スロバキア東部コシツェの巨大製鉄所では、1965年6月2日に第1高炉から初めて銑鉄が流れ出した。61年後の2026年、その場所に新しい製鉄ルートが加わることになった。日本製鉄の欧州事業拠点U. S. Steel Košice(USSK)は、年産約160万トンの電気炉と新しい酸素プラントに総額約9億ユーロを投じる。[1] [3]
9月15日(現地時間)、USSKはスロバキア政府との補助金契約に署名した。EU近代化基金から最大3億5,000万ユーロを受ける枠組みで、内訳は電気炉に3億1,000万ユーロ、酸素プラントに4,000万ユーロ。酸素プラントは2029年、電気炉は2030年の稼働開始を予定する。[1]
「高炉を電気炉に置き換える」より複雑な計画
電気炉(EAF、Electric Arc Furnace)は、電極間のアーク放電による高温で鉄スクラップや還元鉄などを溶解し、鋼をつくる。高炉・転炉ルートでは、鉄鉱石から酸素を取り除く「還元」にコークスなどの炭素を大量に使うため、その化学反応そのものからCO₂が生じる。日本製鉄も、自社のカーボンニュートラル戦略でこの構造を明示している。[10] [12]
だからといって、電気炉への転換は単純な「脱石炭スイッチ」ではない。電気炉は電力を大量に使う。高級鋼の品質を確保するにはスクラップや還元鉄に含まれる不純物の管理が必要になる。製品構成によっては、高炉ルートが持つ安定した溶銑供給や品質上の強みも残る。
コシツェの2026年案が選んだのは、その中間だ。USSKの社員向けQ&Aは、新しいEAFを既存高炉と組み合わせる「EAF + BF」のハイブリッド構成と説明している。会社側は、不確実な市場や原料・エネルギー条件のなかで「柔軟性とレジリエンスの最良のバランス」を狙うとしている。[4]
会社は「年270万トンのCO₂削減」を見込む
日本製鉄の9月16日発表は、CO₂を「大幅に削減する」と表現する一方、削減量の数値は記していない。しかしUSSKが従業員向けに公開したQ&Aでは、プロジェクト完成後、現在の水準と比べて年間約270万トンのCO₂排出削減を見込むとしている。[4]
同じQ&Aでは、新電気炉単体の年間電力消費を約0.72TWh、工場全体では約2.0TWhと見込んでいる。これは「電気炉にすれば自動的にゼロカーボンになる」わけではないことを示す。電気炉の排出原単位は、投入原料だけでなく、使う電力がどのように発電されたかにも左右される。[4]
スロバキア財務省のValue for Money部門は、計画段階の分析で、コシツェ製鉄所がすでに年間約1.5TWhを消費し、国全体の2024年電力消費26.5TWhの5%超に相当すると指摘した。電化後は購入電力への依存が高まり、同国最大級の電力需要家になる可能性があるとも分析している。[5]
なぜ「酸素プラント」が必要なのか
9億ユーロの計画には、EAFだけでなく新しい酸素プラント――英語の公式発表ではAir Separation Unit(ASU)――が含まれる。空気を分離して酸素などの工業ガスを供給する設備で、製鉄所の安定操業とエネルギー効率向上を支える基盤になる。日本製鉄は、ASUを2029年に先行稼働させる予定としている。[1]
電気炉でも酸素は重要だ。溶鋼中の炭素や不純物を調整し、操業を効率化するために大量の高純度酸素が使われる。つまり今回の投資は、単に巨大な炉を一基買うのではなく、その炉を既存製鉄所の物流、電力、ガス、精錬、連続鋳造、圧延までつなぐ「製鉄システムの組み替え」である。
1959年に始まった、社会主義時代の国家プロジェクト
コシツェ製鉄所の歴史は、冷戦期のチェコスロバキアにさかのぼる。1959年4月1日、東スロバキア製鉄所(VSŽ)を設立する文書が署名され、1960年1月に建設が始まった。1965年6月に第1高炉が初出銑し、1966年には一貫製鉄の工程が完成した。[3]
