451,1722015–24年の見逃し直球
89人球審の個人差も分析
3–0ゾーンが広がる傾向
0–2ゾーンが狭まる傾向

ルールは変わらない。それでも、球審の「見える境界」はカウントで動く。

「3ボール」で、同じ一球が違って見える

球審は捕手の後ろに立ち、時速150キロ近い速球が本塁を通過する一瞬で判定を下す。だが、その目に映る球は、試合の流れから完全に独立しているのだろうか。3ボール0ストライクの局面で見送った球と、0ボール2ストライクで見送った球。物理的な通過位置が同じでも、ストライクと呼ばれる確率は異なる。広島大学の研究者がこの昔から知られる現象を、選手や審判の性格論ではなく、知覚の仕組みから読み解いた。

広島大学が解析した45万1172球

研究成果を発表したのは、広島大学大学院人間社会科学研究科で学んだ友村光翔氏と、同研究科の進矢正宏准教授である。研究論文は2026年10月5日に「Communications Psychology」に掲載され、大学が10月26日に紹介した。対象は2015年から2024年の大リーグ公式戦。右投手が右打者に投げ、打者が見送ったフォーシーム直球45万1172球のデータを使用した。全投球、全審判、全投打組み合わせを調べた研究ではない。

ストライクゾーンが広くなるとは

野球規則上のストライクゾーンがカウントによって変更されるわけではない。研究で測ったのは、実際の判定がストライクとボールで半々になる位置、つまり「主観的等価点」である。12種類のボール・ストライクカウントごとにその境界を推定すると、3ボール0ストライクなどの打者有利の局面では実質的なゾーンが広がり、0ボール2ストライクなどの投手有利の局面では狭くなった。この傾向は上下左右の4方向で見られた。

見逃される球の分布に秘密がある

打者が有利なら、投手は次の四球を避けるためストライクを取りにいく。だから打者が見送る球は中央付近に集まりやすい。反対に2ストライクなら投手は外の難しいコースを狙い、打者は際どい球に手を出す場合もある。結果として、球審が「見逃し球」として判断する投球の分布自体が変わる。脳がその経験的な傾向を無意識に学習している可能性を、研究者は数理モデルで検討した。

ベイズ感覚統合という考え方

霧の中で道を歩くとき、見えている線だけでなく、これまでの経験から「道はこのあたりにあるはずだ」という予測にも頼る。感覚情報が曖昧になるほど、予測の重みが増す。これが「ベイズ感覚統合」の基本的な考え方だ。野球の判定も同様に、目に入った球の位置と、そのカウントで球が来やすい場所の予測を組み合わせているなら、判定のずれが自然に生じ得る。もちろん、脳内活動を直接撮影して実証したわけではない。

計算モデルはどこまで当たったか

研究チームは球審の判断基準と感覚的な不確かさを固定し、カウントによって投球位置の事前分布だけを変えるモデルを作成した。これにより実質的なゾーンの変化を再現し、特に高めと外角ではモデルと観測の一致が高かった。大学発表による決定係数は高めで0.80、外角で0.67。カウント情報を用いないモデルとの比較でも、4方向のうち3方向で明確な改善がみられた。ただし統計的な説明力と個々の判定を正確に予言する能力は同じではない。

89人の球審から見えた個人差

研究者が球審89人を個別に調べると、同じような位置の球でも判定のばらつきが大きい審判ほど、カウントによるゾーン変化も大きい傾向があった。これは不確かな感覚に予測を補うという理論と整合する。だが、ばらつきが大きいことを直ちに能力の欠如や不正と呼ぶことはできない。球速、視野、姿勢、判断の難しさなど、現実の球審には多くの条件が重なっている。

歴史の中の「審判の目」

野球が長く培ってきた審判の権威は、選手と観客が人間の判定を受け入れることで成り立っていた。テレビ中継や球跡追跡技術が発達すると、目視判定のばらつきも可視化された。審判を非難する材料としてだけでなく、熟練者の判断がどのような情報を使うのかを科学的に考える機会が生まれた。過去の研究では、三振や四球という決着を避ける心理的傾向も説明として提案されてきた。今回の研究は、それとは別の知覚メカニズムを示している。

2026年、機械との協働が始まった

MLBは2026年シーズンから自動ボール・ストライク判定システム(ABS)によるチャレンジ制度を本格導入した。通常の球審判定は残し、打者、投手、捕手が特定の判定に異議を申し立てた場合に計測で確認する方式だ。すべての球を機械に任せる完全自動判定とは異なる。どの局面でチャレンジすべきかという新しい戦略が生まれ、人間と計測技術の役割分担が問われている。

「3ボールならストライクにチャレンジ」は正解か

研究者は、打者有利のカウントで打者がストライク判定を争うこと、投手有利のカウントで守備側がボール判定を争うことが相対的に有利になる可能性を指摘した。とはいえ、これは研究モデルからの見通しであり、実際の2026年チャレンジ成功率を検証した結果ではない。何球種を含むか、打者と投手の左右、試合状況、利用できるチャレンジ回数によって判断は変わる。

誤審の証明ではなく、判断の科学

研究は投球の一類型を十年分集めた大規模解析だが、カーブやスライダー、左投手と左打者などには一般化できない。点差、疲労、球場環境が判定に与える影響も今後の課題だ。ベイズモデルが観測をよく説明しても、それが唯一の原因と証明されたわけではない。大学発表は、判断の偏りを単純な「間違い」ではなく、不確実性の下で脳が情報を統合する働きとして考えることを提案する。

野球から医療、そしてAIへ

医師が画像を読むとき、空港で検査員が画像を確認するときも、経験に基づく予測と目の前の情報がせめぎ合う。重要な問いは人間を排除するかどうかではなく、どんな条件で人の知覚を尊重し、どんな場面で機械による再確認を活用するかだ。球審の指先から始まる「ストライク」の一声は、より広い社会の判断を考える手がかりとなる。

出典・検証資料

広島大学の日本語一次資料、原著論文情報、MLB公式説明、野球分析史料を照合。研究者への独自取材は行っていない。

  1. 広島大学:2026年10月26日研究成果発表
  2. 広島大学:研究成果詳報・図説
  3. 原著論文 DOI・Communications Psychology
  4. Nature誌論文ページ
  5. 研究データ解析コード Zenodo
  6. MLB Baseball Savant データ
  7. MLB:ABSチャレンジ制度の説明
  8. SABR:審判分析の歴史