1876年8月21日飛騨三郡が岐阜県へ編入
150年飛騨・美濃合併からの節目
11月27日2026年企画展の終了予定日
無料岐阜県歴史資料館の入館料
取材方法:岐阜県歴史資料館・岐阜県図書館の一次史料と公表記録、自治体の沿革資料、地元報道に基づく文書取材。展示の全資料を現地で実見したものではない。

落としそうになったものは、何だったのか

明治9(1876)年、飛騨国下原村(現在の下呂市)の戸長・加藤市兵衛は、県の所属が変わるという知らせに驚いた。筑摩県がなくなり、飛騨が岐阜県の管轄に移る。大区長の大前久郎に送った手紙には「実ニ持タル物ヲ落シタル心地ニ而拍子抜之様ニ被存候」とある。岐阜県歴史資料館が紹介するこの一通は、政府の統合政策を受け止める地域の人の戸惑いを、150年後の私たちに伝える。県名や境界線の変更は、地図の上では一本の線の移動だ。しかし、その線の下に暮らす人々にとっては、行政への届出、税や学校、道路、遠くの役所との関係を改めて考えさせる出来事だった。今回の企画展が面白いのは、明治政府の制度改革を地元で書かれた文書から読み直す点にある。

1876年8月21日、何が起きたのか

岐阜県が2026年に祝うのは「県の創立150周年」ではなく、厳密には「飛騨・美濃合併150年」である。美濃を中心とする岐阜県は1871年にすでに成立していた。1876年8月21日、筑摩県の廃止に伴い、そこに属していた飛騨の益田郡・大野郡・吉城郡が岐阜県へ移された。ここで現在の県域のおおむねの形が整った。その後も境界変更はあり、県域がその日に完全に固定されたわけではない。岐阜県の公式資料と高山市の歴史年表はいずれも8月21日を転機として記している。「岐阜」という県の名が生まれた時点と、飛騨を含む岐阜県になった時点を分けることが、この歴史の出発点となる。

美濃と飛騨、最初から一つではなかった

日本列島のほぼ中央、太平洋側と日本海側につながる山や川を抱える現在の岐阜県には、古くから美濃国と飛騨国という二つの地域があった。美濃には濃尾平野につながる交通・商業の拠点があり、関や大垣、岐阜などの地域が異なる産業を育ててきた。飛騨は高山を中心とする山間地域で、木材、山岳交通、独自の建築や祭礼文化などに特徴がある。文化や土地利用の違いだけから一つの行政区になることの是非を決められるわけではないが、同じ「岐阜県」という呼び名の内側に異なる生活圏が存在することは重要だ。明治政府の合併は、歴史的に一つだった地域を元に戻す作業ではなく、新たな地方行政の枠組みを作ることだった。

笠松県、高山県、筑摩県――行政区は動き続けた

明治維新後、幕府の直轄地だった美濃と飛騨には新政府による統治が入り、笠松県や高山県などの行政単位が生まれた。1871年の廃藩置県と府県統合で、美濃の旧藩・県は岐阜県へまとめられた一方、高山県は信濃の地域とともに筑摩県に組み込まれた。高山市図書館が収録する当時の略図には、飛騨の高山や古川と、現在の長野県にある松本や飯田などが同じ県の管内として表される。今日の都道府県境を当然のものと思って見ると奇妙に映るが、当時は全国で府県の再編が繰り返されていた。行政改革の中心にいた政府と、県境の変化に直面する現地の感覚は必ずしも一致しなかった。

岩倉具視の通達と大久保利通の引き継ぎ規則

岐阜県歴史資料館は、右大臣・岩倉具視から岐阜県への「飛騨国合併につき右大臣岩倉具視達」を公開している。筑摩県の廃止と飛騨の編入を伝えた行政文書だ。資料館の解説によれば、その翌日には内務卿・大久保利通から引継事務取扱規則が示され、9月には岐阜県令・小崎利準が高山に赴いて筑摩県の事務を引き継いだ。県境の変更は大臣の署名だけで完結しない。記録、会計、行政事務、職員、住民への連絡を実際に移す必要がある。近代国家が地方行政を一体的に運営する試みの具体像は、こうした一見地味な文書に残る。ただし現存文書がすべての住民の感情を代表するわけではなく、統合への反応にも差があったと考えるべきだ。

「拍子抜之様」――史料に残る一人の反応

下原村の戸長・加藤市兵衛の手紙は、合併に驚いたという感情を生々しく記す一方、新しい岐阜県の役人が飛騨に入る際には随行する考えも示している。驚きと実務的な協力は両立していた。重要なのは、この手紙から「飛騨の全住民が合併に反対した」「歓迎した」といった結論を導かないことだ。一人の地方役人が、情報を得た直後にどう受け止めたかが確認できるのである。資料番号は大前家文書A10‐(4)‐14。行政区画の歴史を読むとき、政府の命令文と地方からの手紙の両方を並べれば、国家制度の決定と現場の時間差が見えてくる。これこそ公文書を展示する意味だろう。