その後、1989年の体制転換を経て国営企業から株式会社へ移行し、1990年代の民営化を経験する。1998年にはVSŽとUSスチールが合弁会社を設立。2000年11月24日、United States Steel Corporationがコシツェの製鉄事業を取得した。[3]
そこから四半世紀、工場は「U. S. Steel Košice」として自動車、電機、包装、エネルギー、建設向けの鋼材を中東欧へ供給してきた。日本製鉄は、この立地、顧客基盤、平鋼製品の幅、人材を、欧州戦略の価値として挙げている。[2]
ピッツバーグ経由で、日本製鉄の欧州拠点へ
コシツェが日本製鉄の傘下に入った経緯は、欧州だけでは完結しない。日本製鉄は2023年12月、USスチール買収で合意。米国で政治・安全保障上の論争を経た後、2025年6月18日に取引を完了した。日本製鉄の財務開示では、この日にUSスチールの議決権100%を取得したとされる。[8] [9]
その結果、スロバキアのUSSKも日本製鉄グループに入った。さらに日本製鉄は2026年5月、USSKをUSスチール傘下から日本製鉄の直接子会社へ移すと発表した。10月1日付で社名をNippon Steel Slovakia s.r.o.(NSSK)へ変更し、欧州の中核拠点に位置付ける。[2]
これは単なる社名変更ではない。日本製鉄は欧州市場を、中国、米国に次ぐ規模の成熟市場と位置付け、高級鋼需要が大きいこと、中東欧で製造拠点移転に伴う需要成長が見込めること、そしてEUの関税・セーフガード・炭素国境調整メカニズム(CBAM)などにより域内生産の意味が大きいことを、直接保有化の理由として説明している。[2]
日本で進める「大型電炉」の技術とつながる
コシツェへの投資は、日本製鉄が国内で進めている電炉化と切り離された案件ではない。同社の「カーボンニュートラルビジョン2050」は、①大型電炉での高級鋼製造、②水素による直接還元鉄、③高炉への水素吹き込み、という複数技術を並行して開発する。[10]
2025年には、九州製鉄所八幡地区、瀬戸内製鉄所広畑地区、山口製鉄所(周南)で電炉の新設・増設・再稼働を決定。2026年4月には八幡地区で、高炉から大型電炉へ転換する工事に着手した。日本製鉄はここで「大型電炉で高級鋼を一貫製造・量産する」技術を世界初として実現する計画を掲げる。[11]
コシツェは日本の設備と同じ設計になると発表されているわけではない。だが、日本製鉄が大型電炉の品質制御、原料設計、操業技術を自社の中核GX技術として磨いていることは、スロバキアを直接保有する戦略的意味を理解するうえで重要だ。
一度は「2基の電気炉」を目指した
今回の1基案には前史がある。スロバキア財務省のValue for Money部門によると、旧計画では電気炉2基と直接鋳造・圧延技術を組み合わせ、約20億ユーロを投じて温室効果ガスを70%削減する構想だった。コシツェ製鉄所は二つの脱炭素支援制度で最大6億ユーロを受けられる可能性があったが、USスチールの所有権をめぐる長期交渉の最中に契約を締結せず、その支援枠は実現しなかった。[5] [13]
2026年案は、2基ではなく1基。直接鋳造・圧延も外れた。その代わり、既存高炉を残し、EAFと組み合わせる。USSKは、この方式が将来の選択肢を残すと説明する。完全転換ではなく、段階的な転換である。[4] [5]
- 旧構想:電気炉2基+直接鋳造・圧延、約20億ユーロ規模とされた。
- 2026年決定:電気炉1基+酸素プラント、約9億ユーロ。
- 生産方式:高炉を全面廃止せず、EAFと既存高炉を併用。
- 公的支援:今回の契約はEU近代化基金から最大3.5億ユーロ。
EUの補助金は何に使われるのか
EU近代化基金は、EU排出量取引制度(EU ETS)の収入を財源とし、対象国のエネルギー・産業の近代化や温室効果ガス削減を支援する仕組みだ。加盟国が案件を選定し、欧州投資銀行(EIB)や欧州委員会などの手続きを経て資金が拠出される。[6] [7]
