冬の夜、海から帰った黒い海鳥が、伊豆諸島の無人島へ降りる。地中の巣穴では一つの卵が待つ。鳥は尾羽の付け根にある尾腺から脂を取り、くちばしで羽へ塗り広げる。その分泌物は、防水のための単なるワックスではなかった。繁殖の進行に合わせて、化学組成が動いていた。

東京農工大学と日本野鳥の会の研究グループは、オーストンウミツバメの成鳥66羽を2023~2025年に調べ、尾腺分泌物が繁殖段階ごとに有意に変化すると報告した。雄では52化合物、雌では18化合物が、少なくとも二つの段階の間で有意差を示した。雄の変化は特に繁殖初期から抱卵期にかけて大きかった。

一方、雌雄に共通する一本の線も見えた。脂肪族アルコールの1-ヘキサデカノールが、抱卵期から育雛期にかけて増え、育雛期に最も高くなった。抗菌作用や匂いによる隠蔽との関係が考えられる物質だが、この鳥でその機能を実験したわけではない。研究が示したのは「季節で化学組成が変わる」ことまでで、「匂いで配偶者を選ぶ」「ヒナを守る」といった働きは、これから検証する仮説である。

結論を先に: 研究は尾腺分泌物の季節変化と雌雄差を測定した。匂いを嗅ぐ行動実験、配偶者認識、捕食回避、抗菌力、親からヒナへの物質移行は調べていない。「繁殖コミュニケーションに使う可能性」は、生態と先行研究から導かれた説明であり、今回の直接証拠ではない。
66羽2023~2025年に祇苗島で分泌物と体羽を採取した成鳥
91化合物査読論文で尾腺分泌物から推定同定された化学成分
52対18繁殖段階間で有意差を示した化合物数。雄52、雌18

一羽一羽から、ガラス管で一滴

調査地は、神津島の東にある祇苗島(ただなえじま)。二つの島と岩礁からなる無人島で、国内最大の繁殖地として知られる。オーストンウミツバメは11月ごろ島へ戻って巣穴を補修し、1月上旬から中旬に一卵を産む。3月に孵化し、5月上旬から巣立ちが始まる。

研究チームは11月を繁殖初期、1月を抱卵期、3月を育雛期、4~5月を繁殖後期と定義した。調査は2023年3月、5月、11月、2024年1月と4月、2025年1月と4月に実施された。環境省などの許可を得て、標識調査の資格者が飛翔経路に張ったかすみ網などで成鳥を捕獲した。

尾羽を覆う羽毛を持ち上げ、尾腺の開口部から分泌物を細いガラス毛細管で採った。同時に腹部の体羽を数枚採取し、DNAを抽出した。外見だけでは信頼できる雌雄判別法がないため、二組の性特異的プライマーを用いたPCRの結果が一致した個体だけを雌雄解析に使った。採取後の鳥は速やかに放された。

ただし、捕獲した個体が実際に抱卵中か、育雛中かを巣穴で確かめたわけではない。繁殖期の攪乱を避ける必要があり、抱卵斑だけでは繁殖個体と断定できないからだ。各個体の段階は、祇苗島で知られる季節日程と捕獲月に基づく分類である。

四つの季節区分

  • 繁殖初期・11月:帰島し、巣穴を補修する時期。
  • 抱卵期・1月:一つの卵を産み、雌雄が交代で温める時期。
  • 育雛期・3月:孵化後、両親が海へ採餌に出る時期。
  • 繁殖後期・4~5月:ヒナの成長と巣立ちへ向かう時期。

羽のワックスを九つの化学群へ

分泌物は溶媒に保存され、ガスクロマトグラフィー質量分析法(GC–MS)にかけられた。混合物を加熱し、成分がカラムを通過する時間と質量スペクトルを照合して化合物を推定する。論文は91成分を推定同定し、芳香族化合物、脂肪酸、脂肪族アルコール、炭化水素、脂質エステル、含窒素代謝物、有機硫黄誘導体、テルペノイド、その他・不明の九群に整理した。

相対的な量で最も大きかったのは炭化水素の39.9%。脂質エステルが26.0%、脂肪族アルコールが16.7%と続く。個別成分では、オクタン酸オクタデシルが最も優勢だった。炭素数8の飽和脂肪酸と炭素数18の脂肪族アルコールからなるエステルで、北太平洋のミツユビカモメなど別の海鳥でも主要成分として報告されている。

重要なのは、単純な「雄の匂い」「雌の匂い」という二分ではない。雌雄だけの主効果は統計的に有意でなかった一方、繁殖段階の効果と、性別によって季節変化が異なる交互作用は有意だった。雄では繁殖後期から次の繁殖初期、さらに繁殖初期から抱卵期へ移る際に多くの成分が上下した。雌の季節パターンは比較的弱く、一定方向の変化を示さなかった。

