山の木が電子機器の材料になる日
スギを伐り、丸太を運び、木材として売る。その先に、これまで林業の主役ではなかった選択肢が生まれようとしている。木の細胞壁に含まれるリグニンを取り出して加工し、自動車や電子機器向けの樹脂材料にする。愛媛県南部の鬼北町(きほくちょう)で進む工場計画は、山の資源に新しい値段を付けられるかという挑戦だ。
2026年10月19日、鬼北町でスギ由来の「改質リグニン」を製造する施設の起工式が開かれた。テレビ愛媛は関連設備を含む総事業費を約41億円と報じ、完成を2027年7月ごろと伝えた。11月4日現在、工場は操業しておらず、製品の量産実績もまだない。注目すべきなのは式典そのものより、長年の研究から工業製品の供給へ移る難しい段階に入ったことだ。
鬼北町という場所が選ばれた理由
高知県境に近い鬼北町は山に囲まれ、町域の約8割が森林という。製造現場の立地として森林資源は利点だが、資源があるだけで工場経営が成り立つわけではない。間伐材や低利用木材を安定して集めるためには、所有者、林業事業者、運送会社、加工設備を結び、木材価格と輸送費の変動を吸収する必要がある。
事業紹介によると、計画地は町内の永野市(ながのいち)。製造工場、木材加工、排水処理に加え、太陽光・バイオマスの関連設備が構想されている。地域の森林保全と製造業の新規雇用を同時に実現できるかは、原料の調達量、設備の稼働率、製品の販売先という具体的な数字にかかっている。
改質リグニンとは何か
木材を支える成分は、セルロースとヘミセルロース、そしてリグニンに大別される。リグニンは植物の細胞壁を丈夫にする複雑な高分子で、木材中に相当量含まれる。紙パルプ産業でも知られる物質だが、化学構造のばらつきや加工しにくさから、付加価値の高い材料として使いこなすのは容易でなかった。
森林総合研究所などが開発してきたのが、スギをポリエチレングリコール(PEG)と酸を用いて加熱処理し、リグニンを抽出しながら性質を変える手法である。取り出したPEG改質リグニンは、熱に強く、ほかの樹脂や繊維と組み合わせやすい材料として研究されている。スギ由来であっても、製造物がそのまま木材と同じ性質を持つわけではない。
なぜスギなのか――均質な原料の価値
リグニンはどんな樹木でも同じ分子というわけではない。研究グループは、国産スギのリグニンが比較的均一な構造を持つことに着目した。産業材料には、原料の種類が一定で、品質や加工条件を再現しやすいことが重要になる。大量生産で製品特性を揃えられなければ、顧客企業の品質審査を通るのは難しい。
国内に広く植えられたスギを使う構想には、戦後の造林政策という長い前史がある。木材需要を支える目的で造成された人工林は成熟し、伐採・再造林・担い手の確保が課題になっている。木の成分を材料として売る新しい出口が林業経営に利益をもたらすか、木材の既存用途と競合しないかも考えなければならない。
2014年から続く研究の積み重ね
改質リグニンは、工場計画が発表された年に突然生まれた技術ではない。農林水産省の研究成果記録には、森林総合研究所の山田竜彦氏らによる2014年の低コスト改質技術が残る。内閣府の戦略的イノベーション創造プログラム(SIP)でも、地域のリグニン資源から材料を作り、製品へつなぐ一連の技術が研究された。
2018年には産業技術総合研究所、森林総合研究所などが光岡自動車の実車に改質リグニンを使った複合材料の部品を取り付けて評価を開始した。同じ年、研究者らは木粉の粒径やPEGの分子量などの条件で生成物の性質が変わることを示した。2020年にはリグニン粒子の凝集性を利用したろ過工程の効率化も報告された。工場の前に、材料化学と製造技術の長い試行錯誤がある。
自動車で試し、次は電子機器へ
企業による採用検討も進む。森林総合研究所は2024年、豊田合成との共同研究により、改質リグニンを配合して石油由来原料の一部を代替したプラスチック素材を開発したと発表した。ステアリングなど自動車内外装部品への応用を視野に入れているという。別の研究では、耐熱性と柔軟性を両立する改質リグニン系樹脂も報告されている。
もっとも、試作品の成功と量産品の採用は違う。自動車なら長期耐久性、衝撃への強さ、熱や紫外線への耐性、製造工程での安定性が問われる。電子基板向けなら電気絶縁性や寸法安定性、吸湿性など別の基準も必要だ。半導体基板に使えるとの期待は報じられているが、今回の鬼北町工場から半導体企業へ出荷された実績が確認されたわけではない。
誰が事業を進めるのか
