハンター」1人を任用し、ヒグマ捕獲経験のある道職員による捕獲チームを立ち上げた。銃器による捕獲作業などへの特殊勤務手当も導入方向を示した。[5]

春の残雪期には「春期管理捕獲」を行い、人里周辺の生息密度低減と、人への警戒心を持たせることを狙う。ドローン撮影とAIによる個体識別を使う捕獲支援の検討も進め、地域ごとに人の生活圏と生息地を分けるゾーニング管理を採用している。[4][10]

道の公式方針も、問題を起こす個体への対応を重視する。単純に個体数を減らすだけでは、人の食物へ執着した「問題個体」を排除しない限りあつれきが減らない場合があり、出没場所と有害性に応じた判断が必要だとしている。[11]

「殺さない対策」と「捕獲」は対立する二択ではない

ベアドッグは「非致死的対策」として紹介されることが多い。確かに、探索や警戒、条件を整えた上での追い払いは、クマを殺さず人との距離を作るための道具になる。

しかし、それは捕獲を不要にするという意味ではない。人を襲った個体、住宅地で食物へ執着した個体、繰り返し危険行動を取る個体には、捕獲が必要になることがある。北海道も捕獲を野生鳥獣管理の重要な手段の一つと位置付けている。[4]

ベアドッグの本当の可能性は、その二択の手前にある。ヒグマがいるのか、どちらへ動いたのか、痕跡が新しいのか。より早く情報を得られれば、必要以上の警戒区域や長期間の閉鎖を避けられる場合があり、逆に危険個体へ素早く対応できる場合もある。

2025年の羅臼岳事故が残した教訓

2025年8月の羅臼岳でのヒグマ人身事故を受け、羅臼岳と硫黄山の登山口、羅臼湖歩道入口は長期間閉鎖された。2026年7月5日に閉鎖が解除され、環境省はクマ撃退スプレーの携行、警戒レベルと出没情報の確認を改めて求めた。[12]

この事例は、クマ対策が観光、登山、地域経済とも直結することを示す。危険を過小評価すれば人命に関わり、過大評価して広い区域を長く閉鎖すれば地域活動へ影響する。現場情報の精度が高いほど、その判断を細かくできる。

カイはまだ「北海道のベアドッグ」ではない

9月末時点で最も重要な事実は、カイがまだ北海道で実働していないことである。公開されている計画では、来日は2026年12月ごろ。日本での育成・訓練を2027年に行い、本格導入は2028年4月ごろを目指す。

EnVisionは渡日前の基礎訓練と飼育、来日時の検疫やワクチン、WRBIスタッフの同行などに資金を使うとしている。プロジェクトは第一目標800万円、第二目標1,100万円を超え、最終的に1,207万8,000円を集めた。[3]

だから、この秋のニュースは「犬が北海道のヒグマを追い払っている」ことではない。北海道の専門家集団が、20年以上前に一度は導入を断念した手法へ戻り、いまのヒグマ問題に合わせてもう一度試そうとしていることだ。

一頭の犬で北海道の問題は解決しない。しかし、人とヒグマの境界で「何が起きているのか」をより早く、より正確に知ることができるなら、その一頭は対策の選択肢を増やす。

カイの本当の評価は、北海道へ到着した瞬間ではなく、数年後、犬とハンドラーが現場でどれだけ正確な情報を積み上げられるかで決まる。