6,212という数字の中身
厚労省が7月15日に公表した「令和7年度 過労死等の労災補償状況」は、二つの異なる傷病群を合計する。脳梗塞、くも膜下出血、心筋梗塞など脳・心臓疾患の請求が1,254件。うつ病、適応障害など精神障害の請求が4,958件。合計6,212件である。
前年の4,810件から1,402件増えた。内訳は脳・心臓疾患が224件増、精神障害が1,178件増。つまり増加分の84%は精神障害だった。精神障害だけで全請求の約80%を占める。過労死という言葉が呼び起こす「長時間残業の末の心臓発作」だけでは、現在の行政統計を理解できない。
請求、決定、認定は同じではない
請求件数は、その年度に労災保険給付を求めた件数である。仕事が原因と確定した件数ではない。家族が発症との関連を疑っても請求しない場合があり、制度を知らない、証拠を集められない、雇用関係を恐れる、診断へ到達しない人は統計に現れない。一方、基準変更や報道、相談支援で請求しやすくなれば、実際の発症率が同じでも数字は増える。
年度中の「決定」は4,692件で、支給と不支給を合わせる。うち支給決定は1,310件、約28%。ただし単純な認定率ではない。2025年度の決定には以前の年度の請求が入り、2025年度の請求の多くは将来決まる。6,212を分母、1,310を分子にすることはできない。
| 指標 | 2025年度 | 何を示すか |
|---|---|---|
| 請求 | 6,212 | 年度中に給付を求めた入口。発症全数でも認定数でもない。 |
| 決定 | 4,692 | 年度中に行政判断が出た件数。古い申請を含む。 |
| 支給決定 | 1,310 | 業務災害または複数業務要因災害として認めた件数。 |
| 死亡・自殺等の支給 | 145 | 死亡に加え、精神障害では自殺未遂を含む。 |
身体の過労は、運輸と高年齢層に残る
脳・心臓疾患の請求1,254件のうち死亡は303件。支給決定は217件で前年より24件減り、死亡認定67件は同数だった。業種では運輸・郵便257件、他に分類されないサービス166件、建設164件。中分類では道路貨物運送が請求179件、支給50件で最多である。
職種でも輸送・機械運転が請求231件、支給55件。自動車運転従事者だけで215件と53件を占める。年齢は50代の請求508件、60歳以上452件が突出し、高齢化する労働力と肉体的負荷の組み合わせを映す。
認定された事案の残業時間は、一つの月で100~120時間未満が27件と最多。2~6カ月平均では60~80時間未満が48件で最も多い。これは60時間なら安全という意味ではない。認定は時間に加え、連続勤務、勤務間隔、不規則勤務、深夜、出張、身体負荷、心理的負荷などを評価する。
精神障害は、医療・福祉の現場へ集中した
精神障害の請求は医療・福祉1,288件、製造720件、卸売・小売645件。医療・福祉の中でも社会保険・社会福祉・介護が706件、支給151件で中分類最多だった。職種では専門・技術職1,367件、事務1,137件、サービス733件。一般事務だけで833件、支給109件に達する。
高い件数をそのまま「最も危険な率」と呼べない。産業・職種別の就業者数を分母にした発生率がこの発表にはなく、雇用規模、女性比率、年齢、請求認知、労組や相談窓口へのアクセスも異なる。それでも医療・介護の絶対数は無視できない。人手不足、感情労働、交代制、生命への責任、利用者・家族との対人摩擦が重なる。
精神障害の支給決定は1,082件で26件増。未遂を含む自殺は請求215件、支給76件だった。男女、雇用形態、事業規模、診断別の詳細を分母付きで追わなければ、誰が制度からこぼれているかは分からない。
残業20時間未満が最多、という誤読
精神障害の支給決定を残業区分で見ると「20時間未満」が57件で最多、40~60時間未満が55件だった。この一行を「残業は無関係」と読むのも、「20時間で病気になる」と読むのも誤りである。表は時間が把握でき、当該区分へ集計された認定事案の分布であり、各区分の労働者数を分母にしたリスクではない。
