見えるものは現実的なのに、世界全体は夢のようだ。
海はどこへ続くのか
海の向こうへ行くのは船だけではない。空には飛行船、海中には潜水艦、岸辺には水着姿の女性。自然の生き物と機械、工場の煙突と人間の身体が、同じ静けさのなかに置かれている。昭和4年(1929年)に古賀春江が描いた《海》には、波の音よりも、近代という時代の不思議なざわめきが満ちている。どこから眺めればよいのか、すぐには決まらない。だから目が離せなくなる。
東京国立近代美術館にある、一枚の福岡の記憶
《海》は油彩・キャンバス、縦130.0センチ、横162.5センチ。東京国立近代美術館が所蔵し、国立美術館の作品記録には1929年の第16回二科展に出品されたこと、1964年度に購入されたことが記されている。福岡の風景をそのまま写した絵ではない。しかし描いたのは福岡県久留米市生まれの画家であり、地方から上京した青年が、世界の新しい視覚表現を自らの言葉に変えた到達点として読むことができる。
古賀春江という名前、本名は亀雄
福岡県立美術館の作家データによれば、古賀春江(こが・はるえ)は1895年、久留米市に生まれた。本名は亀雄(よしお)。「春江」という名前だけで画家を女性と判断してはいけない。県立中学明善校を1912年に中退して上京、太平洋画会に入り、翌1913年に日本水彩画会研究所へ学んだ。やがて水彩から油彩へ取り組みを広げ、1933年、38歳で亡くなった。短い生涯に技法と思想の大きな変化が凝縮されている。
久留米から東京へ、新しい絵画を探して
20世紀前半の日本画壇では、洋画を学ぶこと自体が目的ではなくなりつつあった。遠近法や写実を習得した先に、何を描くべきなのか。ヨーロッパでは立体派や抽象的な表現、シュルレアリスムなどが既存の絵画の常識を揺さぶった。古賀も一つの形式にとどまらず、立体派を思わせる構成、パウル・クレーを連想させる幻想性、夢のような物の組み合わせへと表現を変えた。福岡県立美術館は、その多彩さを「キューブ風、クレー風、シュール風」と整理する。
1922年、前衛グループ「アクション」
古賀の画業の転機に1922年がある。同年、二科賞を受け、前衛美術グループ「アクション」の結成にも加わったと県立美術館は記す。「前衛」は単に奇抜な絵を指す言葉ではない。物の輪郭、空間の組み立て、絵を見る人の常識を、表現の側から問い直す試みだった。東京国立近代美術館が所蔵する《観音》(1921年)や《月花》(1926年)の記録をたどると、《海》だけを見て作家の全貌を判断できないことがわかる。
魚と潜水艦、鳥と飛行船
《海》の魅力は、異なるものがただ雑然と置かれていることではない。空を移動する鳥と飛行船、水中を進む魚と潜水艦。自然がもともと備える能力を、工学が追いかけるようにも見える。工場の煙突と人物像は、ものづくりの時代における人間の位置を考えさせる。こうした対置は画面から読み取れるが、そこに唯一の暗号や政治的寓意が隠されていると証明されたわけではない。読みは開かれている。
現実そっくりなのに、現実ではない
作品中の機械や人体には、見覚えのある形がある。一つ一つの断片は写実的に見えても、互いの大きさ、向き、周囲の空間には不思議なずれがある。観客は「これは何か」を言い当てた瞬間、今度は「なぜここにあるのか」と考え始める。その二段階の驚きが絵を動かす。古賀が近代の技術を礼賛しているのか、不安を描いているのかについては、単純な結論を押し付けない方が作品に誠実だ。
1929年という境界線
《海》が第16回二科展に出された1929年、日本の都市生活は映画、雑誌、広告、交通、電気といった新しいメディアや機械で急速に姿を変えていた。同年秋には世界恐慌が始まる。ただし、この絵を世界恐慌への直接の反応と断定することはできない。作品の制作・出品とニューヨーク株式市場の暴落の前後関係を考えれば、なおさら慎重であるべきだ。未来への期待と技術への戸惑いは、同時代の文化全体に広がっていた。
海の絵は一枚ではない
古賀は同じ1929年に《漁夫》も制作している。福岡県立美術館が所蔵する作品で、第16回二科展への出品歴も確認できる。海をめぐる画題が、同年の創作の中でどのように変化したのかは興味深い研究課題だ。しかし《海》と《漁夫》を、作者が意図した対作品だと断定する根拠は確認できない。実物の画面と制作資料を比べて初めて踏み込める問いが残る。
シュルレアリスムと古賀春江の距離
古賀は日本のシュルレアリスムを語るとき繰り返し取り上げられる。ただ、フランスで生まれた運動の理論と、その作品が日本の画家にどう受け止められたかは同一ではない。キュビスム的な面の分割やクレー的な詩情が混じり合う作風は、単一の「主義」で整理しきれない。画家の歩みを欧州の様式名の一覧に還元せず、異なる表現を自分のものとして組み直した創造の過程に注目したい。
詩を書く画家でもあった
福岡県立美術館の略歴は、古賀が詩作にも非凡だったと記している。物と物を意外な場所で出会わせること、説明しきれない感覚を残すことは、詩にも絵にも通じる。もっとも、特定の詩句を《海》の意味を解く「正解」として引用するには、作品の原典と成立時期の照合が必要だ。本稿では未確認の言葉を作者の発言として飾らない。
没後の評価は、もう一つの物語
古賀は1933年に亡くなった。《海》はその後も展示され、東京国立近代美術館の収蔵品として保存されてきた。所蔵記録は1964年度の購入を示し、戦前・戦後の展覧会歴も列挙する。作品は描かれた瞬間だけで歴史になるわけではない。誰が保存し、どの時代に再発見し、次の世代に何を伝えたか。その積み重ねで、今日の「代表作」という位置づけが生まれる。
福岡の特集に、この絵を選ぶ理由
久留米に生まれた画家が描いたのは、懐かしい郷土画ではなかった。世界を海の向こうまで広げ、機械と人間、自然と人工物を一つの画面で対話させる絵である。産業、科学、文化、移動と交流を扱う福岡特集に《海》を置くのは、そのためだ。これは現代の出来事を予言したという話ではない。百年近く前の想像力が、今も読者に「新しいものとどう共に生きるか」と問いかけるのである。
出典と作品解釈について
東京国立近代美術館、福岡県立美術館の公開作品・作家データによる。図像の意味については筆者の読解を含み、画家本人の意図と断定しない。独自の学芸員取材は行っていない。
