夜10時、練習を終えた高校生のスマートフォンに監督からメッセージが届く。「明日の朝、少し話そう」。内容は短い。善意かもしれない。けがを心配しているのかもしれない。だが、画面の外からは二人の関係が見えない。返信しない自由はあるのか。誰に相談できるのか。後で言葉の意味が争われたとき、誰が文脈を知っているのか。
東京・恵比寿のクライムファクトリー株式会社は8月5日、選手のコンディション管理アプリ「Atleta」のメッセージ機能を刷新した。同社が選んだ安全思想は単純だ。個人のLINEやSNSアカウントを交換せず、チームの公式空間でやり取りし、登録された指導者全員が同じルームを見る。
便利さも増えた。指導者は一人だけでなく、同じポジション、学年、リハビリ組など複数の生徒を選べる。動画や文書を送り、選手は「いいね」などで素早く反応できる。だが、この小さな製品更新は、部活動が長く抱えてきた大きな問いを露出させる。信頼とは、二人だけで話せることなのか。それとも、話せるが二人きりにはならないことなのか。
紙の部活ノートがつくった「一対一」
日本の部活動では、練習日誌や部活ノートが長く使われてきた。今日の目標、練習内容、できたこと、反省、体調を書き、顧問が赤ペンで返す。言葉にすることで選手は自分を振り返り、指導者は大人数の中で見落とした心身の変化を知る。
ノートには教育的な価値がある。練習の量を記憶から記録へ変え、失敗を次の課題へつなぐ。口頭では言いづらい痛み、家庭の事情、試合への恐怖も書ける。一方、提出を義務づけられ、評価する大人だけが読むノートは、自発的な日記ではない。どこまで本音を書けば出場に響くのか、選手は常に力関係を計算する。
紙は遅い。回収し、読み、返すまで時間がかかり、紛失し、複数のスタッフが同時に確認できない。スマートフォンはこの摩擦を消した。入力は帰りの電車ででき、痛みや疲労はその日のうちに届く。しかし紙の封筒が持っていた距離も消える。通知は深夜にも来て、私生活へ入り、個人的なアカウントが指導関係の延長になる。
コンディショニングは、体温計からデータベースへ
選手管理の歴史は、監督の観察と本人の自己申告から始まった。体重、安静時心拍、体温、睡眠、食欲、疲労感を毎日記録し、普段との差を見る。日本スポーツ協会は、心拍数、血圧、体温、体重、睡眠、自覚的な体調、練習の強度・量・時間などをセルフチェックの指標として挙げ、指導者にはウォームアップ中の観察も求める。
紙の一覧表が表計算になり、表計算がクラウドになった。データは一人のトレーナーの机から、監督、コーチ、医療スタッフ、栄養士へ同時に届く。感染症流行時には、離れた場所の体温や症状を集める意味も増した。
Atletaの源流は2009年設立のCLIMB Factoryにある。同社は日本代表やメダル獲得支援事業で使われた選手管理システム「CLIMB DB」を開発し、プロ野球球団へも提供した。2016年、トップ競技で育てた考え方を学生やクラブへ広げるAtletaを始めた。
2009年 初代CLIMB Factory設立、CLIMB DB開発開始
2013年 日本スポーツ協会が暴力行為等相談窓口を設置
2016年 Atletaサービス開始
2017年 エムティーアイが初代会社を吸収合併
2018年 導入1,000チーム到達
2022年 教員性暴力等防止法施行
2024年 新しいクライムファクトリー設立、事業を承継
2026年8月 複数生徒、動画・ファイル、リアクション対応へ更新
2026年12月 こども性暴力防止法の施行予定
会社より古い製品
現在のクライムファクトリーは2024年8月設立の非上場企業だが、Atletaは10年、事業の系譜は17年ある。初代会社は2017年、健康情報サービス「ルナルナ」などを展開する東証上場企業エムティーアイに吸収された。2024年、エムティーアイが経営資源をヘルスケアや学校DXへ集中する中、スポーツ・運動現場向けIT事業は会社分割で新会社へ承継された。
これは典型的なゼロからのスタートアップ物語ではない。大企業の中で規模を得た事業が、再び独立系の小さな船へ戻った物語だ。現在の会社は従業員数や資本金を公式サイトで公表していない。だから「小ささ」を架空の数字で飾るべきではない。それでも、上場企業から切り出された若い非上場会社が、長年の学校・競技データと顧客関係を引き継ぎ、制度変化へ製品で応える構図は明確だ。
