小惑星探査機「はやぶさ2」は、壊れたから止まる探査機ではない。2026年8月、長年温存されてきたイオンエンジンBに動作不良が発生した。さらに電源系を詳しく調べると、イオン源へ電流を供給する機能そのものが故障していることが分かった。4台のイオンエンジンのうち、最後まで本格運転を担ってきたBが、そのままでは使えなくなったのである。[1]

それでもJAXAは、拡張ミッションを終わらせていない。イオンエンジンDの「イオン源」と、Bの「中和器」を組み合わせるクロス運転を試験し、推進器として作動できることを確認した。異なるエンジンの生き残った部品を組み合わせ、ひとつの推進システムとして使う。これは初代「はやぶさ」が地球帰還の危機を乗り越えたときにも使った、日本の深宇宙探査を象徴する技術だ。[1][2]

正確な状況: 「最後のイオンエンジンが完全に失われた」という表現は正確ではない。Bのイオン源系統はそのまま使えなくなったが、Bの中和器とDのイオン源を組み合わせたクロス運転は成立している。今後はその構成で軌道制御を続ける。

トリフネ成功の4日後、次の戦いが始まった

7月5日、「はやぶさ2」は小惑星トリフネ(2001 CC21)のフライバイ探査に成功した。探査機は小惑星中心から約744メートル、表面から約400メートルまで接近し、相対速度は秒速5.3キロメートル。太陽系天体のフライバイ探査として過去最小の接近距離を更新し、さらに小惑星フライバイ時のレーザ高度計(LIDAR)による測距にも世界で初めて成功した。[3][4]

成功の余韻は短かった。7月9日には、次の地球スイングバイへ向けてイオンエンジンによる軌道制御を開始した。2031年に最終目標の小惑星1998 KY26へ到達するには、2027年12月の地球スイングバイを成立させる必要がある。そのための速度調整が、トリフネ通過直後から始まった。[1]

2014年12月3日「はやぶさ2」打ち上げ
2026年7月5日トリフネを約744mでフライバイ
2027年12月次の地球スイングバイ予定
2031年1998 KY26へのランデブーを目指す

4台あっても、同じようには老いない

「はやぶさ2」はA、B、C、Dの4台のイオンエンジンを搭載する。イオンエンジンはキセノンをイオン化し、電気的に加速して噴射することで、ごく小さな推力を長時間発生させる電気推進機だ。化学ロケットのように短時間で大きく加速するのではなく、何千時間も少しずつ速度を積み上げる。

そのため寿命が決定的に重要になる。JAXAによれば、拡張ミッションではA、C、Dの3台で中和器電圧が想定より早く上昇し、性能劣化の兆候が現れた。Bは比較的健全だったため温存・集中使用され、2026年6月9日時点で作動時間は8143時間に達していた。4台全体で得た力積は初代「はやぶさ」の実績を約20%上回り、速度増分は2km/s、当初ミッションを100%とした場合のΔVノルマは155%に達した。[5]

しかしBにも2026年春から中和器電圧の上昇が見え始めていた。JAXAはキセノン流量を増やすなどして劣化進行を抑え、6月にはトリフネ到達に必要な最後の長時間運転を完了した。そこから先は、すでに「新品の推進器で次へ向かう」状態ではなかった。残された寿命を管理しながら、必要な軌道修正を積み上げる段階に入っていた。[5]

8月中旬、放電が止まらなくなった

7月9日以降の運転当初、Bは正常に作動していた。だが8月中旬、放電多発事象が発生し、動作不良に陥った。似た現象は2021年と2025年にも発生しており、その際は放電を繰り返すことで不具合が解消した。そこで今回も約1週間、同じ方法を試した。[1]

ところが今回は、8月下旬の運用で状況が違うことが分かった。電源装置のうち、イオン源へ電流を供給する機能そのものが故障していた。単に一時的な放電状態を抜け出せば復帰する問題ではない。JAXAは放電継続による回復を断念し、別の構成を探すことになった。

