北大西洋で海の大循環が弱まったとき、その影響は大西洋の中だけにとどまらなかったらしい。南米最南部、数千キロ離れたパタゴニアでは、風が変わり、雨と雪が増え、海が暖まり、巨大な氷床の縁で融け水が増えた。そして、その変化は川から海へ流れ出した鉱物粒子として、チリ沖3,082メートルの深海底に積み重なった。

海洋研究開発機構(JAMSTEC)、九州大学、東京大学、高知大学、北海道大学などの国際共同研究チームは、その海底堆積物と全球気候モデルを組み合わせ、最終氷期に繰り返した大西洋子午面循環(AMOC)の大規模な弱化が、南半球中・高緯度の気候とパタゴニア氷床をどう動かしたかを調べた。論文は9月14日、米国科学アカデミー紀要Proceedings of the National Academy of Sciencesに掲載された。[1] [2]

これは「現在のAMOCが同じ形で崩壊し、パタゴニアが同じ反応をする」と予言した研究ではない。対象は最終氷期の大規模なAMOC弱化イベントで、当時の氷床、海面、温室効果ガス濃度などの境界条件は現在と異なる。研究の価値は、地球の遠隔地をつなぐ物理的な経路を、地質記録とモデルの両方から検証した点にある。

AMOCとは何か――大西洋を上下に巡る巨大な熱輸送

AMOC(Atlantic Meridional Overturning Circulation)は、日本語では「大西洋子午面循環」と呼ばれる。暖かい表層水が大西洋を北上し、北大西洋の高緯度域で冷却・高密度化して深層へ沈み、冷たい深層水として南へ戻る大規模な循環だ。低緯度から高緯度へ熱を運ぶことで、地球規模の熱分配に関わる。[1]

この循環が弱くなれば、北へ運ばれる熱が減る。では、その「余った熱」はどこへ行くのか。南北両半球の温度変化が時間差を伴って逆方向に動くという考え方は、古気候学では長く「bipolar seesaw」として議論されてきた。2003年にはThomas StockerとSigfús Johnsenが、海洋の熱貯蔵を組み込んだ「thermal bipolar seesaw」の簡潔なモデルを示した。[8]

今回のPNAS論文も、その熱的な南北連動を題名に掲げる。ただし、2026年にはAMOCを「熱のバルブ」と捉え、全球の海洋熱含量と地球の放射収支まで含めて説明し直す研究も出ている。つまり「シーソー」は有力な概念枠組みだが、急激な氷期気候変動の全エネルギー収支を説明する最終形として議論が終わったわけではない。[9]

約150キロ沖、深さ3,082メートルから引き上げた17.4メートル

研究の主役は、衛星でも現在の海流計でもない。泥だ。

JAMSTECの海洋地球研究船「みらい」は2016年度のMR16-09 Leg 2航海で、南緯46.4度、西経77.3度、チリ沖の水深3,082メートルからピストンコアを採取した。JAMSTECの発表によれば全長は17.4メートル。PNAS論文は採取地点をチリ海岸から約150キロ沖と説明する。[1] [2]

このコアは、海底に降り積もった粒子を時間順に保存する細長い記録媒体だ。2017年1月の同航海で得られたPC3は、過去の南大洋炭素循環や炭酸カルシウム保存の研究にも使われてきた。同じ一本の堆積物柱が、異なる分析法によって海洋循環、炭素、氷床の複数の歴史を語っている。[5] [6]

17.4m「みらい」が採取した柱状堆積物試料
3,082m試料採取地点の水深
46.4°S南半球偏西風帯の影響を強く受ける緯度
5mm間隔蛍光X線コアスキャナーによる元素分析

泥の中の「陸」をどう見分けるか

研究チームは、堆積物中の陸起源鉱物についてX線回折による鉱物組成、粒径分布、元素組成を調べた。特に蛍光X線コアスキャナーでは5ミリ間隔で測定し、高い時間分解能で変化を追った。[1]

JAMSTECの発表では、陸起源成分の指標としてチタン(Ti)、海洋性有機物の指標として臭素(Br)を使い、その比から陸由来粒子の相対的な増減を推定したと説明する。さらに鉱物組成を使って供給源を絞り込むと、粒子の増加はパタゴニア氷床西側の縁辺域に対応する地質帯からの流出と整合した。[1]