日本社会は「私的な連絡」を危険信号に変えた
デジタル連絡の安全は、抽象的なIT論ではない。文部科学省は、教員による性暴力等の懲戒事案に、SNSや電子メールによる児童生徒との私的なやり取りがあった例を認め、教育委員会へ私的なSNS連絡をしてはならないと明確化するよう求めてきた。
2022年4月には「教育職員等による児童生徒性暴力等の防止等に関する法律」が施行され、教育職員による児童生徒性暴力等は法律上明確に禁止された。2025年の文科省通知も、教師がSNSで私的に連絡しないこと、個人のスマートフォンで児童生徒を撮影しないことを改めて徹底した。
さらに2026年12月施行予定の「こども性暴力防止法」に関するこども家庭庁のガイドラインは、児童と私的なSNS、ゲームアカウント、メールアドレスを交換して私的にやり取りすることを、性暴力へ発展し得る「不適切な行為」の具体例に挙げる。Atletaの発表は、この施行を約4カ月後に控えた時点で出た。
同社は特定の事件を挙げず、不祥事の背景に「第三者の目が届かない」コミュニケーション構造があると説明する。この因果関係を同社は独自データで証明していない。しかし政策が、個人アカウントと二者だけの密室をリスク要因として扱う方向へ進んでいることは確認できる。
「個別」だが「秘密」ではない
旧機能では、生徒一人へ送る場合も登録指導者全員がルームに参加した。新機能は、その透明性を残しながら生徒側を複数選択できる。たとえば投手陣だけへフォーム動画を送り、遠征メンバーへ旅程PDFを渡し、リハビリ中の数人へ別メニューを連絡できる。
設計上の狙いは「二者間の個別性」と「組織内の可視性」を分離することだ。全校掲示板へ痛みや悩みを出す必要はない。しかし一人の大人だけが生徒への経路を独占することもない。個人連絡先を交換しないため、卒業後や退任後も私的SNSへ関係が自動的に持ち越されにくい。
リアクションボタンは小さく見えるが、確認の摩擦を下げる。「了解しました」と毎回打つ代わりに一度押す。既読だけでは同意なのか見落としなのか分からない場面で、能動的な受領を示せる。動画とファイルは、言葉だけでは伝わらない技術指導や大会資料を一か所へ残す。
| 機能 | 期待される利点 | 新しく増える注意点 |
|---|---|---|
| 複数生徒のルーム | 学年、役割、遠征組などへ必要な連絡 | 宛先間で個人情報を見せない設計か |
| 指導者全員が閲覧 | 秘密の一対一を避け、記録を共有 | 不要なスタッフまで機微情報を見る恐れ |
| 動画・ファイル | 技術映像、日程、文書を公式経路に保存 | 顔、身体、医療情報、著作物の管理 |
| リアクション | 確認を速く、負担を軽くする | 複雑な同意や体調を絵文字で済ませる危険 |
記録があっても、組織が沈黙すれば安全ではない
「全指導者が見られる」は重要だが、万能ではない。指導者集団が同じ問題文化を共有し、監督へ異議を唱えられなければ、観客が増えても誰も止めない。メッセージが保存されても、削除、閲覧ログ、管理者権限、保存期間、外部監査、証拠保全が不明確なら、事後検証は難しい。
安全なシステムには、ルームの内側だけでなく外側への出口が要る。生徒が指導者全員を相手にせず、学校管理職、養護教諭、保護者、独立相談窓口へ連絡できるか。問題の当事者が管理者だった場合に権限を止められるか。緊急時に誰へ通知し、何時間以内に応答するか。
日本スポーツ協会は2013年に暴力行為等相談窓口を設け、2025年度の相談件数が過去最多を更新したと報告する。近年は身体的暴力より、線引きの難しい暴言やハラスメントの相談が多いという。アプリは記録を残せても、相談を受け、被害者を守り、調査し、処分する組織にはなれない。
体調データは、選手からのメッセージでもある
Atletaの特徴は、連絡機能とコンディション記録が同じ場所にあることだ。選手は氏名、生年月日、性別に加え、身長、体重、睡眠、食事、主観的な体調、練習時間、病気、けがなどを入力する。公式サイトでは月経情報も扱えると説明する。
