1992年10月1日。日本が世界遺産条約を受諾したわずか3か月後、彦根城はユネスコの世界遺産暫定一覧表に載った。同じ1992年に暫定一覧表へ入った姫路城は翌1993年に世界遺産となった。一方、彦根城はそこから34年、候補のまま残った。
その長い停滞が、ようやく次の段階へ進む。文化庁は2026年9月3日、文化審議会世界文化遺産部会が「彦根城」を本年度の世界文化遺産の推薦候補に選定したと発表した。彦根市はこれを「国内推薦に内定」と表現し、最短で2028年の世界遺産委員会での登録を目指す。
なぜ34年もかかったのか——「美しい城」だけでは足りなかった
彦根城が時間を要した最大の理由は、保存状態が悪かったからではない。むしろ逆だ。天守は国宝、城跡は特別史跡。中堀より内側には、石垣、堀、土塁、櫓、門など近世城郭の平面構造が良好に残る。問題は、それを世界にとってなぜ唯一無二なのかと説明する言葉だった。
1992年にユネスコへ提出された暫定一覧表の説明は、彦根城を17世紀初頭の城郭建築の黄金期に属する城として位置づけ、評価基準(i)(ii)(iii)(iv)を掲げていた。だが日本には、すでに姫路城という圧倒的な先例がある。
姫路城は1993年、評価基準(i)と(iv)で世界遺産になった。ユネスコは、白漆喰の外観と複雑な屋根構成を備える木造建築の傑作であり、日本の木造城郭建築の最高点を示すと評価した。もし彦根城が同じ「優れた城郭建築」という土俵だけで勝負すれば、世界遺産として何を追加できるのかが問われる。
そこで彦根城の推薦戦略は大きく変わった。今、世界に示そうとしている価値は、天守の美しさだけではない。江戸時代の地方政治が、空間として読めることである。
文化庁が評価した「大名統治システム」とは何か
文化庁が9月3日に示した概要は、推薦の核心を「徳川期日本の地方統治拠点における大名による統治システムの物証」と表現する。
17世紀の日本では、徳川政権の下で各地の大名が地域の統治拠点を与えられ、そこで権威を示しながら政治を担った。同時に、重臣たちはそれぞれの領地に分散して独立的に統治するのではなく、大名の統治拠点へ集住し、大名とともに政治を行う構造が形成された——これが文化庁や彦根市が「大名統治システム」と呼ぶ考え方である。
彦根城で重要なのは、その関係が建築一棟ではなく、空間の組み合わせとして残ることだ。堀・石垣・土塁が権力の領域を区切り、天守・櫓・門が権威と防御を示す。山麓には藩政を行った表御殿が置かれ、中堀の内側には家老など重臣の屋敷が集まった。さらに外側へ武家地、町人地、足軽屋敷が配置された。
彦根市の城下町研究によれば、内堀と中堀に囲まれた第二郭には藩主の下屋敷である槻御殿——現在の玄宮園・楽々園——と、家老など千石以上の重臣屋敷が広がった。中堀と外堀の間は「内町」、外堀の外は「外町」とされ、武士・町人の居住地も役割に応じて区分された。
つまり、堀を一つ越えるごとに政治的・社会的な距離も変わった。これを一つの城郭空間として読み取れる点を、彦根城は世界遺産の価値へ転換しようとしている。
評価基準(iii)——建物ではなく「制度の証拠」として挑む
2023年、文化審議会の意見を受け、日本は彦根城についてイコモスの事前評価制度を利用した。これは本推薦の前に、世界遺産委員会の諮問機関である国際記念物遺跡会議(ICOMOS)から技術的・専門的な助言を受ける仕組みだ。
結果は2024年10月に通知された。文化庁が2025年に公表した整理によると、イコモスは推薦戦略を徳川期日本の大名統治システムの重要性に置くことを支持し、世界遺産評価基準(iii)を満たす可能性があるとした。
評価基準(iii)は、現存する、あるいは失われた文化的伝統や文明について、独特または稀な証拠を示す資産を評価する基準である。姫路城の「建築の傑作」「城郭建築の最高点」とは別の論理だ。
