細胞の内部で、脂肪滴が動く瞬間
細胞の中は静止した標本ではない。脂肪を蓄える小さな粒は移動し、膜や小器官は形を変え、分子は集まっては離れる。顕微鏡は、その変化を目で追えるようにしてきた。しかし「何が、どこを、どのように動いているか」を、染色に頼らず、しかも奥行きを含む動画として記録することは容易ではなかった。
東京大学と理化学研究所の共同研究チームが発表したのは、細胞内部の化学成分を立体的に撮影する中赤外フォトサーマル顕微鏡の高速化である。2026年10月30日付の東大発表、11月2日付の理研発表によると、毎秒19.2個の三次元像を取得し、生きた細胞内の脂肪滴を追跡した。鍵となったのは、分子が吸収する赤外光と、可視光による精密な測定を組み合わせたことだ。
「見る」から「成分を識別する」へ
通常の明視野顕微鏡では、形や光の透過の違いが手掛かりになる。蛍光顕微鏡は特定の分子や構造に目印を付け、微弱な光で位置を知らせる。蛍光標識は生命科学を飛躍的に進歩させた一方、標識する対象や方法の選択が必要で、観察系に影響することもある。標識せずに化学的な違いを見分けられれば、別の視点から細胞を観察できる。
物質を構成する化学結合は、それぞれ特有の振動を持つ。その振動に合った中赤外光を吸収する性質は、成分を推定するための手掛かりとなる。ただし、吸収の特徴を捉えることと、一個一個の分子を完全に同定することは同義ではない。測定する波数とスペクトル、周辺情報を合わせて読み解く必要がある。
赤外光で温め、可視光で読み取る
中赤外フォトサーマル顕微鏡は、細胞が中赤外光を吸収したときに生じるごく小さな温度変化を利用する。その熱によって屈折率がわずかに変わるため、可視光の測定から「どの場所が、どの波数の赤外光を吸収したか」を検出できる。赤外光を直接撮影する方式に比べ、短波長の可視光を検出に用いる利点がある。
今回の研究は、光の吸収による信号を高感度で測定し、同時に空間光変調器で照明方向を高速に変える方法を採った。11方向から取得した情報を光回折トモグラフィによって統合し、奥行きのある三次元像を再構成する。研究者が細胞を物理的に切断して断面を並べるわけではない。光学的な測定結果から体積像を計算する。
52ミリ秒という壁を越えた速度
研究発表によると、可視光の照明方向は約2.3ミリ秒ごとに切り替わる。中赤外光の照射あり・なしの測定を組み合わせ、1個の三次元像を52ミリ秒で得た。1秒間で19.2ボリュームに相当する。従来の同種の三次元中赤外フォトサーマル計測は毎秒0.05ボリューム未満で、今回の方式は約400倍の高速化を達成した。
「動画」という表現は適切だが、一般的なカメラの30コマや60コマと単純に比べる話ではない。ここでいう1コマは平面画像ではなく、複数方向の測定から構成した三次元ボリュームである。1枚の断面だけを素早く撮るのと、内部の立体的な成分分布を連続して得るのとでは技術的な難しさが異なる。
横0.35、奥行き1.2マイクロメートル
生きた細胞で確認された空間分解能は、横方向で約0.35マイクロメートル、奥行き方向で約1.2マイクロメートルだった。数字が異なるのは、三次元観察における横方向と深さ方向の解像性能が同一ではないからだ。顕微鏡画像が立体であることと、すべての方向で同じ細かさを識別できることは別である。
高速化と分解能には通常、信号の弱さや測定時間という交換条件がある。研究チームは高強度ナノ秒パルスの中赤外光と同期技術を活用し、時間平均に頼らない一回ごとの測定でも十分な信号対雑音比を確保したと論文で報告する。用途を評価するには速度だけでなく、試料への光照射条件や再現性も重要になる。
生きた細胞の「油滴」を追う
実証実験では、研究チームはCOS-7細胞を用い、オレイン酸処理によって脂肪滴が形成されやすい条件で観察した。脂肪滴は中性脂肪などを蓄える細胞内の構造であり、代謝や細胞内輸送とも関係する。中赤外光の波数を2920 cm⁻¹に設定し、脂質に多いCH₂結合の振動に由来する信号を捉えた。
研究チームは約3.6秒にわたり三次元像を連続取得し、脂肪滴の位置の変化を軌跡として解析した。細胞内部を動く粒が平面画像で見かけ上止まっていても、実際には奥行き方向に進んでいることがある。立体的な移動を測定できる意味は、まさにそこにある。
普通の拡散とは違う動き