数字は会話の入口になる。睡眠が急に短くなった。膝の痛みが3から7へ上がった。食事が減った。気分が落ちている。口頭で「大丈夫です」と答える選手でも、日々の記録には変化が現れるかもしれない。指導者が翌日の負荷を調整し、医療者や保護者への相談を促す材料になる。
しかし「可視化」は診断ではない。痛みの数値は主観で、入力しないことにも複数の意味がある。忙しい、忘れた、監督に知られたくない、出場を外されたくない。低いスコアを怠慢と読み、入力率を服従の評価にすれば、安全のための自己申告は監視へ変わる。
誰が月経、体重、心の状態を見るのか
安全のために「指導者全員」をメッセージへ入れる思想と、健康情報への最小権限は緊張する。投手コーチがフォーム動画を見る必要はあっても、全スタッフが月経周期や病歴を見る必要はないかもしれない。透明性はアクセスの無制限化と同じではない。
同社のプライバシーポリシーは、Atletaが氏名、生年月日、性別、身体、睡眠、食事、病気・けが等を取得し、コンディション管理支援とコンサルティングへ使うと明記する。情報の全部または一部を海外を含む外部へ委託する場合があること、開示、訂正、利用停止、第三者提供停止の問い合わせに応じることも示す。情報セキュリティ方針では、未成年者と身体情報を扱う責任を認め、ISMSに基づく管理体制を掲げる。
ただし公開方針だけでは、各学校での実際の権限設定は分からない。保護者が同意しても、選手本人へ誰が何を見るかを年齢に応じて説明しているか。卒業後にデータはいつ消えるか。学校を移ったとき持ち出せるか。メッセージから医療上の緊急性が疑われたとき、誰に守秘義務があり、誰に共有義務があるか。導入契約だけでなく現場の運用規程が必要だ。
複数生徒の部屋が生む新しい圧力
複数宛先は便利だが、グループには同調圧力がある。監督の動画へ全員が即座に「いいね」を押す中、一人だけ反応しないことが意思表示として可視化される。けがを抱える数人を一つの部屋にすれば、互いの状態を知る権限が自動的に生まれるのか。選抜メンバーだけのルームは、外れた選手へ選考を通知する仕組みにもなり得る。
設計では、宛先同士が誰かを表示するか、返信が全員へ見えるか、個別返信へ分けられるか、退出できるかが重要になる。会社発表は複数生徒を選べることを示すが、こうした細部を説明していない。安全性は「複数」という人数だけでなく、情報の流れを誰が制御できるかで決まる。
動画は指導を豊かにし、身体をデータにする
フォーム動画は有用だ。コマ送りで膝、腰、肩の動きを確認し、遠征先から専門家へ相談できる。だが映像は顔、身体、学校名、背景、位置、時刻を含む。更衣室や治療場面、不必要な身体の接写を送らせないルールが必要だ。
2025年の文科省通知は、教師が個人端末で児童生徒を撮影しないこと、学校端末の画像を管理職の許可なく外へ持ち出さないことを求めた。こども家庭庁の2026年ガイドラインも、私物スマホやルール外の方法で児童の写真・動画を撮影・管理することを不適切行為の例に挙げる。公式アプリへ機能を集約する方向はこの政策と整合するが、アプリ内なら何を撮ってもよいわけではない。
子どもの権利は「見守られる権利」だけではない
日本ユニセフ協会が2018年に発表した「子どもの権利とスポーツの原則」は、スポーツに関わる大人へ、子どもの最善の利益、意見表明、安全、発達を中心に置くよう求める。選手を危険から守ることと、選手の声を聞くことは一つの課題である。
大人がすべての通信を見るモデルは、秘密の働きかけを防ぐ一方、子どもが安全に相談する私的空間を狭めることもある。虐待の相談先が同じ指導者集団だけなら、透明性は大人同士の透明性にすぎない。子どもが選べる独立した相談相手、保護者同席の選択、匿名または機密扱いの通報経路が必要だ。
安全とプライバシーは反対語ではない。必要なのは、権力を持つ大人の秘密を減らし、助けを求める子どもの機密性を守る非対称な設計である。
- 生徒へ送れる時間帯と、返信を求めない時間帯。
- 最低何人の大人をメッセージルームへ入れるか。
- 健康、月経、心理情報ごとの閲覧権限。
- 動画を撮影できる端末、場所、目的、保存期間。
- 削除・編集・閲覧・ダウンロードのログを誰が監査するか。
- 指導者が不適切な場合の独立した相談経路。
