2026年8月23日午前7時11分。米国ニューメキシコ州を13日前に出発した無人の成層圏通信プラットフォームが、日本上空に入った。機体はそのまま高知県室戸市周辺、室戸岬沖の上空へ向かい、南海トラフ地震などの大規模災害を想定した試験エリアで滞空した。地上には、特別な衛星端末ではなく、携帯電話ネットワークにつながるスマートフォンがあった。
基地局が、太平洋を渡ってきた
Sceye(スカイ)のLTA(Lighter Than Air)型HAPSは、8月9日午後10時(日本時間)にニューメキシコ州を出発した。空気より軽いヘリウムの浮力を使う飛行船型で、太平洋上空を約13日、1万5,000km以上飛行して日本へ到達した。高知県室戸市周辺では、成層圏の風向きと風速を読みながら機体を運用し、指定した試験区域で長時間にわたり半径最小5km以内に位置を保った。
ここで誤解してはいけない。半径5kmは通信エリアの大きさではなく、今回確認された機体の位置保持精度を示す運用上の数字である。ソフトバンクはHAPS一般について1機で直径最大約200kmの通信エリアを構想しているが、今回の室戸試験がその最大面積を商用条件で実証したわけではない。
機体は日本での試験を終えた後、再び太平洋を横断して米国へ向かった。9月2日の発表時点では帰還飛行を続け、長期間連続飛行の性能確認も継続していた。つまり今回の出来事は「室戸上空に飛んできた」だけではない。大陸間移動、目標地域での滞空、通信、そして帰還という一連の運用を試した点に意味がある。
スマホで通話、動画、118番まで
室戸市周辺では、HAPSと地上のスマートフォンの双方向通信が行われた。機上には4G LTE相当の基地局が搭載され、地上ゲートウェイを介してソフトバンクのコアネットワークへ接続された。確認されたのは、音声通話、テキストメッセージ、SNSなどのアプリ利用、ビデオ通話、動画視聴といった大容量データ通信である。
災害対応を意識した試験も具体的だった。緊急地震速報や津波警報などを想定した緊急速報メールシステムを動かし、海上保安庁の協力を得て音声による118番緊急通報も確認した。地上基地局との電波干渉を抑えながら、地上ネットワークと同等の通信性能を確認したとソフトバンクは説明している。
ただし、これは限定された期間・エリア・端末・試験条件での結果である。何万人もの利用者が一斉に接続する商用ピーク時の容量、豪雨や台風を含む長期的な運用、複数機を使った連続カバレッジ、料金や保守コストまでが証明されたわけではない。「つながった」は大きな節目だが、「全国でいつでも使える」とはまだ違う。
HAPSは衛星ではない。だから既存スマホにつながる
HAPSは、地上基地局と人工衛星の中間にある。ITUはHAPSを高高度のプラットフォームとして位置づけ、一般的な運用高度はおおむね成層圏の20km前後である。低軌道衛星よりはるかに地上に近く、地上基地局よりはるかに広い見通しを持てる。ソフトバンクが描く価値は、地上と同じ移動通信の周波数帯を使い、特別な衛星端末を用意せず、既存のスマートフォンやIoT機器へ直接電波を届けられる点にある。
通信経路は大きく二つに分かれる。HAPSから利用者端末へつなぐサービスリンクと、HAPSから地上設備を経てコアネットワークやインターネットへ戻すフィーダリンクである。今回の通常通信では、室戸側の地上ゲートウェイがSceyeの機体とソフトバンクのコアネットワークを結んだ。
この構造は強みであると同時に、災害時の設計課題でもある。上空の基地局が無事でも、地上ゲートウェイやその電源・バックホールが失われれば別の経路が必要になる。将来の実運用では、可搬型ゲートウェイ、衛星バックホール、複数拠点化など、上空だけでなく地上側の冗長性がサービス品質を左右する。
68ミリ秒——「空の基地局」に計算機を置く
