内藤寛太郎(ないとう・ひろたろう、44歳)が、プロ21年目で国内男子レギュラーツアー初優勝をつかんだ。9月20日、北海道の札幌ゴルフ倶楽部・輪厚(わっつ)コースで閉幕した第52回ANAオープン。通算25アンダー、263という大会新記録で、2位に5打差をつけた。長く優勝に届かなかった選手が、最後はスコアでも大会史に名を刻んだ。[1][2]
ただし、「初優勝」のひと言で、それまでの歩みが空白になるわけではない。下部のチャレンジツアーではすでに3勝。上の舞台で結果を残しても、翌年以降の出場機会を安定させることは容易ではなかった。輪厚で実ったのは、勝ち方を知らない選手の奇跡ではなく、勝った経験を持ちながら、より厳しい競争の中で居場所を探し続けた選手の挑戦だった。[3]
63で抜け出し、66で締めた4日間
最終成績は、内藤が263、佐藤大平が268。大岩龍一と香妻陣一朗が269で3位に並んだ。内藤は初日の67から、2日目に63と大きく伸ばし、3日目も67。最終日は66で締めくくった。1日だけの爆発で逃げ切ったのではなく、4日間すべてでスコアを伸ばしている。[1]
| ラウンド | スコア | 通算 |
|---|---|---|
| 第1日 | 67 | 5アンダー |
| 第2日 | 63 | 14アンダー |
| 第3日 | 67 | 19アンダー |
| 最終日 | 66 | 25アンダー |
最終日のスタート時点で、2位の佐藤とは3打差だった。リードがあっても、初優勝を前にした18ホールは別の試練になる。日本ゴルフツアー機構(JGTO)の最終日速報によると、内藤は2番、4番、チップインの5番でバーディー。後半には10番のボギーもあったが、13番でバーディーを奪い、15番から17番まで3連続バーディーを重ねた。[1][2]
結果は8バーディー、2ボギー。ミスを一度も出さなかったのではない。ミスの後にもスコアを伸ばし、追う選手に必要な打数を増やした。最終順位の5打差だけでは見えにくいが、この終盤の加速が勝利の輪郭をはっきりさせた。[2]
「プロ21年目」に含まれる、いくつもの再出発
福島県郡山市出身。JGTOの選手紹介では、ゴルフを始めたのは14歳で、東北福祉大学を経て2006年にプロテストに合格した。大学卒業後にはゴルフ場での研修生活があり、その後は地元のゴルフショップで働きながら腕を磨いた。3日目のJGTO記事は、日大東北高校のゴルフ同好会から大学へ進んだ経歴も伝えている。[3][4]
ここでいう「21年目」は、2006年を起点とする年数の数え方だ。「プロとして丸21年間が経過した」という意味ではない。プロフィールに記されたツアープレーヤー転向日は2006年12月21日。見出しに収まりやすい数字だからこそ、意味を取り違えずに読みたい。[3]
2008年にはチャレンジツアーで初優勝し、2013年にも勝った。2020–21年の統合シーズンには初の賞金シードを獲得したものの、2022年に失った。2024年には下部ツアーで3勝目を挙げたが、2025年のレギュラーツアー賞金ランキングは71位で、再びシードには届かなかった。[3]
「シード」は、成績などに基づく出場資格を語るときに使われる言葉だ。予選を通過すること、優勝争いに加わること、翌シーズンも継続して出場できる立場を得ることは、それぞれ違う課題になる。内藤の経歴には、その間を行き来した時間がある。下部ツアーでの優勝を、今回のレギュラーツアー初優勝と分けて記す必要も、そこにある。
輪厚は、以前にも手応えをくれた場所だった
2023年のANAオープンでは4位に入っている。一方、今大会開幕時のJGTO記事によると、それまでの8度の出場では6度の予選落ちもあった。相性がよい、とだけ言い切れる場所ではない。好結果の記憶と、週末に進めなかった記憶の両方を抱えての挑戦だった。[5]
転機の一つとして本人が挙げていたのが、8月の「Sansan KBCオーガスタ」で投入した新しいパターだ。JGTOは、その大会での7位タイと、パッティングが心理的な余裕につながったという内藤の説明を伝えている。用具の変更だけで優勝を説明することはできないが、長い経験を積んだ選手にも、調整を続ける余地があることを示すエピソードではある。[5]
さらに、2日目の63は本人の自己ベストだった。44歳になっても、記録は過去の蓄積だけではなかった。今週新たに出した数字が、次の2日間を先頭で戦う足場になった。[6]
家族に贈りたいものと、支える人の時間
JGTOの優勝後の記事は、父親の安堵と、スポンサーの支援を伝えている。ロピアによる支援は2021年から続いていた。本人だけでなく、結果が安定しない時期にも関係をつないできた人たちにとっての勝利でもあった。[7]
内藤はJGTOに「諦めずに頑張ってきてよかった」と語った。同記事によると、副賞のANAファーストクラス往復ペア航空券は両親に贈りたいと考えている。華やかな賞品の話が、長く心配をかけた家族への思いにつながるところに、この初優勝の重みがある。[7]
ただ、努力を続ければ必ず同じ結末になる、と読み替えることはできない。競技を続けるには、技術に加えて、出場の機会、練習の環境、生活を支える条件が要る。内藤の歩みは、本人の粘り強さと、それを競技生活として続けられるようにした支えを、併せて見ることで理解が深まる。
郡山から、次の世代へ
JGTOは内藤を、福島県出身者として初めて国内男子ツアーを制した選手と位置づけた。その意味は、出身地の記録にとどまらない。別の優勝後の記事では、郡山でジュニア向けの大会を始め、子どもたちにゴルフに触れる機会をつくってきたことを紹介している。[2][8]
同記事には、2011年の東日本大震災当時、東京にいた内藤が家族とすぐに連絡を取れなかった経験も記されている。震災を今回の勝因に結びつけることはできない。それでも、地元を思い、次の世代に何かを返したいという本人の言葉を理解する背景にはなる。地域との関わりは、優勝した日に突然生まれたものではなかった。[8]
尾崎将司の大会史に、新しい数字を刻む
ANAの公式大会史によれば、大会は1973年の「全日空札幌オープン」に始まり、初代優勝者は尾崎将司だった。1994年に尾崎が記録した通算20アンダーに、2024年、岩﨑亜久竜が並んだ。今回の25アンダーは、その大会記録を5打更新したことになる。[9]
異なる時代のスコアだけで選手の強さを比較することはできない。天候もコースの設定も用具も違う。それでも、半世紀を超す大会の記録表に、初優勝の選手が新しい基準を置いた意味は小さくない。
JGTOによると、44歳123日での初優勝は国内男子ツアーの初優勝年齢で5番目の年長記録。年齢はこの勝利を際立たせるが、4日間の内容まで「遅咲き」という言葉だけで片づけたくはない。63で前に出て、67で首位を守り、66で勝ち切った。長く待った勝利には、勝つための具体的なプレーがあった。[2][1]
出典・資料
成績と経歴はJGTOの公式資料、大会史はANAの資料で確認した。本人・家族・支援者の発言と個人的な経験はJGTOの取材記事に基づく。本誌が直接取材した発言ではない。記録から読み取れる意味については、本稿の分析として記した。資料確認は2026年9月20日(日本時間)。