- 緊急性のある痛み、自傷、虐待の記述を見たときの対応。
- 生徒の同意、保護者への説明、同意撤回の方法。
- 卒業、退部、転校後のアカウントとデータ削除。
- アプリを使えない、使いたくない生徒への同等の連絡手段。
ボタンは文化を補助できるが、文化を代行できない
スポーツ庁が2025~26年に議論した部活動改革の文書は、暴力、暴言、ハラスメント、いじめは閉鎖的な環境と人間関係で起きやすく、複数の指導人材が関わる開かれた環境が重要だとする。Atletaの「全指導者が同席する部屋」は、この発想をソフトウェアへ翻訳したものと言える。
だが複数指導者が画面に存在するだけでは、権力は分散しない。ヘッドコーチが人事、選考、推薦を握り、補助コーチが反対できなければ、デジタルの複数性は名目だけになる。学校管理職が定期的にログを点検し、生徒へ安全性を尋ね、問題時にチーム外の担当者が介入できて初めて、設計が制度になる。
同社は更新でハラスメントが何件減るか、返信負担がどう変わるか、誤送信や不適切動画をどう防ぐかを公表していない。今後は、導入数だけでなく、夜間連絡の減少、個人SNS交換の減少、相談の早期化、事案対応時間、生徒の安心感、誤用件数を測る必要がある。
小さな会社が「安全のインフラ」を売る責任
Atletaは広告付きの一般SNSではなく、学校やチームが契約する専門サービスだ。そこには利点がある。機能を競技現場へ限定でき、個人アカウントを分離し、組織ルールへ合わせられる。2,300チームという会社発表が正しければ、小さな企業の仕様変更が多数の未成年者と大人の日常へ届く。
その規模は責任も増やす。安全を販売上の言葉にするなら、会社は稼働率と使いやすさだけでなく、誤用、苦情、権限乱用、データ侵害、相談対応を説明する必要がある。独立した児童安全専門家による設計レビュー、生徒を含む利用者委員会、透明性報告、学校向けの標準運用規程が考えられる。
技術会社が性暴力やハラスメントを「解決する」と主張すれば過剰だ。今回の発表も「予防を後押し」と表現する。これは適切な慎重さである。製品ができるのは、秘密の接触を少し難しくし、公式記録を残し、必要な会話を速めることまでだ。安全を実現するのは、ルール、研修、権限分離、相談、調査、救済を動かす人間である。
部活ノートの余白を、誰が読むのか
紙の部活ノートには、書いた本人と受け取った先生しか知らない余白があった。その近さが選手を救うこともあれば、権力の密室になることもあった。デジタル化は余白を消さない。誰が読めるか、いつ届くか、どこへ残るかを書き換える。
Atletaの更新が示す答えは現実的だ。生徒へ直接届くが、指導者一人には独占させない。個人SNSほど無制限にせず、全体掲示板ほど公開しない。その「中間の部屋」は、これからの部活動に必要な建築かもしれない。
ただし窓があるだけでは安全な部屋にならない。窓を見る人が責任を負い、子どもが扉を開けられ、外に信頼できる大人がいなければならない。2026年の日本が問われているのは、監督の言葉を記録できるかだけではない。選手の小さな「痛い」「怖い」「今日は返せない」を、組織が聞き、守り、行動へ変えられるかである。
取材ノート・主な資料
本稿は2026年8月5日午前9時41分(日本時間)までに確認した公開情報に基づく。更新直後のため、機能の安全効果は実証済みとは扱わない。導入数とダウンロード数は会社発表として帰属させた。
- クライムファクトリー:Atletaメッセージ機能更新(2026年8月5日)
- Atleta公式:機能、導入事例、コンディション情報
- クライムファクトリー:会社・事業沿革
- エムティーアイ:会社分割による事業承継(2024年)
- クライムファクトリー:プライバシーポリシー
- クライムファクトリー:情報セキュリティ方針
- 文部科学省:教育職員等による児童生徒性暴力等の防止
- 文部科学省:教員性暴力等防止法と取組事例
- こども家庭庁:こども性暴力防止法施行ガイドライン
- 日本スポーツ協会:スポハラ相談と処分
- 日本スポーツ協会:コンディション・チェック
- 日本ユニセフ協会:子どもの権利とスポーツの原則
- スポーツ庁:部活動改革と開かれた活動環境に関する資料