精神障害の認定は、強い心理的負荷となる出来事を中心に評価する。暴行、執拗な人格否定、重大事故、セクハラ、顧客からの攻撃、急な配置転換、仕事量・責任の大幅増加は、短い時計時間でも深い傷を残し得る。逆に長時間労働は単独でも、他の出来事の負荷を強める要素でもある。
労働時間を軽視してはいけない。同時に、タイムカードだけを健康管理にすれば、勤務中の恐怖、屈辱、孤立、感情抑制、予測不能な呼び出しを見落とす。現代の過労対策は時間規制と心理社会的危険の管理を両輪にする必要がある。
上司からの攻撃が222件
精神障害の支給決定を原因となった「出来事」で見ると、上司らから身体的・精神的攻撃などのパワーハラスメントが222件で最多だった。顧客、取引先、施設利用者らからの著しい迷惑行為と、セクシュアルハラスメントが各127件。仕事内容・仕事量の大きな変化が113件で続く。
これらは単純な原因票ではない。認定基準が出来事を類型化し、強度を総合評価した結果である。一つの事案に複数の負荷が絡む場合もある。それでも、職場の健康危機が「働いた時間」だけから「どのように扱われたか」へ広がったことは明瞭だ。
2023年の認定基準改正は、顧客や利用者からの著しい迷惑行為、感染症などの危険が高い業務を具体的出来事に追加し、パワハラの6類型や性的指向・性自認への攻撃も明記した。2025年度の急増の一部は、この言語と経路が制度へ浸透した可能性がある。基準拡張は架空の病気を作るのでなく、以前は分類しにくかった負荷を見えるようにする。
過労死という言葉が生まれるまで
戦後日本の高度成長は、長い労働時間、企業への強い帰属、男性稼ぎ主型の雇用を美徳と結びつけた。脳・心臓疾患の労災認定基準は1961年に設けられたが、仕事との因果を証明する壁は高かった。1970年代末、研究者らが「過労死」という言葉を用い、個人の体質や不運とされた突然死を社会的な労働問題へ置き直した。
1988年に弁護士、医師、遺族らが「過労死110番」を開始すると、見えなかった事案が全国から集まった。1990年代、若い社員の過労自殺をめぐる裁判などが、長時間労働と心理的圧迫に対する企業の安全配慮責任を可視化した。行政は認定基準を改め、2001年には脳・心臓疾患で長期の疲労蓄積を評価する枠組みを拡張した。
この歴史は、統計が自然発生するのではないことを教える。病名、認定基準、相談窓口、証拠、遺族の運動、判例がそろって初めて、私的悲劇が公的記録になる。
2014年、遺族の運動が法律になった
過労死等防止対策推進法は2014年6月に成立し、同年11月施行。過労死等を、過重負荷による脳・心臓疾患と、強い心理的負荷による精神障害・自殺として法に定義した。国に調査研究、啓発、相談、民間団体支援を求め、11月を啓発月間とした。
重要なのは、法律が補償だけでなく予防を国家の責務にしたことだ。認定は壊れた後の制度であり、本人や家族に立証の負担を残す。予防は、労働時間、要員、仕事設計、裁量、暴力、相談、復職を壊れる前に変える。
しかし法律ができても、請求は増え続けた。これは政策失敗だけでも、成功だけでもない。認知が広がれば初期には請求が増える。真の成果を見るには、発症率、休業、離職、欠勤、睡眠、労働時間、職場調査、相談から是正までの時間を合わせる必要がある。
働き方改革が閉じた穴、残した穴
2018年成立の働き方改革関連法は、時間外労働の上限を法律へ入れた。大企業は2019年、中小企業は2020年から、原則月45時間・年360時間。特別事情でも年720時間、単月100時間未満、複数月平均80時間以内などの上限を設けた。年5日の有給取得義務や産業医機能の強化も進んだ。
