顕微鏡で形を見ることと、分光器で物質の状態を調べることは、長い間、別々の仕事になりがちだった。画像は「どこにあるか」を示し、スペクトルは「何ででき、どのような化学状態にあるか」を教える。両方を細かく測ろうとすると、試料や光を少しずつ走査し、多数の測定結果を後から組み合わせる必要がある。しかし、フェムト秒で変化する現象や、一度の照射で状態が変わる試料は、測定が終わるまで同じ姿で待ってはくれない。
「場所ごとの指紋」を一度に読む
開発した装置の正式な呼称は「フェムト秒軟X線ハイパースペクトル顕微鏡」である。ハイパースペクトル画像は、通常の写真のような二次元の位置情報に、各位置で得られるスペクトルを重ねたデータである。軟X線の吸収は元素や化学結合の状態によって変わるため、明暗だけでは区別しにくい成分や化学状態を、位置と結び付けて調べられる。
研究グループを構成するのは、東京大学物性研究所の竹尾陽子助教と木村隆志准教授、東京大学先端科学技術研究センターの江川悟助教、理化学研究所放射光科学研究センターの矢橋牧名グループディレクターらである。論文は2026年8月20日付で光学分野の査読誌『Optica』に掲載された。
英語の「single shot」は、カメラのシャッターを一度だけ切る感覚に近い。ただし、装置が一本の動画として時間変化を連続撮影したという意味ではない。一つの超短パルスが通過した瞬間について、複数位置のスペクトルを同時に記録した、という成果である。
二つの光学技術をつなぐ
最初の役割を担うのがWolter(ウォルター)ミラー顕微鏡だ。軟X線は可視光用のレンズをそのまま通すことができない。Wolterミラーは、X線を表面すれすれの角度で反射させる二枚の曲面鏡を組み合わせて像をつくる。反射型のため、波長によって焦点がずれる色収差が原理的に生じない。
拡大された像は、今回新たに設計・作製されたマルチ開口回折格子へ進む。チップ上には417個の微小な開口があり、それぞれに透過型の不等間隔回折格子が形成されている。開口は像を場所ごとのチャンネルに分け、回折格子は光をエネルギー別に異なる方向へ送る。二次元検出器には、各場所に対応する細いスペクトルが互いに重ならないよう配置される。
言い換えれば、走査型の方式では位置を変えながら取得する分光情報を、417個の開口が多数の位置について並行して記録する。空間情報を捨てずに光をエネルギー別に分けることが、今回の装置の核心である。素子は東京大学武田先端知スーパークリーンルームで、半導体微細加工技術を用いて作製された。
一枚の像に色を付けたのではない。像の各位置に、軟X線吸収の小さなグラフを持たせた。そこがこの顕微鏡の本質である。――Japan.co.jp分析
SACLAで何を測ったのか
原理実証は、兵庫県の播磨科学公園都市にあるX線自由電子レーザー施設SACLAの軟X線ビームラインBL1で行われた。試料には窒化ケイ素(SiN)薄膜を使い、ケイ素の吸収端に近い約104電子ボルトの領域を調べた。単一パルスの時間幅は100フェムト秒以下だった。1フェムト秒は1000兆分の1秒である。
論文によると、視野は39マイクロメートル四方、開口間隔で定義される空間サンプリングは水平方向2.4マイクロメートル、垂直方向1.6マイクロメートルだった。約100電子ボルトでの分光分解能については、回折格子の溝数からE/ΔEがおよそ1000になると理論的に見積もられた。これは装置全体の実測性能をそのまま表す数値ではなく、回折格子で制限される理論値である。
装置は試料の有無による透過スペクトルの違いを捉えた。同時に、XFELビームそのもののスペクトルがショットごとに変わるだけでなく、同じビームの中でも場所によって不均一であることを可視化した。この後者の結果は重要だ。測定対象だけでなく、照明として使う光の状態も場所ごとに違えば、精密な実験ではその差を補正しなければならない。
なぜ「走査しない」ことが重要なのか
従来の走査型分光顕微鏡は、位置を変えながら精密なデータを蓄積できる。一方、電池の局所的な劣化、触媒反応、光で誘起される相変化、生体試料の損傷などは、場所ごとに異なる速度で進み、一度の照射で状態が変わることもある。各点を順番に測る間に試料が変われば、完成した画像は同じ瞬間の地図ではなくなる。