ただし、イコモスは同時に厳しい宿題も出した。大名統治システムが実際にどう運用されたのかをより具体的に説明すること。他国や日本の他城との比較指標を広げ、分析を厳密にすること。そして、彦根城という単独の資産だけでその統治システムを完全に表現できるのかを検討することだった。
2025年、いったん止められた
事前評価で「可能性あり」と言われても、そのまま日本代表にはならなかった。2025年8月、文化審議会は彦根城について「検討に進捗が見られるものの、なお課題が残る」とし、国内推薦を見送った。
課題は細かかった。比較対象となる城を、大名の家格、知行高、将軍家との親疎、近世に新築されたかどうかなどで絞る際、その線引きが客観的か。遺存状況を評価する時、考古学的遺構と現存建造物のどちらを重視するのか。「城(城郭)」に行政実務施設や城下町を含むのか。「大名」とはどの範囲の存在を指すのか。
こうした問いは、観光パンフレットには細かすぎる。しかし世界遺産推薦では核心になる。「彦根城はよく残っている」では足りず、なぜその比較方法で彦根城が選ばれるのかまで説明しなければならないからだ。
彦根市は2026年1月、市民向け広報で、前年に国内推薦へ至らなかった理由を「世界遺産としての価値が複雑でわかりにくい」と率直に整理した。5月には滋賀県と彦根市が共同で推薦書案を取りまとめ、再び文化庁へ提出した。
2026年9月3日、「十分に説明できる段階」へ
今年の文化審議会は、その修正版を審議した。そして9月3日、「彦根城」を今年度推薦することが適当な候補物件として選定した。
選定理由は、完全な合格宣言ではない。文化庁は、海外の専門家にもより分かりやすい表現になるよう推薦書の記述を修正する必要が残るとした。その上で、彦根城は「諸外国に類をみない、江戸時代の大名による統治システムを物証できるもの」として顕著な普遍的価値が認められ得ること、構成資産が十分な保護措置を受けていることを理由に推薦候補とした。
これは非常に重要なニュアンスだ。国内選考を通ったことは、イコモスの本審査を通ったことではない。むしろ日本国内で「この論理なら国際審査へ出す価値がある」という段階に到達したという意味だ。
ここから2028年まで
| 時期 | 予定 | 意味 |
|---|---|---|
| 2026年9月3日 | 文化審議会が国内推薦候補に選定 | 国際推薦へ進める文化的価値があると国内審査で判断 |
| 2026年9月30日まで | 推薦書暫定版をユネスコへ提出予定 | 形式・内容の準備を進める段階 |
| 2027年 | 閣議了解、推薦書正式版を2月1日までに提出予定 | ここで日本政府として正式推薦 |
| 2027年 | イコモス審査・現地調査 | 顕著な普遍的価値、真正性、完全性、保護管理を国際的に審査 |
| 2028年 | 世界遺産委員会 | 登録、情報照会、記載延期、不記載などを決定 |
関ヶ原の直後、「西国をおさえる城」として始まった
彦根城の政治的意味は、築城そのものに刻まれている。
1600年の関ヶ原合戦後、東軍の中心武将の一人だった井伊直政(いい・なおまさ)は、西軍の石田三成が支配した佐和山城を与えられた。1601年に佐和山へ入るが、関ヶ原で受けた傷の悪化などにより翌1602年に死去する。
その後、佐和山城に代わる新しい城の候補として、佐和山、彦根山、磯山が検討され、彦根山が選ばれた。彦根市の資料では、1604年7月1日に築城工事が始まり、直政の嫡子井伊直継(いい・なおつぐ)が初期工事を担った。
初期工事は、幕府から奉行が派遣され、近隣の大名に助役が命じられる「天下普請」の様相を呈した。豊臣恩顧の大名が多い西国を押さえる戦略拠点として、徳川家康・秀忠政権が完成を急いだためだ。