コシツェ案件では、スロバキア政府を通じて最大3.5億ユーロが支給される。約9億ユーロの総投資に対して単純計算で約39%に相当するが、実際の支給条件や対象費用は補助契約に従うため、「総工費の39%をEUが負担する」と単純化するのは適切ではない。
鉄鋼業に公的資金を投じる背景には、排出削減だけでなく産業競争力の問題がある。EU ETSでは排出に価格が付く。炭素コストが上がるほど、石炭依存の高い製鉄所はコスト競争上の圧力を受ける。電炉化は環境対策であると同時に、欧州で鋼を作り続けるための設備更新でもある。
雇用をどう守るか
電炉は工程が変わるため、雇用への影響は地域社会にとって重大な関心事だ。USSKの従業員向けQ&Aでは、会社側は「雇用を減らさず、生産と生産性を高める」方針を示し、直接保有化についても雇用に悪影響を与えないと説明している。近年の大量退職を見据え、技能を若い世代へ引き継ぐ人員計画も必要だとしている。[4]
ただし、これは会社の現時点での方針であり、2030年までの具体的な職種別人員構成はまだ公表されていない。高炉、コークス、原料処理、電炉、電気設備、保全で必要な技能が変わるため、「雇用総数」と「仕事の中身」は分けて追う必要がある。
この9億ユーロが意味するもの
日本製鉄にとって、コシツェのEAFは単なる海外環境投資ではない。2025年にUSスチールを取得し、2026年にコシツェを直接子会社化し、その直前に大型設備投資を決めた。順番を見ると、欧州の製鉄能力を「引き継いだ資産」から「自社戦略の中核」に変えようとしていることが分かる。
一方で、プロジェクトには解くべき問題が残る。電力価格。低炭素電源の確保。スクラップや還元鉄の品質と調達。高炉と電炉をどう使い分けるか。160万トンのEAFでどの製品をどこまで高級化できるか。そしてEUの炭素政策が2030年までにどう変わるか。
61年前、コシツェの未来は高炉の火で始まった。2030年、その火を消すのではなく、その隣に巨大な電気炉を置く――それが日本製鉄の答えだ。完全な置き換えではなく、二つの製鉄ルートを持ちながら次の技術へ移る。その慎重さこそ、今回の投資の最も重要な特徴かもしれない。
- 日本製鉄「欧州の事業拠点U. S. Steel Košiceにおいて持続的成長と脱炭素を両立する9億ユーロの投資を決定」2026年9月16日
- 日本製鉄「U. S. Steel Košice の直接保有化について」2026年5月13日
- U. S. Steel Košice「History」—1959年以降のコシツェ製鉄所の沿革
- U. S. Steel Košice 社内Q&A「Odpovede na otázky našich zamestnancov」—EAF、CO₂、電力、雇用に関する回答
- スロバキア財務省 Value for Money Unit「Čo znamená elektrifikácia oceliarní v Košiciach pre Slovensko?」2026年
- EU Modernisation Fund「Investments」—基金の目的とEU ETS収入による資金構造
- EU Modernisation Fund「How it works」—加盟国、EIB、欧州委員会の役割
- 日本製鉄「日本製鉄とUSスチールのパートナーシップ成立のお知らせ」2025年6月18日
- 日本製鉄 2026年2月24日資料—U. S. Steel取得日・持分に関する開示
- Nippon Steel「Carbon Neutral Vision 2050」—大型電炉、高炉水素還元、直接還元鉄
- 日本製鉄「九州製鉄所八幡地区 電炉プロセス転換工事に着工」2026年4月15日
- U. S. Steel Košice「Greenhouse gas emissions」—高炉製鉄とCO₂排出の説明
- Slovak Ministry of Finance / Value for Money review—旧脱炭素支援案とU. S. Steel Košice案件