今回の試験で最も将来性が大きいのは、通信そのものよりも「どこでデータを処理するか」かもしれない。ソフトバンクとSceyeはHAPS上にモバイルコアと処理用ウェブサーバーを搭載し、スマートフォンから来た通信を地上ネットワークへ戻さず、機上で応答処理する技術を検証した。
ソフトバンクによると、HAPS上サーバーでの応答処理時間は往復平均68ミリ秒。インターネットを経由してクラウド上で処理する比較経路に対し、遅延を40%以上低減した。同社は、モバイルコアとウェブサーバーをHAPSに載せ、地上ネットワークを経由せずにスマホへ応答を返した試験を「世界初」としているが、これも公開情報に基づく同社調べである。
なぜ空で計算するのか。ドローンの遠隔制御、災害現場の映像解析、ロボットや自律機械を動かすフィジカルAIでは、映像やセンサー情報を遠いクラウドへ送り、結果を戻す時間が問題になる。HAPSが通信と計算を同じ成層圏ノードで担えれば、地上インフラが乏しい場所でも「広域」と「低遅延」を両立できる可能性がある。
ドローンまでつないだ「3次元ネットワーク」
通信会社が見ているのは、人のスマートフォンだけではない。室戸では、HAPSの通信環境下で遠隔制御によるドローンの自動飛行も実施し、飛行制御、位置情報の送信、映像伝送を確認した。将来、災害直後の被害確認、物資輸送、洋上監視、山間物流、送電線や道路の点検、森林監視などへの応用が想定される。
これはソフトバンクが「3次元通信ネットワーク」と呼ぶ構想につながる。従来の携帯ネットワークは地表の人、車、建物を主に対象にしてきた。6G時代にドローンや空飛ぶモビリティが増えれば、基地局のアンテナを地上だけへ向ける2次元の設計では足りない。地上、成層圏、衛星を一体で扱う非地上系ネットワーク(NTN)が、その穴を埋める。
原点は「空に基地局を置きたい」ではなく、災害で切れた通信だった
ソフトバンクのHAPS史をたどると、技術の出発点に日本の災害経験がある。2011年の東日本大震災後、同社は基地局復旧の経験から、地上設備が壊れても広範囲へ通信を戻せる仕組みの必要性を強く意識したと説明している。
その延長線上で、2012年から係留気球を使った臨時無線中継システムを試験し、2013年には衛星回線も組み合わせた災害復旧構成を公表した。後にはドローン基地局、高高度係留気球へと発展し、地上設備の被害地点へ通信を「上から」届けるノウハウを積み重ねた。
HAPSの本格開発は2017年に始まり、同年12月にはHAPSモバイルを設立した。2020年9月、固定翼型のSunglider(サングライダー)は米ニューメキシコ州で高度約19kmへ到達し、成層圏で5時間38分滞空。共同開発した通信機器を使ってLTE通信を行った。2021年には、事業を終了したAlphabet傘下LoonからHAPS関連特許約200件を取得した。
2023年9月にはルワンダで、ソフトバンクが開発した5G対応ペイロードをHAPS試験機へ搭載し、最大高度16.9kmで約73分間5G通信を提供した。同年のWRC-23では、HAPSをIMT基地局として使うための周波数制度が拡張された。機体だけでなく、アンテナ、周波数、干渉制御、国際標準、航空運用を一つずつ揃えてきた約10年だった。
2012–13年:災害復旧向け係留気球無線中継システムを実証。
2017年:HAPS機体開発を本格化。HAPSモバイル設立。
2020年:Sungliderが成層圏へ到達し、LTE通信を実証。
2021年:Alphabet傘下LoonからHAPS関連特許約200件を取得。
2023年:ルワンダで成層圏から5G通信を実証。WRC-23でHAPS向け周波数制度が拡張。
2025年:Sceyeへ出資し、日本でのSceye HAPSサービス展開に関する独占権を取得。
2026年:Sceye機が太平洋を横断し、室戸岬沖で日本上空の試験サービスを実施。
SungliderだけではなくSceyeを選んだ理由