その速さを支えたのが「リユース」だった。彦根城では周辺の古城や廃寺から石材や木材を集めた。天守は大津城の旧天守を移したものと伝えられ、現存部材の調査も移築をうかがわせる。長浜城、佐和山城、安土城などの石や材が再利用されたとされる。
戦う城から、政治をする城へ
1614年の大坂冬の陣、翌1615年の夏の陣で築城は一時中断した。直継に代わって大坂の陣で活躍した弟の井伊直孝(いい・なおたか)が、その後の後期工事を進め、1622年ごろまでに城郭と城下の全容がほぼ整った。
ここで彦根城は性格を変えていく。豊臣勢力との最終戦争が終わり、軍事的緊張が低下すると、政治の場は山上から山麓へ移った。
彦根藩の表御殿は1万平方メートルを超える規模だった。1604年の鐘の丸御広間、1606年ごろの本丸御広間を経て、大坂の陣後に山麓へ表御殿が置かれる。その位置は以後250年以上変わらず、彦根藩政の中心となった。
この「戦うための高い城」から「統治するための低い御殿」への移動は、推薦ストーリーとよく重なる。城は戦争の終わりとともに不要になったのではなく、江戸社会を管理する行政機構へ変化した。
明治になれば、残る保証はなかった
江戸幕府が終わると、日本中の城は行政・軍事施設としての役割を失った。彦根城も例外ではない。表御殿は1878年に公売に付され、建物や建具が市中へ散った。
一方、天守を含む城郭主要部は残った。彦根市の保存活用計画は、1878年、明治天皇の滋賀県巡幸に際して彦根城の保存が命じられたと整理する。後世の記録では、参議大隈重信が解体を惜しみ天皇へ上奏した経緯が伝えられるが、近年の市の研究は当時の資料を使って保存命令までの過程を改めて検証している。
1891年に宮内省へ移管され、1894年には井伊家へ下賜。1915年から彦根町に貸し出され、1944年に井伊家から彦根市へ寄付されて一般公開へつながった。
1951年に彦根城跡が史跡、天守などが重要文化財となり、1952年には彦根城天守、附櫓及び多聞櫓が国宝に指定。1956年、城跡は特別史跡となった。1992年の世界遺産暫定一覧表記載は、こうした100年以上の保存の積み重ねの上にある。
1600年:関ヶ原合戦。井伊直政が佐和山城を与えられる。
1604年:彦根山で築城開始。初期工事は天下普請の様相。
1606~07年ごろ:天守完成。
1622年ごろ:井伊直孝の時代に城郭・城下の全容がほぼ完成。
1878年:明治天皇巡幸に際し城郭保存が命じられる。表御殿は公売。
1944年:井伊家から彦根市へ寄付。
1952年:天守・附櫓・多聞櫓が国宝に。
1956年:彦根城跡が特別史跡に。
1992年:ユネスコ世界遺産暫定一覧表へ。
2023年:イコモス事前評価を申請。
2024年:事前評価結果。大名統治システム戦略を支持、基準(iii)の可能性。
2025年:文化審議会が説明上の課題を指摘し、国内推薦に至らず。
2026年:文化審議会が世界文化遺産の推薦候補に選定。
2028年:最短で世界遺産委員会の審査。
「残っている」だけでなく、「何が残っているか」が問われる
彦根城の強みは、国宝天守の保存だけではない。中堀より内側の城郭平面が、石垣と堀を含め極めて良好に残る。外堀は近代の市街地改造で失われた部分が多いが、南東隅など一部は特別史跡に追加指定されている。
天守は三重三階。切妻破風、入母屋破風、唐破風を組み合わせ、花頭窓を二階にも設ける独特の外観を持つ。しかし世界遺産推薦では、それだけを主役にはしない。天守、門、櫓、堀、御殿跡、重臣屋敷跡——それらを一枚の政治地図として読む。