林野庁の事業資料は、株式会社木質素研究所を代表機関とし、株式会社アドバンテック、マナック株式会社、地方独立行政法人大阪産業技術研究所、鬼北町が参加する実証事業を記載している。研究成果を地域で量産できる仕組みに育てるため、産学官が役割を分担する。事業に国のSBIR制度を活用する点は、事業リスクと公共投資の関係を考えるうえでも重要だ。
地域レポートには当初年間1000トン規模の製造ラインを整え、2028年度には2000トンを目指す構想が記されている。ただし、これは計画された能力・目標であり、契約済み販売量や売上高を意味しない。どの事業者が工場の保有・運営責任を負い、収益を配分するのかについては、最新の契約資料による確認が必要だ。
41億円と20億円――何を数えているのか
投資額には資料間の違いがある。10月22日のテレビ愛媛は工場計画の「総事業費」を約41億円と報道した。一方、10月9日付の事業紹介は「製造プラントの事業費」を約20億円と記した。前者が発電、土地造成、周辺施設まで含むのか、あるいは計画変更による増額なのかは、公開資料だけでは確定できない。
二つの数字を合算したり、一方が誤報だと決めつけたりはできない。投資判断に必要なのは、建屋・設備・エネルギー関連設備・土地・開発費を区分した確定予算と、公的助成の比率である。新産業を評価する報道は、期待する性能だけでなく資本費も追わなければならない。
脱炭素の主張は工程全体で検証する
木に由来する原料を使うことは、化石資源の利用を減らす可能性を持つ。しかし、木材を運搬し、薬液で加熱・抽出し、乾燥し、プラスチックと混ぜて成形する工程にはエネルギーと資材が必要だ。植物由来であることだけを根拠に「二酸化炭素排出がゼロ」とは言えない。
改質リグニン製品の気候上の効果を測るには、林業、PEGの製造、工場のエネルギー、製品寿命、使用後の処理まで含むライフサイクル評価が要る。併設を予定するバイオマス発電や太陽光発電も、供給量・運転実績・排出係数を確認したうえで効果を判断すべきだ。原料確保のために森林の持続可能性が損なわれれば、地域再生という目的とも矛盾する。
地域に残る利益と雇用をどう測る
工場が建てば建設需要は生まれる。だが、地域の経済を長く支えるには、安定した雇用、地元への発注、木材の適正な購入価格、技能の継承が必要だ。山林の手入れが進み、所有者が再造林を続けられるだけの収入が生まれるなら、化学工場の価値は敷地の外にも広がる。
逆に、売り先が限られれば稼働率が落ち、原料輸送や維持費が負担となる。地元住民にとっては排水処理、薬品の保管、交通量も重要な問題だ。地域の期待を尊重するからこそ、環境対策と説明責任を含む事業の実像を確かめたい。
次の節目は2027年、しかし勝負はその先
2027年7月ごろの完成予定を迎えても、量産立ち上げと顧客による材料認証には時間がかかる可能性がある。事業紹介には試運転時期の記述もあるが、建設・試験・商業生産の明確な工程表は別途確認したい。完成日の報道だけでは工業材料の市場投入を見届けたことにならない。
鬼北町のスギが電子機器や自動車の部品になる日は来るのか。その答えは、高度な化学研究だけでも、起工式の華やかさだけでも決まらない。山から原料を安定して集め、同じ品質で製造し、顧客が買い続け、地域に利益を残せるか。改質リグニンが示すのは、日本の山村の未来を考えるための、具体的で厳しい試験である。
出典・取材方法
林野庁、森林総合研究所、農林水産省関係資料、地元テレビ局の報道を照合した文書調査。現地取材や事業者への新規インタビューは行っていない。予算、工程、受注、環境効果の未確認点は本文で区別した。
- テレビ愛媛:鬼北町の改質リグニン工場起工式(2026年10月22日)
- 鬼北町の事業経緯・設備構想を伝える現地レポート(2026年10月9日)
- 林野庁:木質バイオマスの新たなマテリアル利用技術開発
- 森林総合研究所:新素材研究拠点の研究紹介
- 農林水産技術会議:石油由来品を上回る改質リグニン系樹脂
- 森林総合研究所:豊田合成との改質リグニン配合樹脂の開発(2024年)
- 森林総合研究所・産総研:光岡自動車の実車搭載試験(2018年)
- 農林水産研究成果:2014年の低コスト改質技術
- 森林総合研究所:製造条件と物性の研究(2018年)
- 森林総合研究所:ろ過効率を高める研究(2020年)
- 林野庁:令和7年度森林・林業白書(2026年公表)
- 鬼北町:改質リグニンの地域講演会案内