建設、自動車運転、医師などは5年猶予され、2024年4月から適用されたが特例が残る。2025年度の脳・心臓疾患で道路貨物運送が最多だったことは、法律の施行だけで需要構造が変わらない現実を示す。荷待ち、短納期、運賃、医療提供、工期、人手不足は一社の勤怠管理を超える。
上限は安全な目標値でもない。過去の極端な残業を抑える床であり、上限近くまで働かせる許可証ではない。副業・兼業、持ち帰り、連絡待機、自己申告の過少記録、管理監督者、裁量労働など、時計からこぼれる仕事もある。
ハラスメントは個人間の相性ではない
企業のパワハラ防止措置は2020年に義務化され、中小企業も2022年から対象となった。相談窓口、方針周知、迅速な事実確認、被害者・行為者への対応、再発防止、プライバシー保護、不利益取扱い禁止が求められる。
それでも認定最多がパワハラである。研修動画と匿名窓口だけでは、権力構造を変えないからだ。成果目標と要員が矛盾し、管理職が部下を追い詰めることでしか達成できないなら、暴言は個人の性格でなく経営システムの出力になる。通報先が人事評価者と同じ、調査が長い、異動は被害者だけ、取引先を失う恐れから顧客攻撃を我慢させる制度も沈黙を作る。
予防は、相談件数をゼロにすることではない。安全な組織では、早い段階で相談が一時的に増えることがある。報復なく届き、危険を止め、原因を直し、復職・治療を支えたかを測る。
ケア労働が危機の中心にある理由
医療、介護、福祉の仕事は、他者の痛み、怒り、不安を受け止めながら感情を管理する。人手不足で一人の負担が増え、夜勤と不規則勤務が回復を削り、ミスが生命へ影響する。利用者や家族からの暴力・迷惑行為に「サービスだから」と耐える文化もある。
介護の精神障害請求が多いことは、働く人が弱いからではない。要求が高く、資源と裁量が不足し、道徳的責任が離職を難しくする構造を示す。現場へセルフケアだけを教えると、組織が作った危険を個人へ返す。
必要なのは最低配置を上回る余力、暴力時にサービスを中断する権限、複数対応、記録と警察・医療連携、休息、夜勤設計、管理者支援、心理的応急処置、治療と所得保障である。価格・報酬制度や利用者側の理解も関わり、事業所だけで解けない。
小さな会社と非正規が統計から消えるとき
50人以上の事業場ではストレスチェック制度が2015年から義務化された。小規模事業場は産業医、保健師、人事・法務の資源が乏しく、経営者と相談相手が同じこともある。制度の網が小さいほど、病気が少ないとは限らない。
労災保険は雇用労働者を広く対象にするが、請負、フリーランス、名目的な管理職、複数就業、外国人、短期雇用では、自分が対象か分からず証拠も分散する。複数の勤務先の負荷を合算する「複数業務要因災害」は制度化されたが、2025年度の支給は脳・心臓7件、精神4件にとどまる。少なさが制度利用の難しさを示すのか、該当の少なさかは追加検証が要る。
会社規模、雇用形態、国籍、地域別に請求・決定・就業者分母を公開しなければ、最も声を上げにくい人が数字の外に残る。
企業が明日から変える七つの仕組み
| 仕組み | 実務 | 測るもの |
|---|---|---|
| 実労働時間 | PC、入退館、車両、連絡ログと申告の差を確認。持ち帰り・待機も扱う。 | 上限超過だけでなく勤務間隔、連勤、深夜、修正差。 |
| 心理社会的危険 | ハラスメント、暴力、仕事量、裁量、役割衝突を部署別に評価。 | 平均点でなく高リスク部署と是正完了。 |
| 独立した相談 | 上司、人事以外の経路、外部窓口、匿名性、報復禁止。 | 初動時間、保護措置、報復、再発。 |
| 顧客暴力 | 禁止行為、対応打切り、複数対応、録音・通報、取引停止基準。 | 件数、休業、同一顧客反復、管理職介入。 |
| 要員と仕事設計 | 納期・目標を人員に合わせ、急変時の負荷審査を入れる。 | 欠員、残業、離職、仕事量変化後の症状。 |
| 治療・復職 | 有給、所得、医療、段階復職、再発防止、機密管理。 | 復職維持、再休業、本人の安全評価。 |