解析で確認されたのは、脂肪滴の移動範囲が通常の拡散より広がりにくい「異常拡散」の特徴だった。論文では、移動の広がり方を表す拡散指数が通常の拡散の場合の1より小さくなる傾向を示し、方向や細胞内の場所によって動き方も異なると報告した。
これは細胞内にある構造物の混雑、結合、輸送など複雑な環境を調べる手掛かりになり得る。ただし、短時間の脂肪滴追跡だけで異常拡散の全ての原因が突き止められたわけではない。輸送の機構を特定するには、別の実験条件や独立した計測との比較が必要になる。
分子の「色」を分ける分光の実験
さらに研究チームは、中赤外光の波数を高速に変え、約300 cm⁻¹の範囲で1秒ほどの間に約20波数の三次元画像を取得した。固定した細胞で脂肪滴に整合する領域と核小体などを比較し、位置によって異なる分子振動スペクトルを取り出せることを示した。これは「立体像を速く撮る」だけでなく、「立体像の化学的な手掛かりを複数の波数で得る」成果である。
重要な区別もある。約20波数の高速分光実験と、約3.6秒の生細胞脂肪滴追跡は、同じ条件であらゆる成分をリアルタイム同定した実験ではない。前者は固定細胞を用いた実証、後者は選択した波数で脂質に富む構造を追った実証だ。「生きた細胞の全化学成分を完全動画化した」とは言えない。
顕微鏡が歩んだ長い道
17世紀、ロバート・フックはコルクを顕微鏡で観察して「cell」という語を広め、アントニ・ファン・レーウェンフックは小さな生物の存在を示した。19世紀には細胞説が整い、20世紀には位相差顕微鏡や電子顕微鏡が構造の観察を進めた。蛍光標識と共焦点顕微鏡、さらに高解像の光学技術が、細胞内の動きを観察するための道具を増やした。
一方、赤外分光法は分子の振動から物質を調べる手法として発展した。近年の中赤外フォトサーマル法は、化学情報と可視光の空間分解能を結びつける試みである。今回の研究の新しさは「細胞を初めて三次元で見た」ことでも「染色なしの観察を初めて実現した」ことでもない。非標識の化学コントラストを、体積のある連続画像として速く取得したところにある。
創薬や生命研究へ――期待と距離
脂肪滴の形成・成長・融合、細胞小器官との接触、さらにはタンパク質などが濃縮する生体分子凝縮体の変化を、動きと成分の両面から調べる可能性がある。研究発表は、液-液相分離による分子集合体などへの将来的な応用にも触れている。化学成分の変化と運動を対応づけられれば、細胞の状態を解釈する手掛かりが増える。
ただし、今回の論文は新薬の効果を測定した臨床試験ではなく、疾病の診断精度や安全性を検証したものでもない。研究装置を多様な細胞種、厚い組織、臨床試料で使う際には、光学条件、試料への負担、分析手順をそれぞれ検証する必要がある。期待される応用と、すでに実証した性能を混同してはならない。
誰が研究を担ったのか
原論文の著者は、東京大学大学院理学系研究科の福島誠人、戸田圭一郎、菅原優生、川野将太郎の各氏と、東京大学大学院新領域創成科学研究科教授で理化学研究所光量子工学研究センターのチームディレクターを兼ねる井手口拓郎氏。責任著者は戸田氏と井手口氏である。研究成果は査読誌『Nature Communications』に掲載された。
東京大学は10月30日に詳細な研究発表を掲載し、理研は11月2日に共同研究の成果として公表した。大学発表と研究機関発表の日付を、論文の発行日と混同しないことも報道には欠かせない。研究助成には科研費、科学技術振興機構の創発的研究支援事業、理研の関連事業などが含まれる。
三次元で「動く成分」を読む時代へ
この顕微鏡は、細胞を透視する万能な窓ではない。選んだ赤外光の波数、限られた空間分解能、数秒間の追跡、試料の条件という制約がある。それでも、細胞の化学的な違いを手掛かりに、奥行きを含む動きを時間とともに記録できるようになったことには大きな意味がある。
生命の理解を進めるのは、一枚の見事な静止画像だけではない。どこにあるのか、何でできているのか、どう動くのか。その三つを同じ観察の中で結びつける道具が、また一つ生まれた。
出典と取材方法
東京大学・理化学研究所の一次資料と『Nature Communications』の査読済み論文に基づくデスク取材。独自の研究者インタビュー、顕微鏡の操作、測定結果の追試は行っていない。