ソフトバンクは固定翼のHTA(Heavier Than Air)型Sungliderの研究を捨てたわけではない。一方で、早期商用化にはSceyeのLTA型を加えた。両者は物理的な考え方が違う。Sungliderは翼の揚力と太陽光発電を使って飛び続ける。Sceyeはヘリウムの浮力で上昇し、飛行船のように長時間その地域へとどまることを狙う。
ソフトバンクの技術ページでは、Sceye機は全長65m、滞空期間は「数カ月」を想定。Sungliderは翼長78m、巡航速度110km/h、同じく数カ月の滞空を想定している。ただし「数カ月」は設計・サービス構想上の能力であり、今回の日本試験が日本上空で数カ月の連続滞空を実証したという意味ではない。
2025年6月、ソフトバンクはSceyeへ出資し、Sceyeの機体を使った日本国内のHAPSサービス展開に関する独占権を取得する契約を締結した。自前のHTA技術と、商用化を急ぐLTAの二本立ては、HAPSを研究プロジェクトから通信事業へ移すための現実的な選択と見ることができる。
周波数は「空いている電波」を使えばいいわけではない
商用HAPSの難しさは、機体を飛ばすだけではない。同じ周波数を地上基地局と使えば、上空からの広い電波が既存ネットワークを邪魔する可能性がある。ソフトバンクはシリンダーアンテナ、ビームフォーミング、ヌルフォーミングを使い、必要な方向へ電波を向け、地上基地局の方向には電波の「穴」を作る技術を研究してきた。
2023年の世界無線通信会議WRC-23では、HAPSをIMT基地局として利用する制度面の選択肢が広がった。ソフトバンクの発表では700~900MHz帯、1.7GHz帯、2.5GHz帯が追加され、国・地域が導入時に使える周波数の柔軟性が増した。ITUも、HAPS/HIBSを災害時や遠隔地のブロードバンドを補完する仕組みとして位置づけている。
制度整備は「商用化できる」ための必要条件だが、十分条件ではない。航空安全、飛行経路、国境をまたぐ運用、スペクトラム免許、地上網との干渉、サイバーセキュリティー、機体の保守・交換など、通信会社と航空宇宙会社の境界にまたがる運用が必要になる。
衛星を置き換えるのか——答えは「補完」が近い
Starlinkなど低軌道衛星の普及で、「なぜHAPSが必要なのか」という疑問は当然ある。衛星は広域を一気にカバーでき、国境や海を越える通信に強い。一方、HAPSは必要な地域の上空へ比較的集中的に容量を置け、地上に近いため低遅延化しやすく、携帯電話会社の既存周波数と端末を利用する設計が可能だ。
反対に、HAPSは機体ごとの運用区域があり、強風帯を避けた経路計画や航空規制、機体の出入り、保守が必要になる。地球全体を常時覆うには多数の機体と運用拠点が要る。衛星かHAPSかの二者択一というより、地上基地局、HAPS、低軌道・静止衛星を重ねる多層ネットワークの中で、どの層にどの仕事をさせるかが競争になる。
室戸試験で「確認できたこと」と「まだ確認できていないこと」
| 項目 | 今回確認 | 商用化までに残る論点 |
|---|---|---|
| 長距離飛行 | 米国から日本へ1万5,000km超 | 定期運航、複数機の交代、年間の気象運用 |
| 位置保持 | 室戸岬沖で半径最小5km以内 | 数週間〜数カ月の継続滞空と季節変動 |
| スマホ通信 | 通話、SMS、SNS、動画、ビデオ通話 | 多数同時接続時の容量、料金、端末・周波数条件 |
| 災害通信 | 緊急速報メール、118番通報 | 地上ゲートウェイ喪失時のバックホール冗長化 |
| ドローン | 自動飛行、制御、位置・映像伝送 | 商用空域での航空規制と大規模運用 |
| エッジ処理 | 平均往復68ms、比較経路より40%超低遅延 | 実サービス向け計算容量、電力、耐障害性 |
2027年は「完成年」ではなく、運用能力を問われる年になる
