現在の関宿に立つと、地理の力が目に見える。利根川と江戸川、広い河川敷、堤防。その景観は、なぜ関東の戦国大名がこの一帯を欲しがったのかを直感的に理解させる。
千葉県立関宿城博物館が10月3日から開催する令和8年度企画展「戦国の関宿―無双之名地―」は、関宿城をめぐる争いを、簗田氏、古河公方、北条氏康、上杉謙信の関係から読み解く。戦国の関宿を理解する鍵は「強い城」だけではない。川を使った交通、舟への課税、政治的権威、北関東へ向かう軍事行動が一カ所へ重なっていたことにある。
「一国を取るにも替え難い」
北条氏康は関宿を「無双之名地」と評し、関宿を手に入れることは一国を取るにも替え難い価値があるとみなした、と博物館は喜連川文書をもとに紹介する。後北条氏が北関東へ勢力を伸ばすうえで、関宿を特別な戦略拠点と見ていたことを象徴する史料である。
簗田氏と古河公方
関宿城は長禄元年(1457)、古河公方足利成氏の有力家臣・簗田成助が水海城から移って築城したと伝えられる。野田市は築城時期に別説があり詳細は不明としながらも、この伝承を紹介している。
簗田氏は古河公方を支える重臣であり、水上交通支配を背景に勢力を強めた。関宿は城郭であると同時に、古河公方政権を支える交通・財政拠点だった。
1558年、「関宿様」が誕生
永禄元年(1558)、古河公方・足利義氏が家臣を連れて関宿城へ入り、「関宿様」と呼ばれた。企画展は、この時期の関宿を軍事・交通だけでなく政治・文化の拠点として捉える。
舟に課税する力
展示には「東国の物流と関宿」という章がある。戦国期の関宿では河川交通が発達し、簗田氏や古河公方は行き交う舟へ課税して経済基盤を強化したとされる。
川は当時の大量輸送路だった。舟の通行を押さえれば、兵糧や商品だけでなく、情報や人の流れも把握できる。物流支配と軍事支配が分かれていなかったのである。
上杉謙信の越山
上杉謙信が関東へ進出すると、関宿の価値はさらに高まった。博物館によれば、謙信は北条氏に対抗するため、関宿城主に復帰した簗田氏の協力を得て新たな公方を擁立し、自身も関東管領として関東支配を進めた。
関宿は越後上杉氏と小田原北条氏の勢力圏がぶつかる重要拠点となった。
1564、1568、1574――三度の関宿合戦
野田市の中世史資料は、後北条氏による関宿城への大きな攻撃を永禄7年(1564)、永禄11年(1568)、天正2年(1574)の三度として整理している。
最後の1574年、簗田晴助らは開城し、水海城へ退いた。関宿城はその後、後北条氏の支城として北関東へ向かう前線基地となった。
1551年の起請文が示す緊張
博物館が紹介する北条氏康から簗田晴助への天文20年(1551)の起請文には、氏康が晴助に対して別心を持たないこと、関宿が難儀した際に見捨てないことを誓う文言がある。
後に敵対する両者が、かつて誓約を交わしていた事実は、後北条氏にとって簗田氏の処遇がいかに難しい政治問題だったかを伝える。
現在の利根川・江戸川分岐を、そのまま戦国時代へ戻してはいけない
ここには重要な地理上の注意がある。現在の関宿は、利根川から江戸川が分かれる地点に見える。しかし16世紀の河道は現在と同じではない。
国土交通省によれば、現在の江戸川の形成は、徳川家康の関東入府後に始まった利根川東遷と深く関係する。文禄3年(1594)から約60年にわたり流路の付替えが進み、現在の利根川・江戸川水系の骨格が形成された。
したがって、「戦国大名が現在と同じ利根川・江戸川分岐点を争った」と表現するのは不正確である。関宿は当時から複数河川と陸路が集中する水陸交通の要衝だったが、今日目にする河道は近世・近代の河川工事を経た景観である。
1590年、徳川の関宿へ
天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めで後北条氏が滅亡し、徳川家康が関東へ入る。関宿には家康の異父弟・松平康元が2万石で入城し、関宿藩が始まった。
江戸幕府はその後も関宿へ譜代大名を配置し、江戸北東部の重要拠点として維持した。
利根川東遷が物流の規模を変えた
1594年から始まる利根川東遷によって、利根川は徐々に東へ流れを変え、江戸川は江戸へ物資を運ぶ重要な水路となった。東北・北関東からの物資が利根川・江戸川を経て江戸へ運ばれるようになり、関宿は近世の物流拠点としてさらに重要性を増した。
1927年、関宿水閘門
近代の関宿では、川は巨大な土木施設によって制御されるようになる。関宿水閘門は1918年着工、1927年完成。利根川から江戸川へ流れる水量を調節し、異なる水位でも船を通すための閘門を備える。
戦国武将が欲しがった「水の要衝」は、近代国家にとっても治水と舟運の要衝だった。
現在の博物館は本丸跡ではない
千葉県立関宿城博物館は1995年11月、利根川と江戸川の分流点近くのスーパー堤防上に開館した。天守部分は古記録をもとに旧城を再現したものだが、実際の本丸跡は博物館の南約500メートルにある。
野田市によれば、本丸、大溝、内堀、三の丸などの配置から、三方を大河に囲まれた防御性の高さを今も読み取れる。
企画展は11月29日まで
令和8年度企画展「戦国の関宿―無双之名地―」は10月3日から11月29日まで。展示は「簗田氏と古河公方」「関宿様の誕生」「東国の物流と関宿」「上杉謙信の越山」「北条氏との戦い―関宿合戦―」「戦国の終焉」などで構成される。
北条氏康像、上杉謙信並二臣像、伝上杉謙信所用の軍配など、県外の所蔵品も集める。一部原品は公開期間が限定される。
城郭史に物流を戻す
戦国史は合戦と武将で語られやすい。しかし軍勢には兵糧が必要で、城には収入が必要で、政治には人と情報が集まる場所が必要だった。
関宿では川がそれを一つにつないだ。舟に課税し、物資を運び、軍を動かし、城を守り、公方の政治拠点にもなる。
地形が変わっても、戦略の論理は見える
現代の関宿には戦国期とは違う河道があり、堤防と水閘門があり、博物館が立つ。それでも展望室から関東平野と大河を見渡せば、なぜここが何世代にもわたり争われ、管理されてきたかは分かる。
関宿合戦は城一つの争奪戦ではなかった。関東の物流と政治のネットワークを誰が握るかという戦いだった。
