検証上の注意:これは理論的な証明であり、時間の起源を完全に解明した実験ではない。マクロ操作の所要時間が系サイズとともに長くならないという条件、緩和過程に関する仮定がある。取材資料は11月4日(日本時間)まで。
11月4日日本の共同研究発表日
4人論文著者
2つ導出した第二法則の表現
操作時間証明の重要な前提

冷たい水と熱い水は、なぜ元に戻らないのか

湯のみの熱い茶に冷たい水を注げば、やがて温度は均一になる。だが、何もしないで待っていても、再び熱い部分と冷たい部分に分かれることはまずない。私たちが「時間は過去から未来へ流れる」と感じる背景には、このような変化の片方向性がある。身近な現象を説明する熱力学第二法則は、物理学の中でも抜群の普遍性をもつ。ところが、物質を構成する粒子を記述する量子力学の法則は、こうした不可逆性をそのまま命令してはいない。

理化学研究所、東京大学、大阪大学の共同研究グループは11月4日、量子多体系で熱平衡をどう定め、外部からどのような操作を許すかを厳密に規定することにより、エントロピー増大則を導いたと発表した。原論文は米国物理学会の査読誌『PRX Quantum』に米国時間11月3日付で掲載された。量子力学が「逆向きの変化」を数式上は許すのに、巨大な物体の日常的な操作ではなぜ熱力学に従うのか。その接点に、新しい数学的な橋が架かった。

証明したのは、時間そのものの起源ではない

先に結論の範囲を明確にしておきたい。研究チームが証明したのは、特定の熱平衡の定義とマクロな操作、緩和過程に関する条件の下で、対応する熱力学的エントロピーが減少しないという定理だ。宇宙がなぜ始まったか、時間がなぜ存在するか、あらゆる物理過程が絶対に巻き戻らないかを一挙に解き明かしたわけではない。

むしろ価値があるのは、これまで混同されがちだった「量子力学的に可能な操作」と「熱力学的に実行する操作」を区別し、それでもなお第二法則を説明できることを示した点にある。論文は、仕事を取り出せないというプランクの原理と、エントロピーが減少しないという二つの表現を、それぞれ独立に扱っている。

研究者4人と、量子・熱統計の接点

原論文の著者は千葉侑哉(ちば・ゆうや)、米田靖史(よねた・やすし)、濱崎立資(はまざき・りゅうすけ)、清水明(しみず・あきら)の4氏。理研開拓研究所の濱崎非平衡量子統計力学理研白眉研究チーム、理研量子コンピュータ研究センター、東京大学大学院理学系研究科附属フォトンサイエンス研究機構、大阪大学量子情報・量子生命研究センター(QIQB)に関係する共同研究である。所属・肩書は研究当時と発表時で異なる場合があり、理研の公表資料に従った。

研究対象は、外界と相互作用しない「孤立量子多体系」だ。多数の粒子やスピンが互いに作用する物質を量子力学で表すとき、個々の微視的自由度を極端な精度で操作できると仮定すれば、日常の熱力学では見られない変化さえ記述できる。この自由さをそのまま持ち込むことが、従来の困難の出発点だった。

19世紀に生まれた不可逆性の難問

19世紀の産業革命では、蒸気機関が熱を仕事に変える効率が大きな問題だった。カルノーの熱機関論、クラウジウスやケルヴィンによる第二法則の定式化は、熱と仕事に越えられない制約があることを明らかにした。さらにボルツマンは、熱平衡を多数の粒子の統計的なふるまいと結びつけた。

しかし、粒子の運動法則を時間反転しても物理的に許されるなら、逆向きの運動をなぜ排除できるのか。ロシュミットの「可逆性の反論」、ツェルメロの再帰性に基づく批判は、この緊張関係を浮き彫りにした。現代でも、巨視的な時間の非対称性の説明には、初期条件、確率、どの物理量を観測するかという論点が絡む。今回の研究はその長い歴史の中で、量子状態と熱力学的操作を直接結びつける部分に取り組んだ。

純粋状態なのに熱平衡――量子の直感に反する事実

量子力学で「純粋状態」とは、系全体の状態を確率的な混合ではなく一つの量子状態として記述できることをいう。フォン・ノイマンエントロピーは、系全体が純粋状態ならゼロになる。一方、大きな物質の熱平衡状態は、普通、正の熱力学エントロピーをもつ。両者を同じものとみなすと矛盾が生じる。

近年の量子多体系の研究では、純粋状態であっても、温度やエネルギーのような巨視的な観測量に関して熱平衡と区別できない場合があることが重要視されてきた。問われるのは、すべての微視的情報を知る仮想的な観測者と、限られた量しか測れない実験者が、何を「平衡」と呼ぶかという違いだ。

iMATE――何を測れば平衡と呼べるのか

研究チームは「相加物理量」に注目した。エネルギー、粒子数、全磁化のように、物質を複数の部分に分けたとき各部分の寄与を足し合わせて全体を表せる量である。全系だけでなく部分系についても、こうしたすべての相加物理量の期待値が対応する平衡状態の巨視的な値と一致する量子状態を、iMATE(infinite-observable macroscopic thermal equilibrium)と定義した。

この定義なら、純粋量子状態も熱平衡を表現しうる。熱平衡かどうかを状態の名称や数学的純粋性だけで決めず、実際の熱力学に対応する巨視的な測定値で判定する。厳格でありながら、日常の熱現象に近い視点を与える定義だ。

