取材時点: 本稿は2026年9月6日午後6時(日本時間)までに確認した主催者、産地組合、自治体、工芸振興機関の公開資料に基づく。来場者数、販売実績、ツアーの催行結果は締め切り時点で公式発表を確認できず、成功を示す数値として扱っていない。

器を比較するには、大壺より豆皿が向いていることがある。手のひらに載る面積に、白磁の色、呉須の線、縁の厚み、釉薬の光、量産の工夫が凝縮されるからだ。

9月4日から6日まで、JR博多シティ9階のJR九州ホールで「三里やきものがたりえき市」が開かれた。主催の一般社団法人九州観光機構によると、有田、三川内(みかわち)、波佐見(はさみ)の窯から、豆皿、そば猪口、ぐい呑みを中心に約1,000種類を集め、展示販売した。入場は無料だった。

「三里」は行政区分でも、歴史上の一つの流派でもない。佐賀県有田町、長崎県佐世保市三川内、長崎県波佐見町という近接する産地を、旅の物語として束ねた現代の名称だ。会場は三地域を一体化するのではなく、並べることで違いを見せようとした。

約1,000種類豆皿、そば猪口、ぐい呑み
3日間9月4日から6日まで
17世紀初頭肥前で磁器生産が始動
3産地有田・三川内・波佐見

駅の9階を「比較の場」にする

会場の核は販売だけではなかった。「伝統と今」を掲げたギャラリーでは、有田から今右衛門窯、柿右衛門窯、源右衛門窯、香蘭社、深川製磁。三川内から置き上げ、平戸菊花飾細工、唐子の作品。波佐見から陶磁器デザインの先駆者、森正洋(もり・まさひろ)の白山陶器作品を紹介した。

三地域を担当したテーブルコーディネーターは、有田が山野舞由未(やまの・まゆみ)、三川内が田中志麻(たなか・しま)、波佐見が荒木眞衣子(あらき・まいこ)。産地ごとの「名品」を台座に置くだけでなく、現代の食卓で何と組み合わせ、どう使うかまで展示の対象にした。

日替わりのクロストークは4日を三川内、5日を波佐見、6日を有田に割り当てた。最終日には十五代酒井田柿右衛門(さかいだ・かきえもん)が登壇。貸切列車「三里やきものがたり号」で産地を訪ねる旅行商品も組まれ、博多駅は展示会場であると同時に、窯場へ送り出す玄関になった。

小さな器で見る三つの系譜
  • 有田:染付、色絵、白磁、輸出磁器から企業窯まで、様式と市場の幅が広い。
  • 三川内:平戸藩御用窯を基盤に、唐子、透かし彫り、置き上げなど精密な手仕事を深めた。
  • 波佐見:くらわんか碗など日用磁器の量産を発達させ、現代は機能とデザインを前面に出す。

ただし、この三行は入口にすぎない。有田にも日用品があり、三川内にも民窯があり、波佐見にも高度な手仕事がある。販売イベントのキャッチコピーを産地全体の定義にしてしまえば、複雑な分業と交流が消える。

共通する出発点――肥前と朝鮮陶工

三産地の歴史は、いずれも16世紀末から17世紀初頭の肥前窯業圏に重なる。豊臣秀吉の朝鮮出兵、文禄・慶長の役に伴い、各大名は朝鮮半島から陶工を連れて帰った。日本の公式資料がしばしば用いる「連れて帰る」という表現の背後には、戦争と権力のもとでの移動がある。技術移転を美しい交流譚だけで語ることはできない。

有田観光協会によると、17世紀初頭、朝鮮人陶工の初代金ヶ江三兵衛、通称・李参平(り・さんぺい)らが泉山で陶石を見いだし、有田で磁器生産が始まった。初期の製品は伊万里港から積み出されたため「伊万里焼」とも呼ばれた。現在の「有田焼」という産地名を、そのまま江戸初期の流通名へ投影してはいけない。

三川内焼の公式史は、平戸藩主・松浦鎮信(まつら・しげのぶ)が1598年の帰国時に朝鮮陶工約100人を連れ帰り、巨関(こせき)が平戸の中野村で窯を開いた流れを記す。もう一つの系譜として、朝鮮半島にルーツを持つ高麗媼(こうらいばば)らが唐津方面から三川内へ移った。複数の人と窯場の移動が、産地の基礎を作った。

波佐見も大村藩のもとで朝鮮陶工の技術を受け、当初の施釉陶器から、陶石の発見を経て染付や青磁の磁器生産へ移った。三つの里は孤立した発明地ではない。人、原料、絵具、薪、窯、商人が旧国境の内外を動く地域産業圏だった。

有田――「IMARI」が海を渡る

有田では1610年代から1650年ごろまでの磁器を「初期伊万里」と呼ぶ。初めは厚手の素地に藍色の染付が主流だった。染付とは、呉須で釉薬の下に文様を描く技法。1640年代には釉薬の上に赤、黄、緑などを焼き付ける色絵が始まり、表現の幅が急速に広がった。