観察項目測定された結果考えられる説明まだ言えないこと
全体組成繁殖段階で有意に変化内分泌、餌、行動、細菌叢の影響どの要因が変化を起こしたか
52成分が段階間で有意差繁殖初期の個体識別・社会的信号雌が雄の匂いを選好するか
18成分が有意差、方向性は弱い雌雄で行動・代謝・ホルモンが異なる可能性性差の生理的原因
1-ヘキサデカノール雌雄とも育雛期に最高抗菌、防御、匂いの隠蔽羽毛やヒナへ移り機能したか

育雛期に上がった一本のアルコール

1-ヘキサデカノールは、セチルアルコールとも呼ばれる炭素数16の直鎖脂肪族アルコールである。研究チームは真正標準品を使ってこの成分を定量し、雄雌とも抱卵期から育雛期に有意に増え、育雛期から繁殖後期に減ることを確認した。全体を相対比で比較した分析の中で、この一成分には個別の定量が加えられた。

先行研究では、炭素数10~18の直鎖アルコールが繁殖期の鳥で増える例があり、広い抗菌作用を持つことや植物の葉にも存在することが報告されている。羽毛上の微生物を抑える、周囲の植物臭に近づけて存在を目立たなくする、といった機能が提案されてきた。

祇苗島では、嗅覚が発達した捕食者シマヘビが春に冬眠から出る時期と、ウミツバメの孵化期が重なる。両親が採餌に出ると、ヒナは巣穴に残る。そこで研究者は、育雛期の1-ヘキサデカノール増加が抗菌防御や嗅覚的なカムフラージュに関わる可能性を議論した。

しかし、成鳥の尾腺から採った成分が羽へ移り、さらにヒナへ届いたかは調べていない。シマヘビがその匂いを避けるか、菌の増殖が抑えられるかも試験していない。季節が一致することは興味深いが、機能の証明には親子関係が分かる個体の羽毛、巣内の化学環境、微生物、捕食者の行動を結ぶ必要がある。

育雛期に増えた物質は、防御の候補になった。だが「候補」と「機能」の間には、羽への移行、ヒナへの移行、菌や捕食者の反応という三つの未検証の橋がある。

「鳥は匂いに鈍い」からの転換

鳥の嗅覚は長く過小評価されてきた。だが、ミズナギドリ目は鳥類の中でも嗅球が発達し、海面の餌場、遠い繁殖島、暗い巣穴、つがい相手を匂いで見分ける研究が積み上がった。植物プランクトンに由来する硫化ジメチルへの感受性は海上での採餌や航法と結びつき、嗅覚を妨げたミズナギドリでは帰巣能力が低下した。

2004年には、南極の海鳥がつがい相手に特有の匂いを識別する証拠が報告された。2020年のコシジロウミツバメ研究では、羽毛の周囲から多数の揮発性化合物が検出され、個体ごとの化学プロファイルが年をまたいで一定であることから、個体識別に使われる可能性が示された。

今回の研究は、この「匂いを使う行動」と「匂いの原料になり得る尾腺分泌物」の間を埋めようとする。寺嶋太輝(てらじま・たいき)氏は東京農工大学大学院在学中の2023年、日本鳥学会大会でオーストンウミツバメとオオミズナギドリの尾腺分泌物を比較した予備研究を発表し、ポスター賞を受けた。2026年の論文は、単なる種間比較から、同じ種の繁殖期を追う時系列へ進んだ。

2004年 ミズナギドリ目の海鳥で、つがい相手に特有の匂いを識別する証拠が報告される。

2020年 コシジロウミツバメの羽毛臭に、個体ごとに持続する化学プロファイルが見つかる。

2023年 寺嶋氏が日本産2種の尾腺分泌物の予備的な定性比較を発表。

2026年 オーストンウミツバメで、繁殖段階と性別に応じた季節変化を初めて体系的に記述。

最大繁殖地で進む、別の変化

化学研究の舞台となった祇苗島は、同時に保全の最前線でもある。オーストンウミツバメは日本とハワイ諸島で繁殖する。環境省は2026年3月の第5次レッドリストで、国内評価を従来の準絶滅危惧(NT)から絶滅危惧IB類(EN)へ引き上げた。

環境省のデータベースによると、祇苗島の推定巣穴数は2014年の6万8120から2024年の3万1720へ減った。10年間で半分を超える減少に相当し、原因は分かっていない。伊豆諸島鳥島ではクマネズミによる成鳥と卵の食害で繁殖数が激減し、小笠原諸島の繁殖地は小規模なため、大型ネズミ類の侵入に弱い。

