半導体工場の巨大さに比べれば、ジクロロシランの分子はあまりに小さい。化学式はSiH2Cl2。常温・常圧では無色で、燃えやすく、有毒なガスだ。しかし、ウエハー上にシリコン、窒化シリコン、酸化シリコンなどの薄膜を形成する工程では、回路を積み上げるための重要な前駆体になる。その小さな分子に、日中間の産業競争と通商法が一度にのしかかった。
中国商務部は9月7日、2026年第37号公告を公表し、日本原産のジクロロシラン(Dichlorosilane、DCS)について、ダンピングと中国国内産業への実質的損害、その間の因果関係を暫定的に認定した。翌8日から、信越化学工業株式会社には99.2%、デナールシラン株式会社には80.8%、その他の日本企業には99.2%の保証金比率を適用した。
保証金を直接納めるのは日本の輸出企業ではなく、中国の輸入事業者である。中国税関が決める課税価格に保証金比率を掛け、さらに輸入段階の増値税率を反映するのが公告上の計算式だ。輸入者の資金負担は一挙に膨らむ。実務では、輸入者が価格引き下げを求める、注文を中国産へ切り替える、在庫で時間を稼ぐといった対応が考えられるが、各社の実際の契約条件や在庫量は公表されていない。
なぜ「99.2%」になったのか
反ダンピングでいう「ダンピング」は、単に競合品より安く売ることを意味しない。原則として、輸出価格が輸出国での通常の販売価格などから求める「正常価額」を下回るかを比較する。さらに、輸入国の同種製品産業に実質的損害があり、両者に因果関係があることが必要になる。世界貿易機関(WTO)の反ダンピング協定も、この三段階を基本に置く。
中国の初裁文書によると、信越化学は対中輸出取引の数値を回答したものの、売買契約、請求書、運送書類、入金証憑などを提出せず、日本国内販売や費用の必要情報も示さなかった、と中国当局は判断した。その結果、同社のマージン計算には、申請者が提出した情報を含む「入手可能な事実」が使われた。99.2%という数字は、製品価格だけでなく、この手続き上の判断にも大きく左右されている。
デナールシランと関連会社の日本エア・リキード合同会社は回答を提出し、中国当局は両社の生産・販売を一体で検討した。ただし、中国国内の関連会社による再販売価格と費用を裏づける資料が不足したとして、輸出価格の一部に申請者側の情報を用いた。このため80.8%も、すべてが会社提出資料だけから算出された数字ではない。
初裁では、住友精化株式会社について、DCSを化学反応から生産する一貫設備を持たず、他社から購入して充填・販売する事業者だとして、独自のダンピング率を算定しなかった。こうした区分は最終裁定までに争点となり得る。利害関係者は公告から10日以内に書面意見を提出できる。
輸入シェアは低下、それでも価格が争点に
初裁資料には、一見すると単純な「輸入急増」物語に収まらない数字がある。中国当局が採用した第三者業界データでは、日本産DCSの輸入量は2022年の26万5,370キログラムから2023年に減少し、2024年には29万2,750キログラムへ増えた。2025年上期は14万5,820キログラムで、前年同期比0.38%減だった。
中国市場での日本産品シェアも、2022年の79.63%から2023年69.59%、2024年65.64%、2025年上期59.52%へ下がった。なお過半は維持していたが、中国国内産業の生産量と販売量は低い基準から大きく伸び、市場シェアも上昇した。需要自体も2022年の33万3,260キログラムから2024年44万6,000キログラムへ拡大している。
それでも中国当局が損害を認定した中心は価格だった。資料上の日本産輸入価格は、2022年の1キログラム323元から2023年245元、2024年223元、2025年上期220元へ下落した。2022年から2024年の下落率は約31%になる。中国当局は、下流顧客が日本産品の価格を基準に国内メーカーへ値下げを求め、国内販売価格を押し下げたと説明する。国内企業は増産・増販した一方、利益率が低位で、在庫が増えたことなどを実質的損害の根拠に挙げた。
| 中国側資料の指標 | 2022年 | 2024年 | 2025年1~6月 |
|---|---|---|---|
| 中国のDCS需要量 | 333,260 kg | 446,000 kg | 245,000 kg |
| 日本産DCS輸入量 | 265,370 kg | 292,750 kg | 145,820 kg |
| 日本産品の市場シェア | 79.63% | 65.64% | 59.52% |
| 日本産品の輸入価格 | 323元/kg | 223元/kg | 220元/kg |
ただし、ここには重要な留保がある。対象の税則番号28539090にはDCS以外の製品も含まれるため、中国当局自身、税関統計だけでは正確なDCS輸入量を特定できないとした。上の数量と価格は、申請者が示した第三者業界機関のデータを中国当局が暫定的に採用したものだ。日本全体のDCS生産量や各社の中国向け売上比率は公開資料では確認できず、今回の措置による損益影響を精密に計算することはできない。
「作れる」と「量産ラインで使える」の間
DCSは、化学式が同じなら直ちに代替できる一般商品とは言い切れない。半導体用特殊ガスでは、極微量の金属、水分、粒子などの不純物管理、容器の清浄度、ロット間の安定性、配送時の品質保持が歩留まりを左右する。新しい供給者へ切り替える際には、顧客の製造工程で認定を取り直す時間も必要になる。
信越化学は高純度シラン類について、精製、超微量分析、品質管理、容器管理を競争力として掲げている。デナールシランは、デンカと仏エア・リキードが1987年に設立した合弁事業で、長年にわたり日本から電子材料向けシリコン系ガスを供給してきた。今回の措置は価格を変えることはできても、顧客認定や工程ノウハウを一夜で移すことはできない。
