磁性体の表面から一個の原子が飛び出す。その瞬間に電子が渡れば、電子の磁気的な性質である「スピン」も原子へ移るのか。触媒表面でスピンが化学反応に影響する可能性は議論されてきたが、固体と気体の境界をまたぐ移行を実験で読むことは難しかった。
横浜国立大学大学院工学研究院の浅川寛太(あさかわ・かんた)助教、東京農工大学大学院工学府の田邊直樹(たなべ・なおき)氏(研究当時)、同大学大学院工学研究院化学物理工学部門の畠山温(はたけやま・あつし)教授、千葉大学大学院理学研究院の二木かおり(にき・かおり)准教授と大学院生らの研究チームは、脱離した原子のスピン偏極を光で測る手法を開発した。
実験では、磁化したコバルト(Co)の薄膜へルビジウム(Rb)原子を吸着させ、紫外光パルスで脱離させた。コバルトの磁化方向を反転すると、飛び出したルビジウム原子のスピン偏極も反転した。コバルトを載せていない酸化マグネシウム基板では、同じ偏りは実験誤差の範囲に収まった。
触媒表面の「受け渡し」を切り出す
磁性体やキラル分子が持つスピンを利用し、水の電気分解やアンモニア生成を促す「スピン触媒」が注目されている。仕組みの候補の一つが、触媒表面から反応物へ電子とともにスピンが渡る過程だ。しかし実際の触媒反応では、吸着、結合形成、熱、溶媒、複数の中間体が重なる。スピン移行だけを取り出して観察しにくい。
研究チームは、面心立方構造のコバルト(110)表面へルビジウムを吸着させる単純化した系を選んだ。ルビジウムは吸着時に最外殻の5s電子をコバルトへ渡す。紫外光がコバルト側の電子を励起し、その電子がルビジウムへ戻れば、原子は中性化して表面を離れるという仮説を立てた。
戻る電子がスピン偏極していれば、脱離後のルビジウム原子にも偏りが残るはずだ。研究の核心は、表面上の短い電子移動を直接の時間分解画像にすることではなく、飛び出した原子を「読み出し媒体」として利用した点にある。
右回りと左回りの光で読む
酸化マグネシウムMgO(110)基板へ厚さ10ナノメートルのコバルト薄膜を成長させ、磁化した。超高真空中、室温でルビジウムを吸着させ、波長355ナノメートルの紫外光をパルス照射した。脱離速度が時間とともに低下したことなどから、単純な加熱ではなく電子遷移を伴う非熱的脱離と判断した。
試料の1ミリメートル上を、ルビジウム85の共鳴周波数に合わせたプローブ光が通る。気体となった原子が光を吸収するため、脱離量と速度を測れる。さらにプローブ光を右回り円偏光と左回り円偏光へ交互に切り替え、吸収強度の比からスピン偏極を求めた。
平均磁気量子数は、磁化とプローブ光が反平行の条件でマイナス0.024±0.003、平行の条件でプラス0.024±0.004だった。値は大きくないが、別試料でも再現し、磁化を反転すると符号が変わった。漏れ磁場によるゼーマン分裂はドップラー幅よりはるかに小さく、観測結果を説明できないと評価した。
観測した事実と、計算が示す機構
実験が直接示したのは、コバルト表面を離れたルビジウム原子がスピン偏極し、その向きがコバルト薄膜の磁化方向に連動したことだ。第一原理電子状態計算は、その理由を探るために使われた。
計算では、紫外光で励起されたコバルト3d電子が吸着ルビジウムへ移り、原子を中性化して脱離させる経路を提案した。予測したスピンの向きは実験と一致した。一方、論文は、脱離中の電子とスピンの動力学はなお推測を含み、別の機構を排除できないと明記する。波長を変えた系統的な測定が次の課題だ。
測定対象は、ルビジウム85の基底状態のうちF=3にある原子だけで、F=2の偏極は分かっていない。装置上の制約から脱離測定と同時にX線光電子分光を行えず、多層吸着したルビジウムが信号を薄めた可能性も残る。上層の原子はコバルトから電子を直接受け取らないためだ。
| 主要機関 | 横浜国立大学、東京農工大学、千葉大学 |
|---|---|
| 表面系 | MgO(110)基板上の10ナノメートル厚fcc-Co(110)薄膜にRbを吸着 |
| 脱離条件 | 超高真空・室温、波長355ナノメートルのパルス紫外光 |
| 検出法 | 左右の円偏光による共鳴吸収の差から脱離Rb原子のスピン偏極を評価 |
| 主要な対照 | Coの磁化反転で信号も反転。CoのないMgO基板では誤差範囲 |
| 論文名 | “Light-induced spin-polarized desorption of Rb atoms from Co surfaces” |
| 掲載誌 | Physical Review B 114, L111412、2026年8月24日掲載 |
| DOI | 10.1103/56hb-jcdl |
新しい測定法であり、触媒そのものではない
東京農工大学などは、固体表面から吸着原子へのスピン移行を観測した初めての例と位置づける。この「初めて」は研究機関と論文著者の評価であり、本稿が関連分野の全論文を独立調査して優先権を確定したものではない。
成果の直接的な価値は、光で検出できる脱離原子を使い、固体表面と吸着物の間のスピン移行を測れるようにした点にある。磁性体、吸着原子、照射波長、被覆率を変えれば、どの条件でスピンが保たれ、どこで緩和するかを比較できる。
ただし、光学検出できる原子に対象が限られる。コバルトとルビジウムは基礎機構を調べるモデルであり、実際の触媒反応物ではない。スピン移行が触媒の反応速度、選択性、消費エネルギー、耐久性を改善するかは、反応系を用いた別の実験で結び付ける必要がある。
次に必要な検証
- 脱離中の電子移行とスピン緩和の時間分解測定
- 紫外光の波長とルビジウム被覆率を変えた比較
- 未測定のルビジウム85・F=2状態の偏極
- 光学検出できる他の原子と磁性体表面への展開
- スピン移行と実際の触媒性能を結ぶ実験
今回の研究は、スピン移行で触媒が速くなると証明したわけではない。より手前にある基礎過程、すなわち磁性体から飛び出した原子へスピン情報が渡り、原子が表面を離れた後にも読み取れることを示した。この測定の積み重ねが、スピン触媒という構想を検証可能な科学へ近づける。
- 東京農工大学「固体表面から吸着原子へのスピン移行を初めて観測」(共同発表、参加機関、研究概要)
- 3大学共同プレスリリースPDF(実験法、用語、研究費、論文情報)
- 横浜国立大学の共同発表(所属、研究者名、研究概要)
- 千葉大学の共同発表(研究グループ、用語、論文情報)
- Physical Review B原論文(著者、所属、実験条件、結果、限界、DOI、英語)
本稿は2026年8月30日までに公開された横浜国立大学、東京農工大学、千葉大学の共同資料、公式研究者情報、Physical Review B原論文を照合した。主要研究者の氏名、読み、役職、所属は各大学の公式情報で照合し、田邊氏を含む論文著者の英字表記は原論文と共同発表の論文情報に従った。専門用語は日本語一次資料で確認した。「初めて」とスピン触媒への期待は研究機関・著者の評価として扱い、計算で提案された機構と直接測定された結果を区別した。直接引用は使用していない。