この読み方には弱点もある。御殿や重臣屋敷の多くは、江戸時代の建物がそのまま立っているわけではない。表御殿は明治に解体され、現在の彦根城博物館は1987年、発掘調査と古絵図・文献を基にその一部を復元する形で建てられた。
だからイコモスが、地上建造物と地下の考古学的遺構をどう評価し、彦根城単独で制度全体を十分に示せるかを問い続けたのは当然でもある。推薦の成否は、美しい天守の写真より、失われたものと残ったものをどう論理的につなぐかに左右される。
保護されていることと、壊れないことは違う
文化審議会は2026年、構成資産が十分な保護措置を受けていることを推薦理由の一つに挙げた。しかし法的保護が強いことと、物理的リスクがないことは同義ではない。
彦根市が公表している耐震診断では、震度6強以上の地震が発生した場合、天守建物に倒壊のおそれがあり、附櫓・多聞櫓では石垣・建物とも崩落・倒壊のおそれがあるとされる。市は公開動線を変更し、耐震補強設計や避難誘導計画などを進めてきた。
世界遺産登録を目指すことは、「保存が完成した」と宣言することではない。むしろ、価値を証明した後も、地震、火災、気候、観光、周辺景観といったリスクを長期に管理できるかが問われ続ける。
市長の言葉は「内定」より、その後に重い
9月3日の答申を受け、彦根市長田島一成(たじま・いっせい)氏は、市の公式コメントで「今回の答申はゴールではありません」とした。市は1992年以来30年以上、登録を目指してきたが、今回の選定後も政府の正式推薦と国際審査が残ると明記している。
その慎重さは妥当だ。世界遺産の国内推薦はニュースとして大きな節目だが、国際審査では推薦国の自己評価だけでは決まらない。イコモスが比較分析、真正性、完全性、保存管理、価値の説明を再び検証する。
しかも2026年の文化審議会自身が、海外専門家にも分かりやすい記述へ推薦書を修正する必要があるとしている。国内で通じる「大名」「城」「御殿」「家老」といった概念を、海外の専門家が日本史の前提知識なしに理解できる言葉へ変換する作業が残る。
彦根城が世界へ問うのは、江戸時代の「平和」をどう説明するか
彦根市の啓発資料は、江戸時代の長期的な安定を支えたものとして大名による地方統治を位置づける。これは魅力的な物語だが、世界遺産推薦では「江戸時代は平和だった」という一般論だけでは足りない。
問われるのは、なぜその安定に大名統治システムが寄与したと言えるのか。その制度が世界史上どのように独特なのか。そして、その制度を彦根城という一つの場所がどこまで具体的に証明できるのかである。
文化庁が2025年に求めた「大名の定義」「城の範囲」「比較の客観性」は、すべてこの一点へつながる。政治制度は目に見えない。彦根城の推薦は、目に見えない制度を、堀、屋敷跡、御殿、門、石垣、都市配置という物質へ翻訳できるかどうかの挑戦だ。
34年間変わらなかった城と、34年間変わり続けた説明
1992年に暫定一覧表へ載った時から、彦根城の天守が別の場所へ移動したわけではない。堀も石垣も、突然2026年に価値を持ったわけではない。
変わったのは、世界遺産として何を語るのかという説明である。
1990年代には、黄金期の日本城郭建築としての彦根城が前面にあった。そこから姫路城との差別化、江戸政治の研究、発掘調査、城下町の構造分析、イコモスとの事前対話を重ね、2026年には「大名統治システムを物証する地方統治拠点」というストーリーへたどり着いた。
これは世界遺産制度の本質も映している。古いものだから登録されるのではない。美しいから登録されるのでもない。人類の歴史の中で何を代表し、なぜ他では代替できないのかを、世界に通じる比較と言葉で証明しなければならない。
彦根城は、その証明に34年を費やしてきた。
2026年9月3日、日本国内の扉は一つ開いた。次に相手をするのは、日本史を熟知した国内審議会ではない。世界中の遺産を比較してきたイコモスの専門家たちだ。