重要なのは「泥が多かった」こと自体ではない。粒子供給が増えた時期が、北大西洋側の地質記録から復元されたAMOC弱化の時期と、年代測定の誤差範囲内で繰り返し一致したことだ。[1]

ハインリッヒ亜氷期――北大西洋で循環が弱まった千年規模の事件

最終氷期は約11万5千年前から1万2千年前まで続いた。その間、北大西洋には氷山によって運ばれた岩屑が大量に堆積する時期が繰り返し現れ、大量の淡水流入とAMOC弱化を伴った急激な寒冷イベント群が知られている。今回のJAMSTEC発表は、これらを「ハインリッヒ亜氷期」と呼ぶ。[1]

淡水は海水より軽い。北大西洋へ大量に入れば、表層水が沈み込みにくくなり、深層水形成とAMOCが弱まる。そうした千年規模の弱化が起きた時期に、チリ沖の海底ではパタゴニア由来の陸起源粒子が増えた。

しかし相関だけでは、原因の道筋までは分からない。「北大西洋の循環が弱まったから、なぜ南米南部から泥が増えるのか」。そこで研究チームはMIROC4mを使った数値実験へ進んだ。

MIROC4mが再現した「南側で強くなる偏西風」

MIROC4mは、大気と海洋の相互作用を3次元で計算する全球気候モデルで、古気候研究にも使われてきた。研究チームは最終氷期の条件を与え、千年規模のAMOC弱化を再現した。計算にはJAMSTECのスーパーコンピューター「地球シミュレータ(ES4)」が使われた。[1]

結果は、パタゴニア南部で複数の変化が同時に進むことを示した。

モデルが示した主な応答
  • 南緯45度以南で南半球偏西風が強まる。
  • チリ沿岸の南太平洋で海面水温が上昇する。
  • 暖かい海面からの蒸発が増え、水蒸気供給が増える。
  • パタゴニア西岸への降水が増える。
  • 氷床内陸の高標高域では降雪・氷の蓄積が増える。
  • 縁辺の低標高域では温暖化により融解が増える。

一見すると、「雪が増える」と「氷が融ける」は矛盾しているように見える。だが場所が違う。山地内部の寒い高所では増えた降水が雪として積もり、氷床を厚くする。一方、低い縁辺域では気温上昇で融解が強まる。[1]

氷床の質量収支計算では、この内陸の蓄積増加と縁辺の融解増加が同時に起きる。研究チームは、内部で増えた氷が縁へ流れる動きを強めると同時に、縁辺部の融け水が増え、岩石や土砂を海へ運ぶ力が高まった可能性を示した。[1] [2]

氷床全体が単純に「増えた」「減った」のではない。内陸では雪が増え、縁では融解と流出が強まる――その空間的な違いが、海底の粒子記録につながった可能性がある。

なぜ北が冷えると、南太平洋が暖まるのか

AMOCが弱まると、北大西洋へ運ばれる海洋熱輸送が減る。古気候学でいう「thermal bipolar seesaw」の枠組みでは、北半球側が急速に冷える一方、南半球の海洋では熱が相対的に蓄積し、よりゆっくり温まる。[2] [8]

今回のシミュレーションでは、その南大洋・南太平洋側の温暖化に伴って南半球の大気循環も変化し、偏西風帯の南側が強まった。パタゴニアは南半球偏西風が大陸地形へ直接ぶつかる数少ない場所だ。太平洋から運ばれた湿った空気はアンデス山脈に上げられ、世界でも特に降水の多い地域をつくる。

だから偏西風と海面水温が少し変わるだけでも、パタゴニア西側の水循環は大きく変化し得る。今回の研究は、海底の泥をその「雨量計」として使ったとも言える。

パタゴニア氷床は、現在の氷原よりはるかに大きかった

現在のパタゴニアには北パタゴニア氷原と南パタゴニア氷原を中心に山岳氷河が残る。最終氷期には氷域ははるかに広く、アンデス沿いに長大なパタゴニア氷床が形成されていた。[1]

これまでの研究は、モレーンや湖成堆積物、植生変化など陸上の記録から氷床の前進・後退や降水帯の移動を復元してきた。問題は、陸上記録には侵食や堆積の中断があり、千年規模の急変を連続的に追いにくいことだった。

深海底はその弱点を補う。沖合の同じ場所に粒子が積もり続ければ、陸上で失われた時間も比較的連続した層として残る。研究チームが17.4メートルの海底コアに目を向けた理由はそこにある。[1]