1650年代からオランダ東インド会社、VOCが有田磁器を東南アジアや欧州へ輸出した。欧州では積出港の名から「IMARI」と認識され、柿右衛門様式はドイツのマイセンやフランスのシャンティイでも模倣された。有田は一つの意匠ではなく、染付、柿右衛門、金襴手、鍋島、近代の企業窯までが折り重なる巨大なブランドになった。

えき市が今右衛門、柿右衛門、源右衛門に加え、明治期以降を代表する香蘭社と深川製磁を並べたのは重要だ。「400年」を江戸で凍結せず、藩による統制が解け、西洋化学や輸出市場、会社組織へ対応した近代まで見せる構成だった。

三川内――採算を超えた技巧

三川内では1633年に今村三之丞(いまむら・さんのじょう)が針尾島で網代陶石を発見し、平戸藩が1637年に御用窯を開いた。1650年には主要陶工を三川内山へ移し、体制を整えた。1660年代には天草陶石との配合に成功し、磁器生産が本格化した。

藩の庇護を受けた御用窯では、献上品などに良質の原料と時間を投じることができた。唐子は中国風の服装をした子どもが松の下で遊ぶ吉祥文。透かし彫りは器面をくり抜いて文様を作り、置き上げは器と同じ土を水に溶いたものを筆で何度も盛って浮彫のような面を作る。菊花飾細工は花びらを一枚ずつへらで切り起こす。

「超絶技巧」は便利な称賛語だが、技法を手品にしてしまう危険もある。細い線には筆の選択と反復があり、薄い器には成形と焼成の損失がある。三川内の価値は、驚くほど細かいという結果だけでなく、採算と時間をめぐる歴史的な条件が技術を育てた点にある。

波佐見――磁器を日常へ降ろす

波佐見が発達させたのは、質を捨てた廉価品ではなく、分業と量産で良質な磁器を多くの人へ届ける仕組みだった。巨大な連房式登窯を用い、江戸後期には染付の日用食器を大規模に生産したと、伝統的工芸品産業振興協会は説明する。

代表例の「くらわんか碗」は、淀川を行き来する三十石船で「飯くらわんか、酒くらわんか」と食事を売る際にも使われた丈夫な碗である。波佐見町は、この器を介した歴史をもとに1999年、枚方市と市民交流都市宣言を結んだ。コンプラ瓶は醤油や酒を入れ、長崎の出島から海外へ運ばれた。

現代の波佐見焼が機能的で簡潔なデザインを強く打ち出すのは、突然の路線変更ではない。食卓の道具を広く届けるという長い産業思想の更新と読める。会場で森正洋の白山陶器を「今」ではなく産地の歴史の中に置いたことは、工業デザインも伝統の一部になり得ると示した。

三つの里を分けるのは、華麗・技巧・日常という三語だけではない。誰のために、どれほどの時間をかけ、どの流通へ載せるか。その選択が器の形になった。

「約1,000種類」が語らないもの

選択肢の多さは来場者を引き付ける。しかし「約1,000種類」は、参加窯元数でも、販売点数でも、生産規模でもない。主催者が数えた商品種類の概数である。本稿は、それを三産地の勢力比較には用いない。

また、同じテーブルへ並ぶことで共通性が強調される一方、原料調達、成形、絵付け、焼成、販売を担う事業者の条件は違う。磁器の「産地」は単独作家の集合ではなく、陶土会社、型屋、生地屋、上絵屋、窯元、商社、販売店が連なる生態系でもある。消費者が裏印だけを見ると、その分業は見えにくい。

だからこそ、小さな豆皿を入口に、産地へ足を運ぶ仕組みには意味がある。貸切列車やバスツアーは物販の付録ではなく、器を作る土地、窯跡、資料館、工房へ視線を戻す装置になり得る。ただし、イベント後の来訪や購買が職人の継承へどう結び付いたかは、将来の検証が必要だ。

並べることは、違いを守れるか

地域ブランドの連携は、発信力を高める。海外の来訪者にも「肥前磁器」という大きな入口を示せる。一方で、売りやすい三つの人格へ単純化すれば、有田は豪華、三川内は細密、波佐見はモダンという固定観念を再生産する。

えき市で最も有効だったのは、約1,000種類という物量そのものより、隣り合わせに置いたことだ。白さは同じ白ではなく、青は同じ青ではない。縁の薄さ、絵の余白、手に持った重さ、価格、用途が問いを生む。比較は優劣を決めるためではなく、歴史の選択を見つけるためにある。

博多駅は三日間だけ、巨大な食器棚になった。そこから見えたのは、一つの「九州の焼き物」ではない。戦争に伴う人の移動、藩の保護、海上交易、庶民の食卓、近代企業、デザイン運動が、それぞれ異なる比率で焼き固められた三つの産業史だった。豆皿一枚は小さい。だが、どの里の、誰の仕事を、どんな未来へつなぐのかという問いを載せるには十分な大きさである。

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