2028年、彦根城が世界遺産になるかはまだ分からない。ただ、いま初めて、その問いが「いつか」ではなく、具体的な国際審査の日程を伴って語れるところまで来た。
資料・出典
- 文化庁「令和8年度における世界文化遺産の推薦候補に係る文化審議会答申について」 — 2026年9月3日。彦根城を本年度の推薦候補とした一次資料。
- 文化審議会世界文化遺産部会「選定物件・選定理由」 — 大名統治システム、顕著な普遍的価値、残る推薦書修正課題を確認。
- 文化庁「彦根城―徳川期日本の地方統治拠点における大名による統治システムの物証」 — 2026年推薦戦略の公式概要。
- 文化庁「今後の世界文化遺産への推薦に係る文化審議会意見」 — 2025年8月26日。2024年イコモス事前評価の要点と、2025年時点で残った比較分析・定義・遺存状況の課題。
- 彦根市「『彦根城』が世界文化遺産の国内推薦に内定」 — 2026年9月3日。田島一成市長コメント、2026~28年の予定。
- 彦根市「彦根城世界遺産登録に向けた推薦書(案)の提出について」 — 2026年5月25日。滋賀県・彦根市による推薦書案の国内提出。
- UNESCO World Heritage Centre, “Hikone-Jo (castle)” — 1992年10月1日の暫定一覧表記載、当初の評価基準。
- UNESCO World Heritage Centre, Japan — 2026年現在の日本の世界遺産27件、暫定一覧表3件。
- UNESCO World Heritage Centre, “Himeji-jo” — 姫路城の1993年登録、評価基準(i)(iv)、木造城郭建築としての顕著な普遍的価値。
- 彦根市「『表御殿』の調査」 — 井伊直政・直継・直孝、1604年築城開始、1622年ごろの完成、表御殿の成立と250年以上の藩政利用。
- 彦根市「彦根の城下町」 — 第二郭の重臣屋敷、内町・外町、身分・職業による都市配置。
- 彦根市「彦根城内の文化財」 — 特別史跡、三重の堀、城郭平面構造、国宝・重要文化財。
- 彦根市「彦根城の特徴」 — 周辺の古城からの古材利用、大津城天守移築伝承。
- 彦根市「彦根城建造物保存活用計画」 — 1878年の保存命令、宮内省・井伊家・彦根市への管理移行、国宝・特別史跡指定の履歴。
- 彦根市「国宝彦根城天守、附櫓及び多聞櫓に係る耐震診断の結果について」 — 地震時の倒壊・崩落リスクと対策。
- 彦根市「市長・副市長プロフィール」 — 田島一成(たじま・いっせい)市長の氏名・読み・役職を確認。
本稿は2026年9月4日午前6時00分(日本時間)までに確認できた公開資料を照合した。9月3日の文化審議会答申は「彦根城」を世界文化遺産の推薦候補に選定したもので、ユネスコ世界遺産への登録決定でも、日本政府による正式推薦の完了でもない。彦根市が用いる「国内推薦に内定」という表現は市側の説明として扱い、政府の閣議了解・正式推薦は2027年予定と区別した。イコモスの2024年事前評価については、文化庁が2025年に公表した要約に基づき、評価基準(iii)を満たす可能性があるとの助言と、比較分析・定義・単独資産としての説明課題を併記した。大名統治システムの説明は文化庁・彦根市の現行推薦戦略を要約したもので、江戸社会全体に関する無限定な歴史評価として断定していない。大津城天守の移築については彦根市資料にも「伝承」「推測」の幅があるため、確定事実ではなくそのように表現した。
画像の権利: © 2026 Japan.co.jp。AI支援で制作した編集イラストで、無断転載・再利用を禁じる。利用許諾についてはお問い合わせページへ。