尾腺は環境汚染の記録媒体にもなる。東京農工大学と日本野鳥の会は2025年、祇苗島のオーストンウミツバメの尾腺ワックスからPCB、DDE、プラスチック添加剤の紫外線吸収剤を検出した。今回の研究はそれら汚染物質を測ったものではないが、同じ小さな腺が羽毛維持、匂い、生理、外洋で受けた化学曝露を結ぶ窓になっている。

季節変化を知ることは、汚染監視にも意味を持つ。自然に変わる成分組成を無視すれば、採取月の違いを汚染差と誤認する可能性がある。ただし、今回のデータから保全対策の効果や個体群減少の原因を説明することはできない。匂いの研究と個体数の危機は、同じ島で交わる別々の問いである。

Japan.co.jp検証:この論文が証明していないこと

  1. 雄の匂いが配偶者選択を左右すること。
  2. 1-ヘキサデカノールがヒナへ移り、菌や捕食者から守ること。
  3. 餌、ホルモン、細菌叢のどれが季節変化を起こしたか。
  4. 同じ個体の匂いが繁殖期を通じてどう変わったか。
  5. 祇苗島の巣穴数減少と尾腺化学に因果関係があること。

次は「匂いを測る」から「誰がどう使うか」へ

今回の分析は、少量の分泌物しか得られないため、ほとんどの成分を絶対濃度ではなく相対量で比較した。調査年と繁殖段階ごとの個体数は均等でなく、標本数の制約から年による違いを統計モデルへ入れられなかった。同じ個体を四段階で追跡した縦断研究でもない。季節差に見える一部が、年差や個体差を含む可能性は残る。

次の研究では、尾腺、羽毛、巣材、ヒナの化学組成を同じ親子で追う必要がある。餌の脂質、血中ホルモン、尾腺や羽毛の細菌叢も測れば、変化を作る要因を切り分けられる。さらに、Y字迷路や巣穴選択のような行動試験で、鳥が特定の成分や混合臭を識別し、接近または回避するかを確かめる。

化学通信が成立するには、匂いを作る側だけでなく、受け取る側の行動が必要だ。季節変化を示すクロマトグラムは「信号の候補」を映すが、それが情報として読まれているかまでは映さない。それでも、視覚が使いにくい夜の繁殖島で、雄の化学プロファイルが繁殖初期に大きく動く事実は、検証に値する明確な仮説を生んだ。

オーストンウミツバメが羽にまとうものは、防水剤、抗菌剤、個体の名札、繁殖の合図、そのいずれか一つとは限らない。尾腺分泌物には複数の機能が重なり得る。今回得られたのは答えというより、匂いの暦である。11月から5月までのどこで化学が変わるかを示し、暗闇のコミュニケーションを実験で問うための座標を置いた。

出典・資料

  1. Terajima, T., Yamamoto, Y. & Nagaoka, K., “Seasonal variation in preen gland secretions of Tristram’s Storm Petrel (Hydrobates tristrami)”, Ibis, 2026年8月14日(査読論文。方法、統計、化学組成、解釈、限界の主要資料)
  2. 東京農工大学「海鳥オーストンウミツバメの尾腺分泌物の季節変化を解明」、2026年8月31日(日本語。正式名称、氏名、所属、用語、研究概要)
  3. 環境省「オーストンウミツバメ:第5次レッドリスト・レッドデータブック」(絶滅危惧IB類への評価、生活史、繁殖地、巣穴数推移、脅威)
  4. 東京農工大学・日本野鳥の会「伊豆諸島で繁殖する海鳥オーストンウミツバメにプラスチック由来の化学物質の蓄積が明らかに」、2025年6月25日(尾腺ワックスと環境汚染研究の背景)
  5. Jennings, S.L. & Ebeler, S.E., “Individual Chemical Profiles in the Leach’s Storm-Petrel”, Journal of Chemical Ecology, 2020年(ウミツバメの羽毛臭と個体別化学プロファイル)
  6. Bonadonna, F. & Nevitt, G.A., “Partner-specific odor recognition in an Antarctic seabird”, Science, 2004年(ミズナギドリ目のつがい相手に特有な匂い認識の先行研究)

取材・検証は2026年9月1日午後9時30分(日本時間)までに確認できた資料に基づく。和名、学名、日本語の氏名・読み、役職、所属、専門用語は東京農工大学と環境省の一次資料で照合した。査読論文の測定結果、研究者が提示した仮説、Japan.co.jpの分析を区別し、嗅覚コミュニケーション、抗菌、防御、ヒナへの移行を実証済みとする表現は除外した。

画像の権利:© 2026 Japan.co.jp。このAI支援の編集イラストは、事前の書面による許諾なく転載・再利用できません。利用許諾はお問い合わせページからご連絡ください。