九兆円という金額は、あまりに大きく、かえって実感を失わせる。東京都の年間予算に近い規模であり、家計支援や防衛費、公共投資をめぐる政治論争なら、何カ月も国会を揺らす数字だ。それが外国為替市場では、数時間のうちに投じられた可能性がある。
2026年7月末、円が約40年ぶりの安値圏へ沈んだ局面で、日本政府が大規模な円買い・ドル売り介入に動いたとの見方が広がった。市場推計は約589.7億ドル。1ドル=157.57円で換算すれば約9.29兆円となる。これが「9兆円の問い」である。しかし本当に重要なのは、単にいくら使ったかではない。日本はどの財布から資金を出し、何を売り、何を買い、その取引は国民にとって費用なのか、資産の入れ替えなのか。そして、それほどの規模でも円安を止められなければ、次に何が残るのか。
為替介入は、一般会計から現金を取り出して市場へ投げ込む行為ではない。日本の場合、財務省が所管する外国為替資金特別会計、いわゆる外為特会が使われる。円安を止める円買い介入では、外為特会が保有するドルなどの外貨資産を売り、その代金で円を買う。日本銀行は政策判断者ではなく、財務大臣の指示を受けて取引を執行する政府の代理人である。
9兆円は「消えた」のか
介入を「9兆円を使った」と表現すると、国庫から9兆円が消失したように聞こえる。実際には、円買い介入は外貨資産を円資産へ交換する取引である。日本政府はドル資産を売り、その代わりに円を得る。得た円は、過去の円売り介入で発行した政府短期証券の償還などに充てられる。
したがって、介入額そのものがそのまま損失になるわけではない。損益は、売却した外貨資産の取得価格、売却時の為替レート、債券価格、利息収入、円資金の調達コストなどによって決まる。長年の円売り・ドル買い介入で積み上げられたドル資産は、歴史的に円高だった時期に取得したものも多い。極端な円安水準でドルを売れば、円換算上は大きな含み益が実現する可能性がある。
財務省の外為特会は2025年度に5兆600億円の剰余金を計上した。ロイターによれば、弱い円によって外貨資産の円換算収益が膨らみ、米国債などから得る利息が政府短期証券の金利負担を上回ったことが背景にある。このうち3兆1,300億円は2026年度の一般会計へ繰り入れられた。つまり外貨準備は、危機時の弾薬庫であると同時に、平時には利息を生む巨大な政府ポートフォリオでもある。
日本の外貨準備は何でできているのか
2026年6月末、日本の公式外貨準備は1兆2,874億7,600万ドルだった。内訳は、外貨準備が1兆905億1,500万ドル、そのうち証券が9,285億8,100万ドル、外国中央銀行や国際決済銀行などへの預金が1,619億3,400万ドル。ほかにIMFリザーブポジション、特別引出権、金、その他資産がある。
「日本は1.3兆ドルを持っているのだから、600億ドル程度は小さい」と考えるのは早計だ。準備資産のすべてを即座に売れるわけではない。金やSDRは日々のドル売り介入のための現金ではなく、証券も市場への影響を避けながら換金しなければならない。米国債を大量に一度に売れば、その価格を下げ、米金利を上げ、世界市場を揺らす恐れがある。
そのため当局は、預金、満期を迎える証券、短期資金取引、買い戻し条件付き取引などを組み合わせ、必要なドル流動性を確保する。今回、日本がニューヨーク連銀のレポ制度を通じて米国債を売却せずにドルを調達した可能性が報じられたのは、この市場配慮のためだ。準備は大きくても、使い方には技術と外交が要る。
| 2026年6月末の準備資産 | 金額 | 介入との関係 |
|---|---|---|
| 外貨証券 | 9,285.81億ドル | 米国債など。売却または資金調達の担保となり得る |
| 外貨預金 | 1,619.34億ドル | 中央銀行・BIS等への預金。流動性が高い部分 |
| 金 | 1,095.05億ドル | 価値保存資産。通常の円買い介入の主力ではない |
| SDR | 603.87億ドル | IMFの準備資産。通常の市場介入とは異なる性格 |
市場はどうやって金額を推測するのか
当局は通常、取引の最中に「いま何兆円介入している」と発表しない。市場参加者は円の値動き、銀行への照会、ニューヨーク連銀の動き、そして翌営業日に公表される日銀当座預金の増減見通しから規模を推測する。介入で円を買えば、市場から円資金が吸収され、政府取引に伴う当座預金の変化に痕跡が残るからだ。
ただし推計には誤差がある。税金、国債発行、政府支出、海外との資金決済なども当座預金を動かす。さらに取引日と決済日には時間差があり、米国側が自己資金で円を買ったのか、日本の資金を代理執行したのかによっても意味が違う。約589.7億ドルという数字は、市場が見た「足跡」であり、会計帳簿そのものではない。
財務省は介入総額を月次で公表し、日別・通貨別の詳細を四半期ごとに開示する。2026年7月30日以降を含む月次集計は8月28日に予定されている。したがって、8月初めの段階では、約9兆円という数字を確定値として扱うべきではない。
2024年と2026年――介入規模は膨らんだ
日本は2024年4月29日と5月1日に合計9兆7,885億円の円買い介入を実施した。さらに同年6月末から7月末にかけて5兆5,348億円を投入した。2026年4月末から5月末には、過去最大級の11兆7,349億円が使われた。ところが円安圧力は消えず、7月末に再び約9兆円規模とみられる取引が必要になった。
