極夜を越えて、生き物の一年を測る
冬の北極海を覆う氷の下にも、生き物の時間が流れている。光が戻るまで食べ、成長し、繁殖の機会を待つ小さな動物プランクトン。その一年を、幼生から成体まで通して数量化した研究が公表された。東北大学は10月8日、メトリディア・ロンガ(Metridia longa)の生活史と年間生産量を解明したと発表した。研究の舞台は西部北極海。成果を理解する鍵は「いま調査した」のではなく、長く保存されてきた観測資料を新しい問いで読み直したことにある。
1997~98年、漂流する海氷上の観測所
用いられたのは、米国とカナダが中心となって実施したSHEBA(Surface Heat Budget of the Arctic Ocean)計画の試料だ。1997年から1998年にかけ、海氷の上に設けられた観測拠点が氷とともに漂流し、通常の船舶では追いにくい季節も含めたデータを得た。北極の海洋調査は航行しやすい夏に偏りがちで、海氷と極夜に覆われる冬の食物網には空白が残る。約30年前の試料は、その空白を埋める長期観測の貴重な記録となった。
「メトリディア・ロンガ」は何者か
メトリディア・ロンガはカイアシ類に属する甲殻類の一種で、動物プランクトンとして海中を漂いながら生活する。カイアシ類は植物プランクトンなどの生産した有機物を高次の生き物へつなぐ食物網の重要な構成員だ。ただし、同種の全個体が常に植物プランクトンだけを食べているという意味ではない。研究論文は、本種がさまざまな餌を利用する特徴も紹介している。海の小さな生き物を調べる意義は、個体の珍しさだけでなく、生態系全体でどれだけ物質が生産されるかを明らかにする点にある。
幼生から成体までを含めた測定
研究チームは、ノープリウス幼生からコペポダイト期を経て成体に至る各発育段階を対象に、出現数、体重と季節的な変化を分析した。SHEBAでは一般的な150マイクロメートルのネットに加え、微小な幼生を採る53マイクロメートルの細かなネットも使われていた。この試料構成が、従来の成長段階の一部だけでなく生活史全体を調べるうえで役立った。ただし細かな網でも初期幼生を取り逃がす可能性があり、採集できる深さも日によって異なる。データの欠けを補う推定が必要な研究である。
一年世代、繁殖期は初夏
解析されたメトリディア・ロンガはおおむね一年で世代を交代する生活史を示した。冬には夏より浅い層に分布し、繁殖は主として5~7月と推定された。ノープリウス幼生の初期段階は6~9月ごろに多くみられ、成体はそれより前の春から初夏に多かった。こうした発育段階のつながりから、海氷下で生きる個体群の年間サイクルを再構成した。これはすべての北極海域で繁殖期が同じだという結論ではなく、対象となった西部北極海の試料から得られた推定だ。
424.5ミリグラムが意味するもの
論文が示した年間生産量は、海面積1平方メートル当たり乾燥重量で424.5ミリグラム。ここでいう「生産量」は漁獲量でも個体数でもなく、成長段階を通じて新たに生み出された生物量の推定値だ。同属のメトリディア・パシフィカを富山湾で調べた既報値を単位換算したものと比べると、およそ35%にとどまった。だが地域、種、観測条件が違うため、北極が単純に「生物の少ない海」だと断定してはならない。研究者は、年中続く海氷による一次生産の制約などを可能性として挙げている。
多くても生産量は小さい幼生
数として多数見つかるノープリウス幼生でも、推定された年間生産量への寄与は約0.03%と極めて小さかった。成長したコペポダイト期の生産が大部分を占め、特に2~6月の後期発育段階の増加が大きい。これは「たくさんいる」ことと「新たな生物量を多く生み出す」ことが異なると教える結果だ。食物網を数量的に理解するには、出現数の一覧だけでは足りず、成長の速度と個体の重さを併せて見なければならない。
地球温暖化の影響はどこまで言えるか
北極海では海氷の減少と融解期間の長期化が続き、海の光環境や植物プランクトンの生産、動物プランクトンの生活史が変わり得る。今回の研究は、そうした変化を評価する基準線を提供する。しかし、1997~98年の試料を分析した研究だけから、2026年の生産量が何%増減したかは示せない。論文は、この観測で一次生産量を直接測定していないとも明記する。海氷の変化が本種の繁殖や生産をどの方向へ動かすかを確かめるには、近年の観測と比較する必要がある。
数値は精密でも不確かさは残る
論文の年間生産量は小数点以下まで示されているが、その値を厳密な確定値として読むのは誤りだ。漂流観測所の採集位置と水深は一定ではなく、初期幼生の乾燥重量は近縁種の値から推定した。時系列の補間・平滑化は短期間のピークを弱める可能性もある。さらに、生産量推定に使った段階別回帰は各区間で4~5点に基づき、統計的有意性が確認されていない。著者自身、424.5ミリグラムを概数的な、水柱全体にわたる基準推定値と位置付けている。
過去の試料が未来の観測を支える
著者には北海道大学で研究を進めた小口雄之介氏、金東佑氏らに加え、東北大学の山口篤教授、米国のウッズホール海洋研究所やロードアイランド大学の研究者が名を連ねる。山口教授は研究当時、北海道大学大学院水産科学研究院に所属していた。日本と米国の研究機関が長年にわたる観測資産を科学成果へと変えた事例でもある。将来、海氷が減った北極海で同じ生物の生産量がどう変わるかを調べる際、この古い氷上観測所の記録は比較の土台になる。海の未来を理解する手掛かりが、過去に集められた小さな生物の中に眠っていた。