粒子の増加は「氷床が単純に縮んだ」証拠ではない

ここは記事で最も注意が必要な点だ。海へ流れる粒子が増えたからといって、「AMOC弱化で氷床が一方向に崩壊した」とは言えない。

論文の解釈はむしろ複合的だ。増えた降水は氷床内陸部の蓄積を促し、氷を厚くする。一方で縁辺部は温暖化し、融解水が増える。氷の流動と水の流出が強まり、陸起源粒子の運搬量が増える。つまり堆積物が記録する「discharge」は、氷床の質量変化だけではなく、水文学、氷河流動、侵食・運搬の組み合わせを反映している。[1] [2]

そのためJapan.co.jpでは、「パタゴニア氷床がAMOC弱化で融解した」と単純化せず、「内陸の蓄積増加と縁辺の融解・流出増加が同時に起きた可能性」と表現する。

南大洋のCO₂までつながる可能性

南半球偏西風は、氷床だけでなく炭素循環にも重要だ。強い風は南大洋の表層水を動かし、深層の水を上向きに引き上げる「風成湧昇」を強めることがある。深層水には長期間蓄えられた炭素が多く含まれ、その一部が表層を通じて大気へ放出され得る。[1]

最終氷期のAMOC弱化時に南半球偏西風帯が変化し、南大洋の湧昇が強まり、大気CO₂上昇に寄与したという仮説は以前からある。今回のパタゴニア記録は、偏西風変化を支持する独立した地質的手掛かりとしてその仮説と整合する。[1]

ただし研究チームは、偏西風の変化が海洋からのCO₂放出にどの程度寄与したかについて、まだ定量的な理解には至っていないと明記している。これは「CO₂放出を証明した」研究ではなく、その経路を支持する新しい証拠を加えた研究だ。[1]

現在のAMOCについて、この研究が言えること・言えないこと

AMOCを直接監視する観測網の歴史はまだ短い。JAMSTECは、直接観測が本格化してから約20年程度で、将来予測されるような大規模弱化は現代の直接観測ではまだ捉えられていないと説明する。[1]

IPCC第6次評価報告書は、21世紀を通じてAMOCが弱まる可能性が高いと評価している。一方で、弱化の大きさ、時期、地域影響には幅があり、最終氷期のハインリッヒ亜氷期をそのまま21世紀へ移すことはできない。[7]

この研究が示していないこと
  • 現在のAMOCが直ちに崩壊するという予測ではない。
  • 将来のパタゴニア降水量を具体的な数値で予測した研究ではない。
  • 最終氷期と現在では氷床規模、海面、温室効果ガス濃度が異なる。
  • 海底粒子の増加だけから氷床全体の体積変化を直接求めたわけではない。
  • 南大洋からのCO₂放出量を定量化した研究ではない。

なぜ「過去」を使うのか

現代観測が20年ほどしかない現象について、100年先の大規模変化を理解するには、観測期間を超えた別の記録が必要になる。古気候学は、氷床コア、サンゴ、鍾乳石、湖底、海底泥などを使い、地球が過去に実際に経験した大きな変化を読む。

もちろん過去は未来の完全な類似例ではない。しかし、物理法則は同じだ。北大西洋の熱輸送が変わったとき、大気と海洋がどの経路で南半球へ応答を伝え得るのか。その「配線図」を検証するには、過去の大変動は貴重な自然実験になる。

今回の研究が強いのは、海底記録だけ、モデルだけではなく、二つを結びつけたところにある。泥の層は「いつ粒子が増えたか」を示す。モデルは「なぜ増え得るか」を試す。両方が同じ方向を向いたことで、北大西洋からパタゴニアまでの長い因果鎖が一本につながった。

次は東アジアへ

JAMSTECは今後、同じ手法を東アジアやユーラシアへ広げる考えを示している。日本を含む東アジアも偏西風の影響を強く受けるが、AMOCの大きな弱化がこの地域の降水や季節風にどう響くかを、短い現代観測だけで評価するのは難しい。[1]

その意味で、今回のパタゴニア研究は南米だけの物語ではない。北大西洋の流れが弱まったとき、海と大気は地球をまたいでどのように信号を運ぶのか。その問いを解く方法そのものが、日本の将来気候を考える道具になり得る。

チリ沖の3,082メートルの海底には、北大西洋から始まった変化の痕跡が残っていた。地球の気候には、地図の距離ほど大きな隔たりはない。