| 取締役会監督 | 重大事案と根本原因を安全指標として審議。 | 請求を隠すのでなく危険除去への投資と結果。 |
この統計をもっと強くするには
件数表は重要だが、率がない。業種、職種、年齢、性別、雇用形態、事業所規模ごとの就業者または労働時間を分母にし、請求率と支給決定率をコホートで示す必要がある。申請年度ごとに、何件がいつ支給・不支給・継続となったか追跡すれば、処理遅延と認定差を分けられる。
2023年基準改正の前後で、カスハラなど新項目が請求・認定をどれだけ動かしたかも分析できる。複数出来事、残業、事業規模、ハラスメント対策、労組、離職との関係を匿名データで検証する。却下理由と不服申立ての結果、診断から請求までの期間も必要だ。
労災統計は重症で制度へ到達した人に偏る。労働者調査、傷病手当、医療受診、休業、離職、自殺統計、企業の勤怠、ストレス調査を連結せずに、日本の仕事由来疾病の全体像は測れない。プライバシーを守った独立研究アクセスが要る。
労災補償は最後の安全網である
支給決定は治癒ではない。病気、失職、家族関係の崩壊、立証の年月を経て届く。会社にとって認定が少ないことも、安全の証拠ではない。請求を抑え、退職へ追い込み、記録を残さなければ数字は低くなる。
良い職場は、病気になった人へ制度利用を説明し、証拠を保存し、申請を妨げず、治療と復職を支える。同時に、申請が必要になる前に負荷を除く。補償担当と予防担当を分けず、事案から職場設計へ戻す。
助けが必要な人へ
眠れない、気分の落ち込みが続く、動悸や激しい頭痛、自傷・自殺の考えがある場合は、仕事の証明を待たず医療機関や緊急窓口へ。差し迫った危険では119または110。厚労省「こころの耳」は働く人と家族の相談窓口を案内する。労災の可否は治療を受ける条件ではない。
1,402件増が日本に問うもの
数字には二つの日本が重なる。一つは、過労死という言葉を生み、遺族が電話相談を始め、裁判と研究を通じて因果を認めさせ、法律と上限規制を作った日本。もう一つは、なお運転手を長時間拘束し、介護職へ怒りを受け止めさせ、上司の攻撃を指導と呼び、病気になった本人へ立証を求める日本である。
請求増は、政策が無意味だった証明ではない。認知、基準、相談が届いた可能性がある。病気が29%増えた証明でもない。だが、4,958人・家族が精神障害を仕事と結び付けて国へ申し立てたという事実は、それだけで重大である。
次の改革は残業時間を数えるだけでは足りない。人を壊す仕事の設計、権力、暴力、顧客関係、要員不足、所得不安を危険源として扱う。安全は「我慢できる人」を選ぶことでなく、我慢を必要としない工程を作ることだ。
主な資料と調査方法
- 厚生労働省「令和7年度 過労死等の労災補償状況」2026年7月15日(脳・心臓疾患、精神障害、裁量労働、複数業務要因の別表を含む)
- 令和6年度の同統計(前年比較)
- 心理的負荷による精神障害の労災認定基準、2023年改正
- 建設・自動車運転・医師等への時間外労働上限規制、働き方改革関連法ハンドブック
- 厚労省「しごとより、いのち。」過労死等の定義と防止
- 令和7年版過労死等防止対策白書 第2章
- 職場におけるハラスメント防止措置
- 働く人のメンタルヘルス・ポータル「こころの耳」
- ILO:日本の労働衛生行政措置の歴史
編集部注:数値は厚労省の2025年度集計を再計算し、端数は明記した場合を除き概数。請求、年度中の決定、支給決定は同一コホートではなく、単純な認定率を算出していない。業種・職種別件数には就業者分母がないため危険率として順位付けしていない。行政統計は未請求・未診断・制度対象外の人を含まず、発症全数ではない。歴史の統合と予防提案は編集部分析。医療・法的助言ではない。為替欄は指定値「1 US Dollar = 162.49 Japanese Yen」。7月21日午前1時27分UTCを日本時間2026年7月21日午前10時27分へ換算した。画像は現代の編集イラストで歴史的な北斎作品ではない。
