498人の報告が突きつけた問い
ある人は母子健康手帳に接種記録が残り、ある人は学校で追加接種を受けた記憶があいまいだ。予防接種の制度が何度も変わってきた日本では、本人が「受けたはず」と思っていることと、実際に何回接種したかを確認できることは同じではない。はしかが再び増えるなか、この違いが公衆衛生の問題となっている。
東京大学医科学研究所が10月9日に発表した研究によると、2026年第20週までの国内の麻疹(ましん、はしか)報告数は498人。2020年以降の各年の年間報告数を、この時点ですでに上回っていた。患者は27都道府県に及び、海外からの持ち込みを起点とする感染の連鎖が複数確認されたという。[1][2]
数字は2026年5月時点の研究対象期間の報告数であり、10月13日現在の年間累計ではない。研究が示すのは、流行の規模だけでなく、免疫の空白がどこに残り、診断と接種歴の情報がどこで途切れているかという構造的な弱点だ。
患者の中心はどの世代へ移ったのか
東大医科研の湯地晃一郎(ゆじ・こういちろう)特任准教授、安達英輔(あだち・えいすけ)講師らの研究グループは、国の感染症発生動向調査の公開集計を調べた。人口10万人当たりの患者数が最も多い年齢階級は、2019年の30~34歳から2026年には20~24歳へ移っていた。[1]
研究者が注目するのはおおむね1995~2005年生まれである。これは「その年代の全員が未接種」という意味ではない。1回接種から2回接種へ制度が移る過程で、個人が受けられた定期接種の機会や、学校を通じた追加接種の対象が異なったため、記録の確認と必要に応じた個別相談が重要になるということだ。
年齢層別の患者数は、受診・診断・報告の状況にも左右される。研究は出生年だけで個人の免疫状態を判定する方法を示したわけではない。
1978年から2006年へ――制度変更の歴史
日本で麻疹の定期予防接種が始まったのは1978年。当初は1回接種が基本だった。2006年には麻疹・風疹混合(MR)ワクチンを使う2回接種制度へ移行し、現在は1歳児と小学校入学前の1年間の幼児が対象になっている。[3][4][7]
2007~2008年の流行を受け、2008年度から2012年度には中学1年生と高校3年生に相当する年代に時限的な追加接種の機会が設けられた。現行制度だけを見れば単純に見える接種歴も、当時の学年、居住地、実際の接種状況までたどると個人差がある。
厚生労働省の説明では、2000年4月2日以降生まれには制度上2回の定期接種機会があり、それより前に生まれた人には1回、または定期接種機会がなかった場合がある。これは接種「機会」の説明であり、実際の接種回数や免疫の証明ではない。[3][4]
接種率95%という目標と、その距離
研究チームによると、2024年度の麻疹含有ワクチンの接種率は1回目92.7%、2回目91.0%。どちらも感染の連鎖を抑える重要な目安である95%を下回っていた。[1]
麻疹は非常に感染力が強く、免疫のない集団では1人の患者から平均12~18人に広がるとされる。自治体ごと、学校や職場ごとに免疫の空白が集まれば、国全体の平均接種率だけでは局所的な感染拡大の危険を捉えきれない。
接種率の改善は単に広報を強めれば済む話ではない。接種を受けられる日時や費用、過去の記録を調べる方法、医療機関の案内、言語上の障壁など、実際のアクセスを左右する条件も検討する必要がある。
「接種済み」でも診断からこぼれる修飾麻疹
研究で注意を促したのが「修飾麻疹」だ。部分的な免疫がある人では、典型的な麻疹ほど症状が目立たない場合がある。研究の集計では、2回接種の記録がある患者159人のうち89人、56%が修飾麻疹に分類された。[1]
ここでいう56%は「2回接種した全員の56%が感染する」という意味ではまったくない。すでに麻疹患者として報告された、2回接種記録のある159人のなかでの割合だ。分母を取り違えれば、ワクチンの有効性について誤解を生む。
修飾麻疹は通常の麻疹より感染性が低い傾向があるとされるが、発熱や発疹が軽いため診断が遅れる可能性がある。医療従事者には接種歴があっても麻疹を鑑別診断から外さない慎重さが求められる。
2015年の「排除」は何を意味したのか
日本は2015年、WHO西太平洋地域の検証によって麻疹の排除状態にあると認定された。これは土着のウイルスによる継続的な感染が一定期間途切れたことを意味し、国外から患者が持ち込まれる可能性がゼロになったという意味ではない。[6]
世界的な人の往来が続く限り、渡航先での感染、帰国後の発症、国内での二次感染が起きる余地はある。感染源をたどる際には、単に海外旅行歴を尋ねるだけでなく、ウイルスの遺伝子型、接触歴、接種歴を組み合わせる必要がある。
研究者は2023年、2025年、2026年に優勢だったウイルス遺伝子型の違いも分析した。ただし遺伝子型だけで個別患者の感染国を断定することはできない。排除認定がただちに失われたと報告した研究でもない。
記録をどう確かめるか――家庭と職場の現実
接種歴の確認では、母子健康手帳、予防接種済証、学校・自治体・医療機関に残る資料など、本人が利用できる記録が出発点となる。記録が見つからないからといって、未接種あるいは免疫がないと自動的に決まるわけではない。
厚生労働省は、麻疹にかかったことが確実な人や過去の接種状況について不明点がある人は、医師に相談するよう案内している。医療・保育・教育関係の仕事や海外渡航の予定がある人は、特に感染時の影響と接種歴を確認する意義が大きい。[3][4]
職場が従業員の健康情報を扱うときは、必要性とプライバシーを両立させたい。出生年だけで一律に免疫がある、ないと決めつけたり、特定の国からの旅行者を原因視したりすることは、医学的にも公正な対応ではない。
研究者が求める四つの対策と、次の検証
東大医科研の研究者が挙げたのは、制度移行期の世代への追加接種の検討、海外渡航前の接種歴確認、2回目接種率の95%以上への引き上げ、接種歴・ウイルス遺伝子型・感染経路に関する監視データの充実という四つの方向だ。[1]
ただし、これらは研究グループの提言であり、10月13日までに政府が新たな成人一斉接種制度を決定したことを意味しない。また研究は公表済みの集計資料に基づく分析で、個々人の接種台帳と免疫検査を直接照合した全国調査ではない。
「昔、接種を受けたはずだ」という記憶と、公的に確認できる記録の隔たり。麻疹の再拡大が照らしたのは、感染症対策の進歩に伴って残された、この見えにくい問題である。対策は不安をあおることではなく、正しい記録、適切な相談、そして必要な接種機会を一人ひとりにつなぐことから始まる。
出典・参考資料
- 東京大学医科学研究所・2026年10月9日研究発表
- 研究論文:Emerging Infectious Diseases, DOI 10.3201/eid3211.261187
- 厚生労働省「麻しん(はしか)に関するQ&A」
- 厚生労働省「MRワクチン」
- 厚生労働省「麻しん(はしか)」2026年対策資料
- 世界保健機関:Japan measles elimination and imported cases (2018)
- 厚生労働省/麻しん・風しん定期接種の制度変遷
資料確認:2026年10月10日。498人は2026年第20週までの報告であり、10月現在の累計ではない。提言は政府の決定ではない。