「何でもできるユニタリ操作」を許さない理由

量子力学のユニタリ操作は、原理的には純粋状態を別の純粋状態へ移すことができる。何でも許せば、平衡状態と呼ばれる純粋状態からも仕事を取り出せる場合があり、第二法則と衝突する。しかし、現実のピストンや磁場の操作で、物質内部の全粒子を一つずつ選び、任意の量子状態へ並べ替えることはできない。

研究チームが導入した「マクロ操作」は、有限個の外部制御変数を時間的に変え、その作用が相加物理量で表される時間発展だ。たとえば外部磁場を変える、容器の体積を変えるといった熱力学的な操作を想定する。この制限を設けることは、量子力学の法則を変更することではなく、物理的に意味のある操作の集合を明確にすることを意味する。

第一の成果――平衡状態から仕事を無限に引き出せない

論文が最初に証明するのは、プランクの原理に対応する主張である。iMATEの状態から始め、外部の制御変数を最終的に元へ戻す「循環的なマクロ操作」をしても、物質の大きさに比例するような巨視的仕事を取り出すことはできない。

特筆すべき点は、純粋状態であってもこの結論が成立することだ。純粋状態から任意のユニタリ操作で仕事を取り出せるという数学上の可能性と、有限個の巨視的制御によって仕事を取り出せないという熱力学的な制約を両立させた。第二法則は単に状態を分類するだけでなく、可能な状態遷移を制約する法則でもある。

第二の成果――熱力学と一致するエントロピーを定義

続いて研究チームは「量子マクロエントロピー密度」を導入した。一定の大きさの領域で得られる量子状態を空間的に平均するという操作を通じて、通常のフォン・ノイマンエントロピーとは異なる巨視的なエントロピーを定義する。iMATEにあるなら、全体として純粋状態でも熱力学的エントロピー密度と一致することを示した。

その上で、マクロ操作を加え、外部制御変数を固定した後の緩和過程を考える。緩和の仕方について論文の条件を満たせば、この新しいエントロピー密度は減少しない。最終的に再び熱平衡へ達する通常の熱力学的な状況では、これは断熱操作に伴うエントロピー増大則に対応する。なお「増大則」という名称でも、数学的には減少しない、すなわち等しい場合も許される。

最大の留保――操作時間に条件がある

この研究の適用範囲を語る際、操作時間の条件を省いてはならない。厳密な結果は、系を巨大にしてもマクロ操作に要する時間が系の大きさに依存して延びない場合に成立する。実際の熱力学には、非常にゆっくりピストンを動かすなど、サイズに応じて長く操作する場合もある。

理研の解説によれば、長時間操作へ理論をそのまま広げると、第二法則に反する遷移の反例を構成できる。これは現実の熱機関が第二法則を破ったという報告ではなく、今回定めた仮定をどこまで延ばせるかという数理上の限界を示すものだ。長時間でも成立するための追加条件を明らかにすることが次の課題であり、研究側は量子シミュレーターによる検証の可能性にも言及している。

量子コンピューターにすぐ応用できるのか

量子コンピューターや量子シミュレーターは、量子多体系の時間発展を実験的に探る舞台になりうる。どの制御を使うと仕事の取り出しや状態遷移が制限されるのかという理解は、将来の量子制御の理論に示唆を与える。ただし、新しい量子計算アルゴリズム、熱機関の効率向上、商用デバイスの性能改善が直ちに実証されたわけではない。

今回の成果は理論研究であり、量子シミュレーターによる長時間操作の反例の実験的検証も、現段階では今後の課題とされている。工学的な応用可能性を語る際は、証明と実験、将来の研究構想を区別する必要がある。

巨視的な世界を見る「目」を選ぶということ

鍋の湯が冷めるとき、私たちは水分子一つ一つの運動を追跡しない。温度計の表示を読む。磁石の性質を調べるときも、数えきれないスピンの個別の向きではなく、全体の磁化を測る。熱力学はもともと、そうした巨視的な情報で世界を扱ってきた。

今回の研究の核心は、そこを曖昧にしないことにある。「何が平衡か」「どんな操作が許されるか」「何をエントロピーと数えるか」を同じ量子力学の言葉で整えた。時間という壮大な謎の最終回答ではない。しかし、冷めた茶が自然に元の熱い茶と冷水に分かれない理由を、量子世界と矛盾しない条件の下で一歩深く理解する成果である。

出典と取材方法

理化学研究所・東京大学の日本語一次資料、査読済み原論文、科学史・科学哲学の解説資料に基づくデスク取材。執筆時点で著者本人への独自インタビュー、理論の独立した再証明、実験検証は行っていない。

  1. 理化学研究所:エントロピー増大則を量子力学から証明(2026年11月4日)
  2. 東京大学大学院理学系研究科:共同研究成果の発表(2026年11月4日)
  3. Yuuya Chiba et al., Second Law of Thermodynamics in Closed Quantum Many-Body Systems, PRX Quantum 7, 043023 (2026)
  4. Stanford Encyclopedia of Philosophy: Thermodynamic Asymmetry in Time (2026 revision)
  5. Stanford Encyclopedia of Philosophy: Boltzmann’s Work in Statistical Physics