単一パルスで多点を読む方式は、この時間差を避ける。ただし、今回の装置だけで反応の始まりから終わりまでを連続的に追えるわけではない。動きを調べるには、反応を始める「ポンプ」光と測定用X線の時間差を変えるなど、別の時間分解実験設計が必要になる。再現できない現象の場合は、一回ごとに得られる情報量が増えること自体が価値を持つ。
70年を超えるX線結像技術の先に
Wolter光学系は、X線を結像させるための反射光学系として、ドイツの物理学者ハンス・ウォルターが1952年に提案した。X線を鏡面すれすれの角度で二回反射させるこの方式は、その後、X線望遠鏡に広く採用された。今回の研究は、天文学でも使われてきたWolter型の結像原理を、高精度な軟X線顕微鏡へ発展させてきた研究の延長にある。
SACLAは2012年に供用を開始した日本のX線自由電子レーザー施設で、名称はSPring-8 Angstrom Compact free electron LAserに由来する。BL1の軟X線利用は2016年に始まった。東京大学などの研究グループは、2022年に高精度Wolterミラーと画像再構成を組み合わせた軟X線顕微鏡を報告し、2024年には約30フェムト秒の単一パルスで生きた哺乳類細胞を撮影した。今回の前進は、そこへ位置ごとの分光情報を加えた点にある。
1952年 — ハンス・ウォルターが二回反射型のX線結像光学系を提示。
2012年 — SACLAが研究利用を開始。
2016年 — SACLAの軟X線ビームラインBL1が供用開始。
2022年 — 研究グループが高精度Wolterミラーを用いた軟X線顕微鏡を発表。
2024年 — フェムト秒単一パルスで生きた哺乳類細胞を撮影。
2026年 — 417チャンネルで位置とスペクトルを同時記録する方式を実証。
原理実証と将来像を分けて読む
| 今回確認したこと | 今後期待されること |
|---|---|
| SiN薄膜の透過スペクトルを単一パルスで位置別に取得 | 電池、触媒、光機能材料の局所的な化学状態解析 |
| XFELビームの空間的・ショットごとのスペクトル変動を可視化 | 利用実験での高度なビーム診断と補正 |
| 39 µm四方の視野と417の空間チャンネル | 検出器、光源帯域、分光素子の改良による高性能化 |
| 窒化ケイ素薄膜による原理実証 | 損傷を抑えた生体試料の化学状態マッピング |
「化学状態をフェムト秒で見る」という表現は魅力的だが、今回の測定対象は原理実証用の窒化ケイ素薄膜である。複雑な実試料では、信号の弱さ、放射線損傷、スペクトルの重なり、試料環境、データ解析など別の課題が加わる。417チャンネルは連続した全画素を読む通常のカメラとは異なり、開口位置で空間をサンプリングする方式でもある。
また、SACLAのような大型施設を必要とし、装置は試料から検出器まで約6.5メートルある。研究室の机に置ける一般用顕微鏡ではない。今回の成果は完成品の発表ではなく、極端に短い一瞬から得られる情報の種類を増やした計測基盤の実証と評価するのが適切だ。
1ショットから得られる情報を増やす
XFELは強力だが、パルスごとに性質が揺らぎ、試料を変えてしまうこともある。だからこそ、一回のパルスを「平均化前の例外」として捨てず、その瞬間の空間分布とスペクトルを保存する意味がある。高速現象の研究では、同じ実験を何度も再現できるという前提そのものが成り立たない場合がある。
この顕微鏡が直ちに未知の化学反応を映し出したわけではない。それでも、位置かエネルギーかという従来の選択を弱め、同じ1ショットから両方を受け取る道を示した。次に問われるのは、複雑な試料でどこまで感度と分解能を高め、時間変化を追う実験へ組み込めるかである。
- 東京大学物性研究所「フェムト秒軟X線ハイパースペクトル顕微鏡を実現」
- Takeo Y, et al. Femtosecond hyperspectral imaging with single-shot X-ray pulse
- 科学技術振興機構 発表資料
- 東京大学:2024年の生きた哺乳類細胞の軟X線撮影
- NASA:Wolter型X線光学系の沿革
編集注:本稿は機関発表、査読論文および関連する一次資料に基づく。研究者への直接取材は行っておらず、直接引用は使用していない。将来の応用は研究グループの見通しとして記述し、今回実証された結果と区別した。空間サンプリング値は開口間隔で定義された値であり、装置の空間分解能とは同一ではない。