イオン源と中和器――なぜ二つ必要なのか

イオンエンジンは、正の電荷を持つイオンだけを宇宙へ放出して終わりではない。イオンを高速で噴射する「イオン源」に加え、電子を放出する「中和器」が必要になる。中和器がなければ探査機側に電荷がたまり、安定した推進ができない。

通常は1台のエンジンに付属するイオン源と中和器を一組として使う。しかし電気系統を切り替えられる設計なら、別々のエンジンの生き残った部分を組み合わせることができる。この発想が「クロス運転」だ。

一台のエンジンを直したのではない。Dの“心臓”とBの“肺”に相当する機能をつなぎ直し、推進器として再構成した。

2010年、初代「はやぶさ」が示した道

クロス運転は「はやぶさ2」で初めて試す技術ではない。初代「はやぶさ」は2009年11月4日にイオンエンジン異常を起こし、地球帰還が危ぶまれた。11月19日、JAXAは2台のイオンエンジンの健全部分を組み合わせて推進力を確保した。翌2010年3月には連続運転による軌道制御を完了し、同年6月、カプセルは地球へ帰還した。[2][6]

この経験は、単なる歴史的逸話ではない。「はやぶさ2」は初代の故障経験をもとに信頼性を高めて設計された。だが、深宇宙機を10年以上使い続ければ、設計寿命の外側で新しい故障が起きる。そこで再び、初代の危機対応から生まれた運用思想が必要になった。

今回のクロス運転はどう組んだのか

JAXAは使用可能なイオン源と中和器の組み合わせを複数試験した。その結果、イオンエンジンDのイオン源、イオンエンジンBの中和器、そして故障した電源1のうち中和器Bに関する機能を組み合わせることで、イオンエンジンとして作動できることを確認した。[1]

ここで重要なのは、B全体が生きているわけでも、D全体が生きているわけでもないという点だ。使える構成要素だけを論理的に再結線し、ひとつの推進系として成立させている。宇宙空間では部品交換ができない。冗長性とは「予備機がある」ことだけではなく、残った機能を別の組み合わせに組み替えられることでもある。

なぜ1998 KY26まで行くのか

「はやぶさ2」は本来の使命をすでに達成している。2014年12月3日に打ち上げられ、C型小惑星リュウグウを探査し、表面・地下由来の試料を採取。2020年12月6日、試料カプセルを地球へ届けた。その試料からは鉱物、有機物、アミノ酸、液体の水などが確認され、太陽系初期物質や生命材料の起源を調べる研究が続いている。[7]

カプセル放出後も探査機本体は健全で、イオンエンジン燃料のキセノンも約半分残る見込みだった。JAXAは残燃料で到達できる天体を調べ、354個の候補から工学的成立性と科学価値を評価し、最終的に1998 KY26などへ絞り込んだ。[8]

1998 KY26は直径約11メートル、自転周期は約5分。極端に小さく高速回転する天体で、表面では遠心力が重力を上回る特殊な環境が予想される。これほど小さい天体へ探査機がランデブーすること自体が新しい領域だ。[9]

トリフネは「おまけ」ではなかった

拡張ミッション途中のトリフネ探査も、単なる通過イベントではない。2026年7月5日のフライバイでは4つの科学観測機器でデータを取得し、最接近距離の記録を更新。LIDARによる小惑星フライバイ時のレーザ測距にも世界で初めて成功した。[3][4]

つまり、拡張ミッションは「余った燃料で何かする」段階をすでに超えている。新しい天体を新しい方法で観測し、そのたびに探査機の寿命限界と運用技術の両方を押し広げている。

故障そのものも科学技術の成果になる

JAXAは2014年の打ち上げ以降、イオンエンジンを長時間運転しながら、宇宙空間で進む経年劣化のデータを蓄積してきた。地上では中和器が8万時間を超えて正常に動く試験例がある一方、実機では宇宙環境特有とみられる劣化が現れた。地上試験だけでは完全に再現できない条件があるということだ。[10]