ソフトバンクとSceyeは、今回得た飛行、運用、通信のデータを使い、2027年以降の日本国内での商用化を目指す。ここで「2027年」は発売日の約束ではなく、事業化の目標時期として読むべきだ。具体的な開始月、料金、対象地域、同時接続数、サービスレベル、機体数は今回の発表では示されていない。
それでも、室戸岬沖の試験はHAPS史の一つの境界線になった。2020年のSungliderは「成層圏からLTEが届く」ことを示し、2023年のルワンダ試験は5Gペイロードを動かした。2026年の室戸では、機体そのものが太平洋を越えて日本へ来て、地上の通信会社のコアネットワーク、緊急通報、災害警報、ドローン、エッジ処理までを一つの運用シナリオとしてつないだ。
次に問われるのは記録ではない。台風の季節にも飛べるのか。地上設備が壊れた本当の災害でネットワークを戻せるのか。一機のデモではなく、交代する複数機を通信事業として回せるのか。そして、その費用を誰が払うのか。
「空飛ぶ基地局」は、長く未来の比喩だった。室戸の試験で、その言葉は少し現実に近づいた。商用化の勝負は、空に上がることではなく、空から毎日、当たり前につながり続けることに移った。
資料・出典
- ソフトバンク「日本初、『空飛ぶ基地局』HAPSの商用化に向けた試験サービスの提供に成功」 — 2026年9月2日。今回の日本上空試験の一次資料。
- ソフトバンク「成層圏通信プラットフォーム『HAPS』」 — HAPSの機体、用途、開発史、Sceye・Sungliderの仕様。
- ソフトバンク「『空飛ぶ基地局』のHAPS、2026年に日本でプレ商用サービス開始」 — Sceyeへの出資、日本国内での独占的サービス展開権、商用化計画。
- ソフトバンクニュース「空飛ぶ基地局『HAPS』がいよいよ日本上空へ」 — 日本試験前の運用計画、地上ゲートウェイ、2026年3月の長距離飛行実績。
- Sceye “Sceye and SoftBank Corp. Complete Stratospheric Connectivity Demonstration in Japan” — Sceye側のST1ミッション発表。
- Sceye “Historic 12-Day, 6,400 Mile Stratospheric Flight” — 2026年春のEndurance Program。
- ソフトバンク「ルワンダ政府と協力して成層圏からの5G通信試験に成功」 — 2023年のHAPS向け5Gペイロード試験。
- ソフトバンク「WRC-23においてHAPSの携帯電話基地局向け周波数帯の追加が正式決定」 — HAPS向け国際周波数制度の拡張。
- ITU “HAPS – High-altitude platform systems” — HAPS/HIBSの国際制度と災害通信上の位置づけ。
- ソフトバンクモバイル「気球無線中継システムの実証実験結果について」 — 災害時の空中基地局につながる前史。
- ソフトバンクニュース「成層圏から通信ネットワークを。HAPS事業の実用化に向けた取り組み」 — 東日本大震災後の災害通信をHAPS開発の背景として説明。
本稿は2026年9月3日午前2時24分(日本時間)までに確認できた公開資料を照合した。日本語の会社名、人物名、肩書、専門用語はソフトバンクの日本語一次資料を優先して確認した。Sceye, Inc.の日本語表記はソフトバンク公式資料に従い「Sceye(スカイ)」とした。「日本初」「世界初」はソフトバンクによる公開情報調査に基づく主張として明示し、独立した記録認定に置き換えていない。HAPSの商用開始時期は「2027年以降を目指す」とし、確定した開始日として扱っていない。
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