一方、中国側も供給能力を積み上げている。調査を申請した唐山三孚電子材料有限公司は、親会社の唐山三孚硅業股份有限公司の電子材料事業を担う。中国商務部は、同社が調査期間中に中国国内同種製品の主要部分を生産していたと認定した。親会社の2026年半期報告は、電子級DCSなどの特殊ガスを安定生産し、規模供給を進めている一方、中国産DCSはなお比較的少ないとの認識を示している。
保証金によって日本産品の輸入コストが上がれば、中国の半導体メーカーには国産品の認定を急ぐ動機が生まれる。短期には輸入者の資金繰りと供給の継続性が問題になり、中期には中国メーカーの採用試験と量産実績が焦点になる。長期的な勝負は、税率よりも、純度、歩留まり、供給安定性を誰が証明できるかで決まる。
通商法の事件と政治環境を分けて見る
調査の手続きは2025年12月8日、唐山三孚電子材料が国内産業を代表して申請したことから始まり、中国商務部が2026年1月7日に立件した。ダンピング調査期間は2024年7月1日から2025年6月30日、損害調査期間は2022年1月1日から2025年6月30日である。通常の調査期限は2027年1月7日までで、特別な事情があれば6カ月延長できると立件公告は定める。
2025年12月8日 唐山三孚電子材料が中国商務部へ調査を申請。
2026年1月7日 中国商務部が日本産DCSの反ダンピング調査を開始。
4月15~16日 中国当局が申請企業を実地調査。
5月26日 日本エア・リキード側が求めた初裁前聴聞を開かないと決定。
9月7日 中国商務部が初裁を公表。
9月8日 会社別保証金の措置を開始。
2027年1月7日まで 通常の最終調査期限。6カ月延長の可能性あり。
WTO協定は、ダンピングと損害の肯定的な予備判断があり、調査中の損害を防ぐ必要がある場合、現金保証や保証状による暫定措置を認めている。通常はできるだけ短くし、原則4カ月を超えない。この制度設計に照らしても、今回の保証金は最終結果ではなく、今後の反論、追加資料、最終裁定を待つ段階にある。
同時に、この案件は日中関係が悪化した局面で進んだ。中国は1月、軍民両用品目の日本向け輸出管理も強化していた。ただし、政治的緊張が存在することと、個別の反ダンピング判断が通商法上妥当かどうかは同じ問いではない。今回の初裁が政治的報復だと断定できる公開証拠はない。一方で、企業が政治環境を供給網リスクとして評価するのは避けられない。
日本企業に残された三つの選択
木原稔(きはら・みのる)内閣官房長官は9月8日の記者会見で、対象企業と緊密に連携し、調査の状況と影響を精査して「事業活動に不当な影響が生じないよう適切に対応」する考えを示した。政府が取り得る対応には、中国の調査手続きで意見を提出すること、二国間協議を行うこと、最終的にWTOルールとの不整合があると判断すれば紛争解決手続きを検討することが含まれる。
企業側には、第一に中国手続きへ追加資料を出し、個別マージンを争う道がある。第二に、輸入者と価格、契約、在庫を調整して顧客供給を維持する道がある。第三に、中国以外の顧客を増やし、一国への依存を下げる道がある。ただし、各社のDCS販売額、中国比率、契約条件は非公表であり、どの選択が中心になるかは現時点で断定できない。
Japan.co.jpの見立てでは、短期のニュースは99.2%という数字だが、長期のニュースは顧客認定の移動である。中国の半導体工場が日本産ガスを使い続けるのか、中国産へ切り替えるのか。日本企業が最終裁定で率を下げられるのか。DCSはチップの中に残る薄膜をつくるが、今回の措置は、日中の半導体供給網そのものに新しい層を一枚加えた。
- ジクロロシラン:化学式SiH2Cl2。日本語では二塩化二水素ケイ素とも呼ばれる。半導体の薄膜形成に使う前駆体ガス。
- ダンピング:輸出価格が、輸出国での通常価格などから求める正常価額を下回る状態。単なる安売りと同義ではない。
- 保証金:最終裁定前に輸入者が税関へ差し入れる暫定的な担保。今回の時点では確定した反ダンピング税ではない。
- 価格抑制:輸入品の価格が国内品の値上げを妨げたり、国内価格を押し下げたりする効果。
- 中華人民共和国商務部「2026年第37号公告」――初裁、対象製品、会社別保証金率、計算方法、意見提出期間。リンク先添付の30ページ初裁文書も精査した。
- 中国商務部報道官「日本産DCS反ダンピング調査の初裁」――中国側の公式説明。
- 中国商務部「2026年第2号公告」――調査開始、調査対象期間、通常の終結期限。
- 日本貿易振興機構(JETRO)「中国、日本原産ジクロロシランに対するAD調査開始」――日本語での品名、調査手続き、対象範囲。
- FNNプライムオンライン「木原官房長官『影響生じないよう対応』」――9月8日の日本政府の反応と会見発言。
- 信越化学工業「高純度シラン」――用途、精製、分析、品質・容器管理に関する公式製品説明。
- Air Liquide「Denal joint venture 30th anniversary」――デンカとの合弁と1987年以来の供給史。
- Gビズインフォ「デナールシラン株式会社」――日本法人の正式名称と法人情報。
- WTO「Agreement on Implementation of Article VI of GATT 1994」――ダンピング、損害、入手可能な事実、暫定措置の国際ルール。
編集方針:中国当局の判断は「中国商務部が初歩的に認定」と帰属させ、最終裁定と区別した。非公表の企業別輸出額、利益影響、在庫、顧客変更は推計していない。政治的動機は断定せず、通商手続きと外交環境を分けて記述した。