この繰り返しは、介入の限界を示す。介入は市場の速度を変え、投機筋へ損失を与え、一方向の賭けを危険にする。しかし、日米金利差、エネルギー輸入、財政への不安、企業と投資家の海外資産選好といった基礎的な流れを単独で反転させることは難しい。
1998年:アジア通貨危機の余波と金融不安のなか、日米が円買いで協調。政治的な信号が相場の転換点を作った。
2003~2004年:急激な円高を抑えるため、日本は円売り・ドル買いを大規模に継続。現在の巨大な外貨準備形成につながった。
2011年:東日本大震災後の急激な円高に対し、G7が協調して円を売った。
2022年:24年ぶりの円買い介入。金利差を背景にした円安との戦いが始まった。
2024年:春に9兆7,885億円、夏に5兆5,348億円を投入。
2026年:春に11兆7,349億円。7月末には約9兆円規模と推計される新たな介入。
なぜ今回は「費用」以上に米国債が注目されるのか
日本の外貨準備の中心はドル建て証券であり、その多くは米国債とみられる。円を買うにはドルを用意しなければならない。単純化すれば、日本は米国債を売ってドル現金を作り、そのドルを売って円を買うことができる。
しかし世界最大級の米国債保有国である日本が大量売却に動けば、米国債価格の下落と利回り上昇を招きかねない。米政府にとっては住宅ローン、企業借入、財政利払いに波及する。だから日米協調には、円を支えるだけでなく、米国債市場を乱さずに必要なドルを調達するという第二の目的がある。
レポ取引は、米国債を一時的に担保として差し入れ、ドルを借りる仕組みだ。資産を永久に売却せずに流動性を得られる。もし今回それが使われたなら、介入は単なる通貨売買ではなく、日米の市場インフラを連結した作戦だったことになる。
9兆円で何を買ったのか
政府が買ったのは円である。しかし政策的に買おうとしたものは「時間」だ。企業が輸入価格を再設定する前の時間、家計のインフレ期待が固定化する前の時間、投機筋が円売りをさらに積み上げる前の時間、そして日本銀行が次の利上げを判断するまでの時間である。
介入直後、円が急上昇しても、その後に再び下落すれば「失敗」と呼ばれやすい。だが効果は終値だけでは測れない。相場の変動速度を落としたか、投機ポジションを縮小させたか、輸入企業のヘッジを可能にしたか、政策変更までの猶予を作ったかという複数の尺度がある。
一方で、何度も巨額介入を繰り返せば、市場は政府の防衛線を探り始める。「160円で入る」「数日後に戻る」と学習されれば、介入は逆に投機の機会を与える。最も強い介入は、金融政策、財政政策、エネルギー政策、賃金と生産性の改善が同じ方向へ動く時に生まれる。
- 財務省の月次公表で、7月末の正式な介入総額はいくらになるか。
- 日米それぞれが自己資金を使った「共同介入」か、日本資金の委託執行を含むのか。
- 外貨預金、証券売却、レポ取引のどの組み合わせでドルを確保したか。
- 円相場が安定するまで、日本銀行が金利政策でどこまで支援するか。
巨大な弾薬庫にも、無限という札はない
日本には1.2兆ドルを超える外貨準備がある。約590億ドルの介入は総額の5%弱に相当し、ただちに弾切れを意味しない。しかし、自由に使える現金、売却可能な証券、市場への影響、外交上の制約を考えれば、単純な割り算で「あと20回できる」とは言えない。
さらに重要なのは、準備額ではなく信認である。市場が「日本は円安を止めるため金融政策も変える」と信じれば、介入額は小さくても効く。反対に「当局はドルを売るだけで、金利差と財政不安は残る」と見れば、1回の9兆円は巨大でありながら短命になる。
外為特会の金庫には米国債、預金、金、SDRが並ぶ。だが最後に円を守るのは金庫の大きさだけではない。日本経済が生み出す成長、賃金、物価の安定、財政への信頼、そして中央銀行の政策が、一枚の通貨にどれだけ信用を与えるかである。
九兆円で買ったのは円だった。市場が次に問うのは、その円を持ち続ける理由を日本が作れるかどうかである。
取材メモ・出典
情報は2026年8月2日午後1時50分(日本時間)まで確認した。介入額は市場推計と財務省の確定値を明確に区別している。
- Reuters: reported Japan–U.S. joint action and estimated Japanese intervention
- Reuters: market estimate of about $58.97 billion and regional coordination
- Reuters: FY2025 foreign-exchange reserve-account surplus
- Japan Ministry of Finance: official reserves at end-June 2026
- Japan Ministry of Finance: intervention from April 28 to May 27, 2026
- Japan Ministry of Finance: intervention details for April–June 2024
- Japan Ministry of Finance: intervention from June 27 to July 29, 2024
- Bank of Japan: who decides, executes and finances intervention
- Bank of Japan: operational outline of foreign-exchange intervention