その知見は次世代へ渡されている。JAXAは、劣化原因の推定と地上再現試験を続け、その結果を2028年度打ち上げ予定のDESTINY+向けイオンエンジン設計にも反映していると説明する。[1]

宇宙機の失敗は、成功の反対ではない。故障の場所、進行速度、再現条件、回避策を得られれば、次の探査機の設計余裕になる。「はやぶさ2」は、自分が老いながら、その老い方を次世代に教える探査機になっている。

最大の敵は、推進力の弱さではなく時間

イオンエンジンは推力そのものが小さいため、必要な速度変更を得るには長期間連続運転しなければならない。クロス運転が一度成立しただけで、2031年到達が保証されたわけではない。推進系が必要な期間安定して作動し、2027年12月の地球スイングバイへ正しい軌道を作る必要がある。

さらに、その先には2028年のもう一度の地球スイングバイ、そして2031年の1998 KY26への接近・ランデブーがある。探査機はすでに打ち上げから12年近い。太陽電池、姿勢制御、通信、温度管理、観測機器など、イオンエンジン以外の機器も同じように年月を重ねている。

「直せない」宇宙で、どう生き延びるか

地上の機械なら、壊れた部品を交換すればいい。しかし数億キロ離れた探査機には技術者を送れない。だから深宇宙探査で重要なのは、壊れないことだけではなく、壊れた後にも選択肢を残しておくことである。

初代「はやぶさ」はその思想を極端な形で証明した。「はやぶさ2」はより信頼性を高めて設計されたが、拡張ミッションでは再び同じ本質に向き合っている。ひとつの系統が死んだら、別の系統の一部と組み合わせる。運転条件を変える。軌道計画を調整する。運用チームが探査機の「使い方」そのものを更新する。

2031年に1998 KY26へ本当に到着できるかは、まだ分からない。だが9月28日のJAXA発表が示したのは、少なくとも今この瞬間、「はやぶさ2」はまだ次の一手を持っているということだ。深宇宙探査における寿命とは、部品が壊れない時間ではない。壊れた後もなお、ミッションを続ける方法を見つけられる時間なのである。

出典・参考資料

  1. JAXA はやぶさ2プロジェクト「はやぶさ2拡張ミッションにおけるトリフネフライバイ後のイオンエンジン運転状況」2026年9月28日。
  2. JAXA宇宙科学研究所「『はやぶさ』の軌跡」—2009年11月19日のクロス運転。
  3. JAXA「小惑星探査機『はやぶさ2』、太陽系天体フライバイ探査における最小距離を更新」2026年7月30日。
  4. JAXA「小惑星探査機『はやぶさ2』、世界初の小惑星フライバイ時のレーザ測距に成功」2026年7月30日。
  5. JAXA はやぶさ2プロジェクト「小惑星トリフネに向けたイオンエンジンの最後の運転を完了」2026年6月10日。
  6. JAXA宇宙科学研究所「『はやぶさ』搭載イオンエンジンの連続運転による軌道制御を終了!」2010年3月29日。
  7. JAXA宇宙科学研究所「小惑星探査機『はやぶさ2』」。
  8. JAXA はやぶさ2プロジェクト「『はやぶさ2』の地球帰還後の拡張ミッション」2020年7月31日。
  9. JAXA宇宙科学研究所「はやぶさ2拡張ミッション(はやぶさ2♯)」—1998 KY26の直径・自転周期。
  10. JAXA はやぶさ2プロジェクト「運用状況報告」—イオンエンジンの宇宙環境下での劣化と地上寿命試験。

取材・確認期限:2026年10月4日。クロス運転の成立はJAXAが確認していますが、その構成が2027年地球スイングバイまで必要な期間安定運転できるか、また2031年の1998 KY26到達が可能かは未確定です。