地図は、変化を目で追える史料になる

岐阜県図書館は2026年秋、合併150周年に合わせて地図と郷土資料の展示を開催した。同館は約16万点の地図、約18万点の郷土資料を所蔵すると説明し、江戸時代から現代までの地図に17の出来事を関連付けた。過去の130周年展示では、1872年刊「日本府縣略図」と1880年刊「岐阜縣管内地図」を紹介している。前者では飛騨と美濃が別々の行政区に属し、後者には一体となった県域が描かれる。地図は完成した境界を当然のものとして示すが、その成立までの行政手続きや人々の戸惑いは記載されない。だからこそ地図と手紙、通達と県庁文書を合わせて読むことが大切になる。

150年の岐阜は、さらに変化した

1876年以後も岐阜県の姿は変わり続けた。県の沿革資料は明治期の小規模な県境変更を記し、2005年には長野県の山口村が中津川市に編入された。市町村の数も明治以来の統合を重ね、現在は21市19町2村の42市町村となった。県という単位は継続しながら、日々の暮らしを支える自治体の輪郭も動いている。県内には山間部の人口減少や交通、災害対応、製造業の人手不足、観光の成長といった複数の課題が並ぶ。明治政府が行政の効率を求めたことと、現代の自治体再編を同一視することはできないが、地域の違いを尊重しつつ共同の制度をどう運営するかという問いには、共通する部分がある。

岐阜県歴史資料館で見るべきもの

岐阜県歴史資料館の企画展「飛驒・美濃合併150年 岐阜県はいかにして生まれたか」は2026年10月13日から11月27日まで。県庁の明治期行政文書などを通じ、県域成立の経緯と人々の思いを紹介する。会場は岐阜市夕陽ヶ丘4の1階展示ホール、開館は午前9時から午後4時30分、入館無料。原則として土・日曜日、祝日は休館で、11月3日の文化の日のみ例外とされていた。11月9日は月曜日で、通常の開館日程に当たるが、訪問前に臨時休館などを確認してほしい。電話は058-263-6678。展示中のすべての史料や点数を独自に確認したわけではないため、具体的な展示品を断定するときは資料館の紹介と現地の確認を区別する必要がある。

「飛驒」と「飛騨」、表記にも記憶がある

公式展覧会名は「飛驒・美濃合併150年 岐阜県はいかにして生まれたか」で、一般の文章では「飛騨」の表記も広く使われる。文字の違いは別の地域を指すものではない。近世の行政区、明治の府県、今日の観光・文化圏を同じ一語で括ると、時代ごとに変わった統治の形を見落とすことがある。例えば高山県が筑摩県へ入った1871年から、飛騨が岐阜県へ編入される1876年までの約5年間は、現代の感覚と異なる地理的つながりの時代だった。地名の読み方、資料名、旧字の扱いも史料を読むうえで大切になる。150周年の意義は郷土への愛着だけではなく、歴史資料に忠実な言葉で「いつ、何が変わったか」を伝えることにもある。

県境を決めた人、県境の中で暮らした人

150年前の行政改革を美しい統一物語としてのみ語れば、加藤市兵衛の驚きは聞こえなくなる。反対に、当時の戸惑いだけを強調すれば、その後150年間に築かれた制度や文化の交流を見失う。いまの岐阜県は美濃の都市や工場地帯と、飛騨の山村や観光地を同じ行政の下に置いているが、それぞれの地域の歴史が消えたわけではない。今回の展示をきっかけに古い地図へ目を向けると、県境は自然界に最初から引かれていた線ではなく、人間が仕事と暮らしを管理するために決め、何度も修正してきた線だと分かる。そして手紙に残った戸惑いは、その決定が一人ひとりの生活に届いていたことを教えてくれる。

出典と取材方法

岐阜県歴史資料館の一次史料と自治体資料を優先。新聞記事は展覧会の現況確認の補助資料として扱った。1876年の戸長の書簡から地域全体の意見を推定しない。

  1. 岐阜県歴史資料館:企画展「飛驒・美濃合併150年」開催概要(2026年10月2日)
  2. 岐阜県歴史資料館:「筑摩廃県、飛騨国岐阜統轄につき手紙」(1876年、大前家文書)
  3. 岐阜県歴史資料館:「飛騨国合併につき右大臣岩倉具視達」
  4. 岐阜県歴史資料館:資料館・閲覧案内
  5. 岐阜県図書館:飛騨美濃合併150周年記念展示(地図・図書)
  6. 岐阜県:飛騨美濃合併150周年記念式典の概要
  7. 高山市図書館:『筑摩県管内略図』と1870年代の行政沿革
  8. 岐阜県図書館:飛騨美濃合併130周年における歴史地図の紹介
  9. 岐阜新聞:公文書から探る飛騨・美濃合併(2026年11月4日)
  10. 岐阜県図書館:150周年関連資料展示
  11. 国立公文書館アジア歴史資料センター:岐阜県歴史資料館収蔵文書の案内